慶應之役小倉藩戦死者墓
福岡県北九州市
福聚寺
林源治の家来 慶応二(1866)年6月17日豊前で戦死。享年不明。
矢部久平 小倉藩士。生駒三郎家来。慶応二(1866)年6月17日豊前で戦死。享年不明。
藤永喜左衛門 佐藤志馬家来。小倉藩士。慶応二(1866)年6月17日豊前門司で戦死。享年不明。
天野利平 小倉藩士。高橋唯之丞家来。慶応二(1866)年6月17日豊前田ノ浦で戦死。享年不明。
岩崎甚兵衛 小倉藩士。馬廻格。慶応二(1866)年6月17日豊前田ノ浦で戦死。享年不明。
浮淵由次郎 岡野六右衛門組。小倉藩士。慶応二(1866)年6月17日豊前田ノ浦で戦死。享年不明。
児崎兼右衛門 小倉藩士。市岡武左衛門組。慶応二(1866)年6月17日豊前田ノ浦で戦死。享年不明。
田中栄作 小倉藩士。小林喜右衛門家来。慶応二(1866)年6月17日豊前下曽根で戦死。享年不明。
坪根源作 小倉藩士。小笠原織衛家来。慶応二(1866)年6月17日豊前田ノ浦で戦死。享年不明。
林田健兵衛 小倉藩士。平松栄蔵家来。慶応二(1866)年6月17日豊前大里で戦死。享年不明。
三沢嘉平の家来 慶応二(1866)年6月17日豊前門司で戦死。享年不明。
矢島四郎右衛門 小倉藩士。馬廻。慶応二(1866)年6月17日豊前田ノ浦で戦死。享年不明。
安井賢司 小倉藩士。使番。慶応二(1866)年6月17日豊前田ノ浦で戦死。享年不明。
宿久市之助 小倉藩士。組抜勤番。慶応二(1866)年6月17日豊前田ノ浦で戦死。享年不明。
山田次郎右衛門 小倉藩士。馬廻。慶応二(1866)年6月17日豊前大里で戦死。享年不明。
中川元平 小倉藩士。三毛五蔵家来。慶応二(1866)年6月18日豊前下曽根で戦死。享年不明。
藪近左衛門 小倉藩士。普請奉行。慶応二(1866)年7月3日豊前大里で戦死。享年不明。
天野岩之助 小倉藩士。組外勤番慶応二(1866)年7月3日豊前大里で戦死。享年不明。
家有健之助 小倉藩士。慶応二(1866)年7月3日豊前大里で戦死。享年不明。
岩崎文左衛門 小倉新田藩士。慶応二(1866)年7月3日豊前大里で戦死。享年不明。
香野栄助 小倉藩士。組外勤番。慶応二(1866)年7月3日豊前大里で戦死。享年不明。
下条六郎家来 慶応二(1866)年7月3日豊前大里で戦死。享年不明。
沼田甚五兵衛 小倉藩士。物頭。慶応二(1866)年7月3日豊前大里で戦死。享年不明。
原田庄次郎 小倉藩士。馬廻。沼田甚五兵衛組。慶応二(1866)年7月3日豊前大里で戦死。享年不明。
本田孫太郎 小倉藩士。馬廻。慶応二(1866)年7月3日豊前大里で戦死。享年不明。
皆川専左衛門 小倉新田藩士。慶応二(1866)年7月3日豊前大里で戦死。享年不明。
湊甚之丞 小倉藩士。馬廻。慶応二(1866)年7月3日豊前大里で戦死。享年不明。
山野井平太良 小倉藩士。書院番。慶応二(1866)年7月3日豊前大里で戦死。享年不明。
吉村勝蔵 小倉藩士。杉生募組。慶応二(1866)年7月3日豊前大里で戦死。享年不明。
我有健之助 小倉藩士。馬廻。沼田甚五兵衛組。慶応二(1866)年7月3日豊前大里で戦死。享年不明。
我有杢平 小倉藩士。沼田甚五兵衛家来。慶応二(1866)年7月3日豊前大里で戦死。享年不明。
浦野才三郎 小倉藩士。馬廻。慶応二(1866)年7月27日豊前鳥越で戦死。享年不明。
