真木菊四郎(山口県下関市・紅石山〔1〕〔2〕/福岡県久留米市・山川招魂社〔3〕)
久留米藩士。父和泉の謹慎中しばしば幽居に招かれ尊王思想を吹き込まれる。文久二(1862)年2月父の脱出に従って鹿児島へ走り、ついで上京したが、寺田屋の変後久留米に護送・幽閉される。文久三(1863)年2月許され、4月親兵となったが再び幽囚、5月許され上京、八月十八日政変後、父と共に長州に赴き、元治元(1864)年挙兵上京に同行したが天王山で父の遺命を受け再び長州に帰り七卿に随従、太宰府に至る。慶応元(1865)年2月三条実美の命により長州に使し、薩長連合を唱えたが、2月14日下関で土佐脱藩士と目される3人のため暗殺される。享年23歳。
井原応輔(京都市東山区・霊山墓地)
土佐藩家老深尾家家臣。3歳で父を失い古沢南洋に養育された。美少年で時々奇行があったという。壮時豊後の剣客村上圭蔵が土佐に遊歴したのについて学び、その奥義に達し、文久の初め修業のため西国を巡歴し、帰国後土佐勤王党に加盟した。文久三(1863)年5月姉小路公知が殺害されるや、京都にあって犯人の偵察をし、ついで帰藩して勤王党の獄にあい、禁固に処せられたが、元治元(1864)年禁門の変の報をうけ、同年8月14日浜田辰弥らの同志と共に脱藩して長州を目指し、三田尻の招賢閣に入った。同年11月大坂に赴いたが、翌月志すところがあって伯耆に入り同志を募った。慶応元(1865)年2月22日上京の途中、美作国土居の関で土賊と間違えられて追跡され、島浪間と刺し違えて死んだ。享年24歳。
島浪間(京都市東山区・霊山墓地)
土佐藩士。遠祖の縁により長宗我部四郎ともいい、脱藩後島浪間と称した。文久三(1863)年藩命で上京して三条実美の衛士となった。8月天誅組の挙兵に参加し、上田宗児と五条代官鈴木源内を斬ったが敗れ、同志と中山忠光を擁して三田尻に逃れ、忠勇隊に入った。元治元(1864)年7月禁門の変に忠勇隊に属して戦ったが敗れ、三田尻に帰った。ついで同志を募るために井原応輔・千屋金策らと大坂に至り、諸藩への遊説を計画して山陰道に入り、伯耆に滞留したが、再び京に上らんとし、美作国土居の関門で土人に賊徒と誤認されて追求をうけ、井原と刺し違えて死んだ。享年23歳。
山南敬助(京都市・光縁寺)
仙台藩士。北辰一刀流を学び、万延元(1860)年頃、試衛館に入門した。文久三(1863)年近藤勇らと共に浪士隊に入り、6月には新撰組副長となる。9月18日、局長芹沢鴨の暗殺に参加するが、元治元(1864)年の池田屋事件に参加しないなど隊との確執が生じ、突如隊を脱走、大津に潜んでいるところを沖田総司に見つかり連れ戻され、切腹刑に処せられた。
光縁寺は壬生寺から東に歩くこと15分くらいの所にあります。まず御住職の御話を伺ってから中に入ることになっています。例の「沖田家縁者の墓」もこちらにありますし。藤堂平助さんや伊東甲子太郎さんも一時ここに埋葬され、後に戒光寺墓地に改葬されています。
 
所郁太郎(山口県山口市・三舞墓地〔1〕/岐阜県大垣市赤坂町・妙法寺〔2〕/京都市東山区・霊山墓地〔3〕/山口県防府市・防府市護国神社〔4〕)
美濃国大野郡西方村の医者所伊織の養子となった。 万延元年大坂の緒方洪庵に学んだ。京都の長州藩邸側に開業。 文久三(1863)年八月十八日の政変では、長州に下って遊撃隊医官の長となった。同年9月に井上聞多(馨)が遭難した際には畳針で縫合治療に当った。 慶応元(1865)年正月藩論統一の戦には、遊撃隊参謀として高杉晋作をたすけ、美禰郡で戦ったが慶応元(1865)年3月12日吉敷村陣営で病死した。享年28歳。
岐阜県大垣市赤坂出身の名士として銅像や旧跡などが同地にあるようです。御墓は山口と岐阜にありますが、ここはいきなり京都のお墓を紹介しています(単に時間と地理的問題で訪問できていないだけですが・・・)。
で、なぜか2008年に大垣より遠い山口市の三舞墓地に先に行っちゃいました…。大垣が一番近いようで遠い?。

しかし!いつまでもそんな状況でいいはずもなく、高速料金1000円にするために付けたETCの経費を回収するためにも、2009年秋、ついに大垣に行きました!!。銅像も旧跡も見てきました。これで長年のつっかえが1つ取れましたよ。

