篠崎彦十郎(東京都杉並区・大円寺/鹿児島県鹿児島市・南洲寺)
薩摩藩士。島津斉興・斉彬に仕え、中小姓より供目付に進み、江戸詰が多かった。慶応元(1865)年物頭格として太宰府に五卿を護衛した。のち江戸三田藩邸の留守居役に進んだ。慶応三(1867)年の冬、西郷隆盛・大久保利通の命を受けて東下した益満休之助・伊牟田尚平らは薩摩藩邸に相楽総三以下約五百名の浪人を集め、江戸の内外を騒擾させて幕府側を挑発した。このため江戸取締りの庄内藩兵を主力とした幕軍が12月25日薩摩屋敷を襲って戦闘が始まった。彦十郎は藩邸の責任者として奮戦したが及ばず、目付役児玉雄一郎ら五十名と共に薩摩藩邸において戦死した。享年42歳。この報告が上方に達すると慶応四(1868)年正月3日鳥羽伏見において戦端が開かれるに至った。
立花直記(東京都杉並区・大円寺)
伽衆兼医師。慶応三(1867)年12月25日三田藩邸で戦死。享年不明。
白石弥左衛門(東京都杉並区・大円寺)
藩船「胡蝶丸」船長。慶応三(1867)年12月25日三田藩邸で戦死。享年不明。
児玉雄一郎(東京都杉並区・大円寺)
薩摩藩士。初め島津山城(前藩主斉宣三男)の付小姓となり、安政の初め藩主斉彬の小姓役に役に転じ、機密の事に与った。斉彬の没後、藩主忠義に仕え小納戸役にあげられた。安政の大獄が起こると、藩内の有志は水戸藩士と謀って義挙を企て大挙脱藩を計った。このとき忠義実父の久光の小姓役谷村昌武と共に「誠忠の士面の面々へ」忠義手書の論書を有志に伝達した。のち讒者の言により君側を離れ、江戸藩邸の目付役となった。慶応三(1867)年12月25日の幕兵の江戸薩摩藩邸焼討の際に柴山良助らと捕えられ、江戸伝馬町の獄において斬られた。享年36歳。
天辰雄右衛門(東京都杉並区・大円寺)
中小姓。慶応三(1867)年12月25日三田藩邸で戦死。享年不明。
山下惣左衛門(東京都杉並区・大円寺)
附士。慶応三(1867)年12月25日三田藩邸で戦死。享年不明。
助六(東京都杉並区・大円寺)
従卒。慶応三(1867)年12月25日三田藩邸で戦死。享年不明。
利右衛門(東京都杉並区・大円寺)
人足。従卒とも。慶応三(1867)年12月25日三田藩邸で戦死。享年不明。
新太郎(東京都杉並区・大円寺)
竜太郎とも。慶応三(1867)年12月25日三田藩邸で戦死。享年不明。
安右衛門(東京都杉並区・大円寺)
小者。従者。慶応三(1867)年12月25日三田藩邸で戦死。享年不明。
内藤栄助(東京都杉並区・大円寺)
附士。慶応三(1867)年12月25日三田藩邸で戦死。享年不明。
佐野金次(東京都杉並区・大円寺)
薩摩藩士。慶応三(1867)年12月25日三田藩邸で戦死。享年不明。
黒田松栄(東京都杉並区・大円寺)
藩医。慶応三(1867)年12月25日三田藩邸で戦死。享年不明。
落合孫右衛門(東京都杉並区・大円寺)
表小姓。慶応三(1867)年12月25日三田藩邸で戦死。享年不明。
落合ハナ(東京都杉並区・大円寺)
孫右衛門の妻。慶応三(1867)年12月25日三田藩邸で戦死。享年不明。
今村善兵衛(東京都杉並区・大円寺)
附士。慶応三(1867)年12月25日三田藩邸で戦死。享年不明。
花崎錦蔵(東京都杉並区・大円寺)
表小姓。慶応三(1867)年12月25日三田藩邸で戦死。享年不明。
岩元新次郎(東京都杉並区・大円寺)
従卒。慶応三(1867)年12月25日三田藩邸で戦死。享年不明。
大崎猪之助(東京都杉並区・大円寺)
足軽。慶応三(1867)年12月25日三田藩邸で戦死。享年不明。
大崎庄八(東京都杉並区・大円寺)
附士。慶応三(1867)年12月25日三田藩邸で戦死。享年不明。
大崎米次郎(東京都杉並区・大円寺)
中小姓。慶応三(1867)年12月25日三田藩邸で戦死。享年不明。
次郎右衛門(東京都杉並区・大円寺)
従卒。慶応三(1867)年12月25日三田藩邸で戦死。享年不明。
治郎八(東京都杉並区・大円寺)
従卒。慶応三(1867)年12月25日三田藩邸で戦死。享年不明。
甚八(東京都杉並区・大円寺)
従卒。慶応三(1867)年12月25日三田藩邸で戦死。享年不明。
助次郎(東京都杉並区・大円寺)
従卒。慶応三(1867)年12月25日三田藩邸で戦死。享年不明。
関太郎(東京都杉並区・大円寺)
江戸邸留守居添役。慶応三(1867)年12月25日三田藩邸で捕えられ、佃島で斬(獄死とも)。享年不明。
竹内雅春(東京都杉並区・大円寺)
伽衆兼医師。慶応三(1867)年12月25日三田藩邸で戦死。享年不明。
手塚正之進(東京都杉並区・大円寺)
足軽。慶応三(1867)年12月25日三田藩邸で戦死。享年不明。
野元与太郎(東京都杉並区・大円寺)
従卒。慶応三(1867)年12月25日三田藩邸で戦死。享年不明。
孫助(東京都杉並区・大円寺)
慶応三(1867)年12月25日三田藩邸で戦死。享年不明。
山口直昌(東京都杉並区・大円寺)
慶応三(1867)年12月25日三田藩邸で戦死。享年不明。
江戸の三田にある薩摩藩下屋敷には、武力討幕を画策する西郷吉之助さんや大久保一蔵さんらの意向で慶応三(1867)年秋ごろから浪士が屯集を始め、藩邸にいる薩摩藩士の伊牟田尚平さん・益満休之助さんが、関東在住の討幕勢力である下総の郷士小島四郎(相楽総三)さんらと結んで各地で武力蜂起を行い、幕軍の兵力分散を謀りました。11月には出流山挙兵隊が、12月には甲府城攻略隊と相模荻野山中藩陣屋襲撃隊が出撃します。残った勢力は伊牟田さんや益満さんらの指揮の下で江戸市中撹乱のために強盗や放火といった破壊活動を始めます。
これが挑発行為だと察している幕府は、討幕の口実を与えないために乗ろうとはしませんでしたが、12月23日に江戸城二の丸が炎上するという事件が起こります。伊牟田さんの放火によるものとされていますが、この事件によって老中だった淀藩主稲葉正邦侯はついに薩摩藩討伐に動きました。被害を蒙っていた庄内藩も願い出て討伐に参加。他にも上山藩・鯖江藩・岩槻藩が加わり、三田の薩摩藩邸に向かいました。

