生島大炊(福岡県田川郡・英彦山招魂社)
彦山座主家家臣。故あって各地を放浪し、彦山に来って永住し、仏像を彫って生業とした。彦山座主家の随臣といわれるが、身分については明らかでない。文久三(1863)年6月彦山の僧徒が義挙を企てたとき、盟約を結ばなかったが、その一味と目され、11月小倉藩兵に捕えられ、小倉八百屋町の獄に繋がれた。呻吟すること4年の後、慶応二(1866)年8月1日長州藩の侵攻にり城を自焼する混乱の中で、獄前に引出され、同志5名と共に斬首された。享年33歳。
宇都宮堯a(福岡県田川郡・英彦山招魂社)
彦山修験奉行職。座主高千穂教有の命により攘夷祈祷に努めた。文久三(1863)年6月彦山の修験者を呼び集め義挙をはかったが、事発見し熊本に走った。ついで捕らわれて小倉に送られて獄に繋がれた。長豊戦争の際、小倉藩によって8月1日同志と斬に処せられた。享年47歳。
宇都宮有允(福岡県田川郡・英彦山招魂社)
彦山修験奉行。座主代に次ぐ執当職を勤める。文久三(1863)年6月長州藩歩兵隊の誘いに応じ彦山の役僧が義挙を企てた時、盟約の連判状を秘匿した。また各地より来山した志士を自宅に集めて謀議をこらすなどしたので、一党の首謀者と目された。小倉藩が弾圧のため藩兵を差向けた時は逃れて熊本に走ったが、潜伏先で捕えられ、小倉に送られて獄に繋がれた。在獄四年、長豊戦争に敗れた小倉藩が城を自焼した混乱の中で、同志と共に斬られた。享年36歳。
渋川栄承(福岡県田川郡・英彦山招魂社)
彦山修験。長梅外(長三洲の父)が彦山で家塾を開いたとき、その門に学ぶ。文久三(1863)年6月たまたま山内政務の責任者である年番奉行を勤めていたとき、長州藩奇兵隊の誘いを受け、首謀者となって義挙を策した。同年八月十八日の政変以後、長州よりの援助も期待薄となったが、なおも画策を続けるうち小倉藩に探知され、11月11日捕えられた。還俗させられた上で小倉八百屋町の獄に繋がれ、4年ののち慶応二(1866)年8月1日第二次征長の役で小倉藩が敗れて城を自焼した際に同志と共に斬られた。享年40歳。
鷹羽浄典(福岡県田川郡・英彦山招魂社)
彦山修験執当職。若年の頃広瀬淡窓の門に学ぶ。座主代に告ぐ執当として彦山では重きをなした。文久三(1863)年長州藩奇兵隊に説得され義挙を企てるに至ったとき、密かに盟約を結んだ。八月十八日の政変により、長州よりの援助も望み薄となり、義挙の実行困難となった。このとき小倉藩に不穏の気配を察知され、山内よりの密告もあって、11月山内において捕えられた。小倉に送られて八百屋町の獄にあること四年、長州藩侵攻による混乱の中で8月1日同志5名と共に斬首された。享年54歳。
政所有緜(福岡県田川郡・英彦山招魂社)
彦山修験。彦山旧座主高千穂家の血統にあり、代々彦山座主代を世襲したが、家計窮迫していた。文久三(1863)年6月、長州藩奇兵隊の密使が来山して勧説を受け、義挙を企てるに至ったとき、首謀者の一人として画策することがあった。8月1日には成円坊邸に衆徒を集め、朝旨を奉じて挙兵を計ったが、八月十八日の政変以後は、三田尻に落ち延びた七卿に使僧を往来させ、各地より志士の来山もあって、小倉藩に探知された。11月11日捕えられて小倉に送られ、八百屋町の獄に投じられた。4年ののち、慶応二(1866)年8月1日長州藩に敗戦して小倉藩が城を自焼した際、同志5名とともに斬られた。享年46歳。
彦山(享保年間に霊元法皇より『英彦山』の名を賜ってよりこちらが正称となる)は昔から修験道の霊場として、同じ豊前の求菩提山と共に栄えてきました。
彦山修験は古来より朝廷と縁深く、幕末期彦山座主の大僧正・高千穂教有は長州藩と結んで、攘夷実行に動かなかった小倉藩を攻撃しようとする企てをも持っていました。それを知った小倉藩は彦山へ出兵して首謀者らを捕縛、城下の八百屋獄に収監しました。また京で暗躍していたものも伏見で捕らえられて、六角獄に投獄されています。そして慶応二(1866)年8月1日、小倉上落城の折、八百屋獄に囚われていた6名は斬殺されたのです。
慶応二年 小倉戦争 彦山僧斬殺