って油断していた2010年7月・・・。山口県防府市の桑山探査をしていたら、いきなり所さん出現・・・。私聞いてない・・・。まだあるのか?。あるのか?!。
杉原求馬(京都市東山区・霊山墓地)
十津川郷士。御親兵として上京。慶応元(1865)年5月1日病死。享年不詳。
千葉竹之助(京都市東山区・霊山墓地)
十津川郷士。御親兵として上京。慶応元(1865)年5月18日。享年不詳。
中上忠馬(京都市東山区・霊山墓地)
十津川郷士。御親兵として上京。慶応元(1865)年5月18日病死。享年不詳。
奈良原喜左衛門(鹿児島県鹿児島市・郡元墓地)
薩摩藩士。弓術に長じ、剣術を薬丸半左衛門に学び、藩内屈指の薬丸自顕流剣法の達人であった。安政六(1859)年誠忠組に加盟して以来国事を憂い、文久二(1862)年島津久光の出府に随行し、途中久光の命をうけて有村俊斎(海江田信義)と共に、有馬新七ら激派の鎮撫に当ったが、失敗に終わった。同年8月江戸からの帰途生麦事件が起ったが、そのとき最初にイギリス人リチャードソンに斬りつけ、事件の端緒を作ったのは、供頭当番であった喜左衛門であった。リチャードソンは供頭非番有村の手によりとどめをさされて死亡した。この事件の処理をめぐり文久三(1863)年薩英戦争が起るが、英艦7隻のの鹿児島来航に当り、喜左衛門は事件の責任者として大いに期するところがあった。海江田ら武芸に長ずる藩士数十人と共に、西瓜売りをよそおい8隻の小舟に分乗して英艦に近づき、これに乗り込んで斬り込もうとしたが、失敗に終わった。その後喜左衛門は京坂の地にあって国事に奔走したが、慶応元(1865)年5月18日京都二本松の薩摩藩邸で死去した。享年35歳。
藤井藍田(大阪市天王寺区・統国寺)
町人・画家。父は大坂で呉服商を営み綿屋と称した。藍田は家業を嫌い、画を田能村竹田、詩を広瀬淡窓に学び、家業は長男に任せ専ら風月に親しんだ。安政の初め大坂南堀江に塾を開き子弟を教えた。その間に長州の志士たちと交わり、九州に遊ぶこと2回に及んだ。幕府に忌まれ追求を避けて父の郷里阿波に逃れていたが、慶応元(1865)年5月26日大坂で新撰組に捕えられ、下寺町万福寺に連行され過酷な拷問により取調べを受けた後、大坂西町奉行所に引き渡され、閏5月13日獄死した。一説に新撰組にすでに斬殺されていたという。享年50歳。
植源左衛門(京都市東山区・霊山墓地)
十津川郷士。御親兵として上京。慶応元(1865)年7月10日病死。享年不詳。
戸田氏彬(岐阜県大垣市・円通寺)
大垣藩主。安政三(1856)年第十代大垣藩主となり大垣十万石を継ぎ、幕領六万九千石を預けられた。和宮降嫁には、中山道垂井鵜沼間と江戸表を警固し、禁門の変には伏見街道を守衛して福原越後の一隊を敗退させ、中山道を固めて武田耕雲斎の上洛をも阻止した。将軍家茂長州征伐の上洛途上、大垣城をその止宿とし、将軍在坂中茶臼山の警備を命ぜられ、慶応元(1865)年8月8日陣中に若くして病没した。享年35歳。
安田喜助(京都市東山区・霊山墓地/熊本県熊本市・桜山神社)
熊本藩江戸藩邸詰足軽。魚住源次兵衛、轟武兵衛門人。文久二(1862)年江戸で堤松左衛門らと横井小楠を襲撃して失敗、西下して文久三(1863)年5月の長州藩外艦砲撃に参加、元治元(1864)年7月の禁門変にも長州軍に加わり奮戦、敗退後の慶応元(1865)年8月長州藩恭順派のため下関壇ノ浦で暗殺された。享年25歳。
松原忠司(京都市下京区・光縁寺)
新撰組四番隊組長。文久三(1863)年4月から5月にかけての第一次の隊士募集時の入隊。元治元(1864)年6月の池田屋事変では金十五両の褒賞金を受けている。1月の伊東甲子太郎らの新撰組入隊後、隊の再編成で四番組長、柔術師範となった。慶応元(1865)年9月1日死去。享年不明。
桜井勇之進(京都市下京区・光縁寺)
新撰組隊士。慶応元(1865)年4月、江戸で入隊。同年12月12日死去。死亡原因は不明。享年26歳。
松原さんは「新選組物語」に収められています「壬生心中」の主役として有名ではありますが、実際のところ史実かどうかという点で怪しいようです。かといって史実だったら余りにも松原さんは哀れでなりませんし。結局どっちであって欲しいのかは個々に考えて下さいませ。
泉十郎(山口県長府市・功山寺)
長府藩士。嘉永二(1849)年野々村合左衛門次晋の養子となり、安政三(1856)年家督を継ぎ、のち泉十郎と改称した。文久三(1863)年7月足軽頭として下関防衛に当り、8月有川恒槌・福原和勝らと精兵隊を組織し、12月兵制変更のため解隊した。元治元(1864)年正月寺社兼町奉行となり、5月宗藩の冤訴のため上京、7月禁門の変に会い、鳥取藩人に変装して帰藩復命した。ついで目付役となり、慶応元年2月革新派同志と報国隊を組織し、その都督となったが、讒言にあって11月27日切腹させられた。享年27歳。
柳瀬勝治(京都市東山区・霊山墓地)
十津川郷士。御親兵として上京。慶応元(1865)年12月5日病死。享年不詳。
豊田謙次(京都市東山区・霊山墓地)
儒家。若くして諸国を遊歴し、江戸に入り塚田孔平の門に学んだ。文久元(1861)年作州土居の志士安東桂次郎が興した郷校で子弟を教育したが、元治元(1864)年門人安東鉄馬を伴って入京、宮部鼎蔵らと謀るところがあったが、事破れて池田屋事件となり、宮部ら同志の多くは殺された。この時謙次は近江の水口に在ったので難を免れたが、再び作州に入って同志を募った。禁門の変後は幕吏の追及いよいよ急となったので、変装して長州に赴く途中、慶応元(1865)年12月25日備前国周匝の旅宿に逗留していた時、津山藩士田原平左衛門と名乗る刺客のために殺された。享年34歳。
元治二年/慶応元年