12月25日早朝、庄内藩・上山藩などの藩兵は三田の薩摩藩邸と隣の佐土原藩邸を取り囲み、庄内藩士阿部藤蔵さんが使者として藩邸に入り、藩邸留守居役の篠崎彦十郎さんを呼んで不逞を働いた浪士の引渡しを要求しましたが、篠崎さんは返事を保留したために交渉は膠着。阿部さんは藩邸を去るにあたり篠崎さんが藩邸の外まで見送ったところを襲われて庄内藩兵によって槍で刺殺。藩邸への総攻撃が開始されます。
多勢に無勢の藩邸勢は、多くの犠牲者を出し、相楽さんや伊牟田さんら一部の浪士は血路を開いて脱出に成功。品川から小船を出して、同じく品川停泊中に幕艦回天に臨検を受けそうになり逃亡した薩摩藩運搬船翔鳳丸と合流して紀州へ逃亡しました。また別の一部は小船で羽田に上陸しましたが捕縛され、それも逃れた浪士らは赤報隊などに合流していきました。


皮肉なのは、この事件に関わった人々の末路でしょうか。藩邸攻撃を仕掛けた伊牟田さんは、江戸騒擾の真相を隠蔽するためなのか、部下の罪など様々負わされて切腹を命ぜられています。益満さんは幕府に捕縛されたものの勝海舟さんに救われて西郷・勝の江戸城無血入城協議に先立つ西郷・山岡鉄舟会談の斡旋をします。そして表向き上野戦争で負傷戦死したことになってますが、こちらも暗殺されたとの噂が立っています。相楽さんは赤報隊として活躍するも偽官軍の汚名を着せられて処刑と見事なまでに関係者が死に絶えたのは、この薩摩藩邸焼討事件に至るまでの経過が暗黒史であることを露骨に示しています。

また藩邸攻撃を決断した稲葉正邦侯は、領地淀藩が鳥羽伏見の戦いに於いて無断で官軍側に寝返ったため、幕府に居場所を失って老中を辞任。淀藩に戻って恭順したため、結果的に重い処罰を受けることもありませんでした。養子だった正邦侯が生まれた二本松藩は、幕府を支持して西軍の猛攻を受け、二本松少年隊の悲劇を生み、壊滅的打撃を受けた上に5万石も減封されたことに比べたら皮肉なものです。

さらに焼討の主力となった庄内藩は、戊辰戦争で西軍になまじ善戦してしまったために、降伏相次ぐ東北諸藩から浮いてしまい、大して負けてもないけど恭順する羽目に陥った挙句12万石の減封、さらには移封という棘の道を歩まされたかと思いきや、薩摩の西郷さんの肝煎りにより30万両の献金で旧領に返り咲くという離れ業をやってのけました。同じ立場だった会津藩のことを考えると信じられない結末でしょう。

この事件、一体誰が得したのだかわかりません…。
慶応三年 薩摩藩邸焼討事件