伊束甲子太郎(京都市・戒光寺)
新撰組隊士。水戸で剣術とともに水戸学を学び、武田耕雲斎らと出会い、江戸に出て深川佐賀町の伊東誠一郎道場に入門。師が没した文久元年ごろに娘ウメの婿となり、道場を継いで伊東姓を名乗る。元治元年秋、江戸東帰中の藤堂平助と接触して新選組入隊を決意し、同年10月15日、隊士募集を兼ねて東帰していた近藤勇らと上洛する。これを機に甲子太郎と改名。同年12月の編成では二番組長を務め、翌年2月の山南敬助の切腹に弔歌を詠んでいる。慶応元年の編成で参謀となる。入隊埋由は新選組の勤王化にあったとされ、慶応三年1月には隊内同志らと西国遊説に出て、伊束は宇田兵衛の名で新井忠雄らと九州に赴き、時局論とともに新選組からの分離活動を行った。帰京後の12月13日、薩摩などの内情を探るためとして分離を了承され、20日には藤堂ら十数人と三条城安寺に引き移り、翌日は五条善立寺に移転し、6月に高台寺月真院に移るまでの屯所とした。分離にあたっては、孝明天皇の御陵衛士を拝命し、山陵奉行の配下となる一方で薩摩藩の庇護を受けた。11月18日、近藤の招待を受けてその妾宅に赴いた帰途、七条油小路南で新選組の待ち伏せによって斬殺される。
藤堂平助(京都市・戒光寺)
新撰組隊士。千葉周作に剣を学び、のち近藤勇と交わり、近藤らの新撰組に入隊した。やがて新撰組が幕府の走狗に過ぎたいのにあきたらず、慶応三年6月伊東甲子太郎らと行動を共にして脱隊し、洛東高台寺内月心院に寓L、山陵衛士となった。近藤勇の好計にたおれた伊東の急を聞いて同志十余名と現場に駆げつけ、遺骸を駕籠で高台寺へ運ぼうとした時、辺りに伏せた隊士に再び襲われ、服部三郎兵衛・毛内監物と共に伊東と同じ運命に倒れた
毛内監物(京都市・戒光寺)
新撰組隊士。代々弘前藩の用人を勤めた家の出身。万延元年桜田門外の変後に脱藩した。学問があり、延戸で旗本の子弟の学問指南をして生活していたが、元治元年新撰組に加わった。慶応元年新撰組文学師範頭とたった。同三年幕府より論功行賞あらんとするに当り、議論の末伊東甲子太郎・藤堂平助らと新撰組を脱退し、孝明天皇山陵衛土となった。同年11月同志伊東の遭難を救わんとして新撰組多数と戦い、討死した。
服部三郎兵(京都市・戒光寺)
新撰組隊士。赤穂藩士。早くより勤王の志をいだき、老臣某藩政を専らにし私曲多きため彼を殺し、脱藩して江戸に走り、伊東甲子太郎と交を結んだ。その後伊東ら同志と京都に上り、元治元年11月新撰組に入ったが、局長近藤勇が勤王の志士を害し、市民の財を掠めるのを見て、慶応三年6月伊東らと共に脱隊し、高台寺の搭頭月真院に移り、伊東は山陵衛土頭に、三郎兵衛らは山陵衛士となった。たまたま伊東が謀略をもって新撰組におびき出され、油小路で撃殺されたのを聞き、毛内平二ら7人とこれに赴いたが、新撰組の伏兵にあって闘死した
非情にわかりにくい所にあります。場所がわからないならば、戒光寺の本堂に上がると寺務所に地図がありますので参考にすると良いでしょう。途中に平家物語の「扇の的」で有名な那須与一の墓所もあります。
慶応三年 油小路の変