坂本龍馬(京都・霊山墓地)
土佐藩郷士。嘉永元(1848)年一四歳のとき、高知域下築屋敷に住む小栗流剣術指南目根野弁治に入門、六(1853)年3月その目録を与えられ、同年江戸に出て京橋桶町の北辰一刀流千葉貞吉に師事、翌安政元(1854)年6六月帰国、三(1856)年8月再び江戸に出て修行を続け、五(1858)年正月北辰一刀流免許を受けた。剣士としてその名を知られたが、文久元(1861)年時勢に感じて土佐勤王党に参加、翌二(1862)年正月長州萩に久坂玄瑞を訪い、帰藩後土佐藩論の因循にあきたらず、3月24日脱藩した。在郷当時絵師河田小竜について中浜万次郎の漂流談と海洋発展論を聞き、これに共鳴するところがあったが、脱藩後江戸に出て勝海舟を訪い、その新世界観に感激して攘夷論を棄て、勝門下生として航海術を修行、勝の信頼を受けて神戸海軍操練所の開設には積極的に協力した。勝のほか松平春嶽・大久保一翁・横井小楠らの影響をうけて日本改造の基案を胸底に描くことができた。しかし慕府当局の保守勢力は勝海舟の進歩性・積極性をよろこぼず、元治元(1864)年竜馬は勝の失脚を機会に薩摩藩の保護をうけ、翌慶応元(1865)年同志を率いて長崎に商杜(のち海援隊)を経営、これを媒体として二(1866)年正月薩長二藩の同盟を成立させ、幕府の長州再征を失敗させた。三(1867)年後藤象二郎を説き、山内容堂を動かして将軍慶喜の大政奉還を実現させたが、このとき同年6月後藤と共に長崎から海路上京する船中でまとめた大政奉還・公議政治など八ヵ条の構想は、世に「船中八策」と称せられて有名である。かつて薩長同盟成立直後、竜馬は伏見寺田屋で幕吏に襲われ危地を脱したが、大政奉還後、三年11月15目京都の下宿近江屋で見廻組に暗殺された。享年33歳。

楢崎龍(神奈川県横須賀市・信楽寺)
京都の勤皇医師、楢崎将作の長女。安政六(1859)年におこった安政の大獄で捕らえられた将作が文久二(1862)年に獄死し困窮した生活を送る。元治元(1864)年坂本龍馬と出会い、伏見の寺田屋に預けられた。慶応二(1866)年の寺田屋事件では坂本に捕吏の襲来を伝えて窮地を救い、負傷しながらも脱出した坂本を伏見の薩摩藩邸で看護した。その後坂本と結婚したが、慶応三(1867)年に坂本が暗殺され、高知の坂本家に身を寄せるもすぐに離別、明治八(1875)年横須賀の行商人西村松兵衛と結婚する。明治三十九(1906)年1月15日死去。享年66歳(56歳説もある)。

千葉佐那(山梨県甲府市・清運寺)
北辰一刀流師範千葉定吉の次女。父周作の門下として小太刀免許皆伝、長刀師範を受ける。その才は群を抜き、兄重太郎と共に道場で弟子に稽古をつけるほどのものだった。嘉永六(1853)年4月、入門した坂本龍馬と出会い、のち婚約したとされ、結納品として父定吉が龍馬に短刀一口を贈り、手持ちのなかった龍馬は袷衣の片袖を千切って結納品の代わりにしたという。明治十五(1882)年学習院女子部の舎監となり、また千住で営む家業の鍼灸院で施術も行っていた。明治二十九(1896)年10月15日没。享年59歳。


坂本家累代墓(高知県高知市・丹中山)
父八平、母幸、兄権平・次姉栄・三姉乙女・高松太郎(坂本直)ら龍馬縁の人物が眠る。特に次姉栄は龍馬脱藩の折名刀「陸奥守吉行」を与えたことにより自害した。また三姉乙女は龍馬の事実上の親であり師であり、最も慕われていた。竜馬が書き送った書簡が多く残されている。