柏木清太郎 小倉藩士。馬廻格慶応二(1866)年7月27日豊前鳥越で戦死。享年不明。
香坂七郎右衛門 小倉藩士。慶応二(1866)年7月27日豊前鳥越で戦死。享年不明。
酒井惣太郎 小倉藩士。小姓組。慶応二(1866)年7月27日豊前鳥越で戦死。享年不明。
白沢守之助 小倉藩士。慶応二(1866)年7月27日豊前鳥越で戦死。享年不明。
山田民次郎 小倉藩士。書院番慶応二(1866)年7月27日豊前鳥越で戦死。享年不明。
小松虎吉 小倉藩士。平松治兵衛家来。慶応二(1866)年8月5日豊前領内で戦死。享年不明。
村上弥十郎 小倉藩士。小笠原出雲家来。慶応二(1866)年8月11日豊前苅田村で戦死。享年不明。
村山弥十郎 小倉藩士。小笠原出雲家来。慶応二(1866)年8月11日豊前苅田村で戦死。享年不明。
柳田広太郎 小倉藩士。小笠原出雲家来。慶応二(1866)年8月11日豊前苅田村で戦死。享年不明。
久藤民之助 領内沼村の庄屋。慶応二(1866)年8月15日豊前で戦死。享年不明。
市蔵 夫卒。慶応二(1866)年8月16日豊前で戦死。享年不明。
内山長右衛門 井出浦村嚮導。慶応二(1866)年8月17日?豊前紺屋ヶ原で戦死。享年不明。
加藤勘之丞 小倉藩士。馬廻。慶応二(1866)年8月17日豊前朽網村で戦死。享年不明。
萩原惣之助 小倉藩士。平瀬八右衛門組。慶応二(1866)年8月17日豊前下曽根村で戦死。享年不明。
常五郎 軍夫。慶応二(1866)年8月18日豊前で戦死。享年不明。
浦野端蔵 小倉藩士。柏木弥十郎組。慶応二(1866)年8月21日豊前下曽根村で戦死。享年不明。
杉永兵次郎 小倉藩士。小沢理右衛門組。慶応二(1866)年8月21日豊前下曽根村で戦死。享年不明。
溝口勘三郎 小倉藩士。杉生墓組。慶応二(1866)年8月21日豊前下曽根村で戦死。享年不明。
茂吉 夫卒。慶応二(1866)年8月21日豊前下曽根村で戦死。享年不明。
森下保右衛門 小倉藩士。小姓組。慶応二(1866)年8月21日豊前下曽根村で戦死。享年不明。
柴崎剛蔵 小倉藩士。小宮民部家来。慶応二(1866)年8月28日豊前下曽根村で戦死。享年不明。
原勝太衛門 小倉藩士。大羽内蔵助家来。慶応二(1866)年8月28日豊前下曽根村で戦死。享年不明。
村上茂右衛門 領内木下村嚮導。慶応二(1866)年8月28日豊前下曽根村で戦死。享年不明。
庄右衛門 軍夫。慶応二(1866)年9月3日豊前で戦死。享年不明。
大貫兼右衛門 小倉藩士。大脇平治衛門組。慶応二(1866)年9月4日小倉千堂で戦死。享年不明。
千代吉 町夫。小倉京町十一町目の商。慶応二(1866)年9月7日小倉石原町で戦死。享年不明。
木田直七 農兵。木下村の庄屋。慶応二(1866)年9月16日豊前蒲生村で戦死。享年不明。
三木友卜 茶人。慶応二(1866)年9月22日豊前紺屋ヶ原で戦死。享年不明。
喜代助 夫卒。慶応二(1866)年10月6日小倉城下室町で戦死。享年不明。
藤島重左衛門 小倉藩士。高田治部右衛門組。慶応二(1866)年10月6日豊前志井村で戦死。享年不明。
松本東三郎 小倉藩士。組外。慶応二(1866)年10月14日豊前で戦死。享年不明。
大石半平 小倉藩士。慶応二(1866)年長州兵と戦い戦死。享年不明。
大野岩之丞 小倉藩士。慶応二(1866)年夏、戦死。享年不明。
小田重次郎 小倉藩士。慶応二(1866)年夏、豊前で戦死。享年不明。
形倉愛次郎 小倉藩士。慶応二(1866)年夏、豊前で戦死。享年不明。
川崎菊蔵 役夫。慶応二(1866)年夏豊前で負傷、10月5日没。享年不明。
沢田甚五兵衛 小倉藩士。慶応二(1866)年夏、豊前で戦死。享年不明。
福江源吉 農兵。慶応二(1866)年夏、豊前笠松で戦死。享年不明。
松崎貞助 小倉藩士。慶応二(1866)年戦死。享年不明。
村上儀右衛門 小倉藩士。慶応二(1866)年豊前で戦死。享年不明。
柳田庄太郎 小倉藩士。慶応二(1866)年豊前で戦死。享年不明。

小倉戦死各霊之墳
熊本県熊本市・
安国寺
麻生又次郎 肥後藩士。慶応二(1866)年7月27日豊前大里で戦死。
高橋作左衛門 肥後藩士。慶応二(1866)年7月27日豊前大里で戦死。
田辺格太郎 肥後藩士。慶応二(1866)年7月27日豊前大里で戦死。
野村虎太郎 肥後藩士。慶応二(1866)年7月27日豊前大里で戦死。
浜治七郎平 肥後藩士。慶応二(1866)年7月27日豊前大里で戦死。
安田猪八 肥後藩士。慶応二(1866)年7月27日豊前大里で戦死。
山野平八郎 肥後藩士。慶応二(1866)年7月27日豊前大里で戦死。

もへい様寄贈
徳川家茂(東京都台東区・寛永寺)
第十三代紀州藩主、第十四代征夷大将軍。弘化四(1847)年4月十二代斉彊の養子となり、嘉永二(1849)年閏4月紀州家を襲いだ。嘉永四(1851)年10月元服、従三位左近衛権中将に叙任、将軍徳川家慶の偏諱を賜わって名を慶福と改め、安政二(1855)年12月宰相に任ぜられた。安政五(1858)年6月将軍徳川家定の継嗣となり江戸城に移ったが、7月家定の薨去に会い、同月21日名を家茂と改め、同年10月24日正二位権大納言に叙任、翌25日内大臣に任ぜられ、征夷大将軍に補された。幕府は条約調印と将軍継嗣問題を強行して朝幕間に対立を招いたので、これが融和を図る一方策として、万延元(1860)年家茂の夫人に孝明天皇の妹和宮の降嫁を要請、紆余曲折の末、文久二(1862)年2月家茂は和宮と婚儀を挙げた。同年7月朝旨を奉じて一橋慶喜を将軍後見職に、松平慶永を政事総裁職に任じ、参勤交代制の緩和、軍制や学制の改革その他幕政の建議による賀茂社行幸に供奉、ついで石清水行幸は供奉は病に託してこれを辞し、6月江戸に帰った。元治元(1864)年正月再び上洛、従一位右大臣に叙任、5月摂海防備を巡視して江戸に帰った。同年禁門の変後の第一次征長の役は戦いに至らず収まったが、幾許もなく第二次征長の役となり、慶応元(1865)年5月家茂自ら進発、翌月京都に入り、ついで大坂城に入った。たまたまこの年9月英仏米蘭四国連合艦隊が兵庫沖に来り条約勅許を迫るに及び、事態極めて切迫したが、一橋慶喜の尽力により勅許を得てこの問題を解決した。しかしながら慶応二(1866)年6月より始まった長州軍との戦闘において、幕軍に利あらず、この苦境の裡に家茂は7月20日大坂城中に薨じた。享年21歳。幕府は8月20日に至り喪を発した。

もへい様寄贈
静寛院宮(東京都台東区・寛永寺)