藤吉(京都・霊山墓地)
大津の人で坂本龍馬の僕。元力士雲井竜。先斗町「魚卯」出前持ち。慶応三(1867)年11月15日坂本と共に襲われ16日死亡。享年19歳。
ひょっとしたら日本で一番知られている御墓かもしれません。坂本さんについてはあちこちで語り尽くされている感がありますので特に何も申しますまい。2001年京都国立博物館で特別展をやっていましたが、おりょうさんの新発見写真の原本を見ることができました。新聞の写真など比べ物にならず、思わず見惚れてしまいました・・・
そのおりょうさんの御墓を訪れる機会がSARSのお陰で意外に早く訪れました。京急大津駅から徒歩5分という所にありましたが、平日のためなのか知られてないのか誰もおられませんでした。おりょうさんの御墓を前にしたときようやく坂本さんと一緒にできるなぁと安堵したものです。
さらに坂本さんのご家族と従僕藤吉さんの御墓までお入れできましたのでこれで勢ぞろいってことでしょうかね?

さらにさらに2010年春、ただただこのためだけに甲府まで走りました!。ついに念願のさな様と会うことができました。
これで本当の意味で勢ぞろいとなるのでしょうが…おりょうさんとさな様、ケンカしないかな…。
いや、待てよ…。よく坂本さんが明治になっても生きてたらどうしたか?って話が出てきますよね。
自分の夢を叶えるために世の仕組みまで変えてしまった坂本さんのこと、もしかしたら…維新後世界の海援隊をやろうと意気込んでいたのに、情報網の普及でさな様におりょうさんと結婚したことがバレ、交通まで発達する昨今の情勢を鑑みたらこのままではいずれさな様に殺されると踏んだ坂本さんは、とりあえず政界に身を置いて「一夫多妻制」の成立に尽力し、この難局を乗り切った…なんてことはないかな…。

あと、坂本さんとおりょうさんとさな様…全員15日が命日なんですね(^▽^;)。まぁ厳密にいえば坂本さんだけ旧暦であり、新暦だと命日は12月10日になるんですけど。そこには目を瞑って、祥月命日のお参りも月命日の御供養もみんな一緒にできて楽でいいかも?。
中岡慎太郎(京都・霊山墓地〔上〕/高知県安芸郡北川村・松林寺〔下〕)
土佐藩郷士。学間は間崎哲馬を師とし、剣術は武市瑞山に就いて修め、父を輔けて北川郷大庄屋見習となったが、はやくから憂国の志をいだいていた。文久元(1861)年8月武市瑞山が勤王党を結成するにあたり、ただちにこれに参加、翌二(1862)年10月には同志50人と結束して江戸に出て、尊攘運動に参加した。12月信州松代に佐久問象山を訪間して時勢論を聞き、京都を経由して土佐に帰ったが、三年八月十八日の京都政変以来、藩当局の勤王党弾圧が強化されたので、10月19日土佐を脱藩して防州三田尻に走り、石川誠之助と変名した。三田尻で編成された忠勇隊に属し、翌元治元(1864)年7月東上部隊に参加、7月19日の禁門の戦いで負傷して長州に退走、それ以来三条実美の身辺にあって周旋に努めた。慶応元(1865)年正月三条以下五卿の筑前太宰府に移転の際は、西郷隆盛に会見して移転条件を交渉し、それを機会に薩摩・長州両藩の和解と同盟とを企図、のち坂本竜馬の協力を得て翌二(1866)年正月その目的を達成した。幕府の長州再征失敗を機として討慕の策を進め、三(1867)年5月には板垣退助を西郷隆盛に紹介して討慕の密約を結び、自らは京都白川に陸援隊を組織、坂本竜馬の海援隊とともに土佐藩の遊軍となった。岩倉具視の信頼を受けて挙兵の機を待っていたが、同年11月15日の夜、坂本竜馬をその下宿近江屋に訪間会談中、見廻組に襲われて重傷を負い、17日絶命した。享年30歳。
中岡さんの暗殺に坂本さんが巻き込まれたという説もあるほどですが、実際なんか坂本さんの陰に隠れてしまってる感のある中岡さんです。しかしさすがに高知の中岡慎太郎館では当然中岡さんが主役、これでもかって言うくらいに中岡さんの凄さをアピールしていました(いや実際に凄いもんです)。近くに復元された生家にもお邪魔いたしましたが、簡素ながら意外に大きな(庄屋ですから)お住まいで、風景の良さも相俟ってあこがれてしまいました。ここに来れたのも檮原村のバスのおかげです(いや皮肉じゃなく本当に!人間万事塞翁が馬ってことですか)。
慶応三年 坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