第十四代征夷大将軍徳川家茂夫人。幼名を和宮と称され、外祖父橋本実久のもとで養育された。嘉永四(1851)年7月有栖川宮熾仁親王と婚約、安政六(1859)年4月明冬入輿のことと定められたが、幕府はその前年勅許を待たず日米通商条約の調印を敢行、将軍継嗣問題も絡んで朝幕関係が悪化したため、公武一和の対策として将軍家茂に皇女降嫁の議が起り、万延元(1860)年4月幕府より正式に和宮降嫁のことを奏請、交渉が始められた。孝明天皇は一旦拒絶されたが、幕府は政治的意義を強調して再三請願を続けたため、天皇はついに攘夷を条件として聴許を決意された。宮はもとよりこれを固辞されたが、天皇の苦衷を察し、またこの間種々の策動も行われたため、やむなく承諾、10月勅許された。しかしなお外交措置および下向時期をめぐって交渉は難航し、破談の危機もあった。文久元(1861)年4月内親王宣下あり、名を親子と賜わった。同年10月京都を御発輿、中山道を経て江戸城に御入輿、文久二(1862)年2月婚儀を挙げられた。しかしわずか4年余にして慶応二(1866)年7月家茂は長州再征の途上大坂城において死去、宮は薙髪して静寛院と称された。やがて王政復古となり、慶応四(1868)年正月戊辰戦争が起って政府軍東下という事態に直面されたが、このとき宮は慶喜の請を容れ、徳川家救解のため嘆願書を付して侍女を上京せしめ、あるいは東海・東山両道先鋒総督の陣営に侍女を遣わして政府軍の江戸進撃猶予を請われる等婚家のために尽力された。江戸開城にあたり清水邸に移居、ついで明治二(1869)年京都に帰住され、滞京数年、明治七(1874)年再び東京に移居、しばし平穏な日々を送られたが、明治十(1877)年9月2日脚気治療のために湯治に赴かれた箱根塔ノ沢の旅館で薨去された。享年32歳。
家茂公を小倉戦争殉難者とすべきかどうか迷うところでしたが、小倉戦争が寿命を縮めたであろうと思われることから入れてしまいました。
家茂公は将軍継嗣問題で井伊直弼ら南紀派と呼ばれる一団に担ぎ上げられて一橋慶喜公と対立しますが、本人の意思と関係なく将軍にされててしまい、その後はただただ翻弄され続けて心労に斃れたって印象が強い方です。
そんな中で和宮様との経緯はいろいろあったようですが、最後には本当に仲睦まじくなったことが救いでしょうか。
慶応二(1866)年、第二次長州征伐が発令されたとき、小倉には肥後藩・久留米藩・柳川藩・佐賀藩などが援軍として滞陣、さらに藩主不在の小倉藩に代わって老中小笠原長行が全軍の指揮をとるような形になってました。しかし援軍のうち実際に戦いに参加したのは肥後藩のみ…。他は高見の日和見って感じです。さらに間の悪いことに7月20日に将軍家茂薨去、この報を受けて肥後藩は撤兵、小笠原長行さんも30日には長崎へ逃亡して帰ってしまいました。それで肥後藩など援軍諸藩も「お先に〜」って退却したので、結局自藩の領地を戦場にしている小倉藩だけがすべてのツケを一藩で被る形になったのです。
結局小倉藩は香春まで藩庁を移し肥後・薩摩に仲介を求める一方、島村志津摩・小宮民部らが内陸部の金辺峠や中津道の要衝狸山でゲリラ戦を展開したことで戦線は膠着し、双方合意の下で休戦となったのが10月12日になってのことでした。そして12月18日、企救郡(現在の北九州市門司区・小倉北区・小倉南区・八幡東区の一部)を長州藩が占領することで和議が成立したのです。

とまぁ概略はこんな感じなんですが、平たく言えば小倉藩は幕府の命で戦争に担ぎ出され、幕府の勝手で捨てられたってことでしょうかね。一体小倉藩士は何のために、誰のために戦ったんでしょう…。この流れは太平洋戦争に於いてサイパン島や沖縄、樺太や満州でも見られるんですよね。一体歴史から何を学んだのやら?せめて犬死でなかったであろうことだけを祈ります。
慶応二年 第二次長州征伐〜丙寅の変