阿閉権之丞(滋賀県大津市・安昌寺)
膳所藩士。膳所藩正義派の志士で大目付役を勤め、また計算のことに長じていたので大砲隊の長に任ぜられて、兼ねて勝手方元締をも命ぜられた。至誠無欲、貧しい人々に対してはことに同情を寄せていたといわれる。早くから勤王攘夷を唱えたが、たまたま幕府の長州再征、将軍親征の時に臨み、藩老上阪三郎右衛門の讒にあい、慶応元(1865)年閏5月膳所城事件に坐して同志と共に獄に?がれ、その10月21日膳所安昌寺において切腹を命ぜられた。享年39歳。
関元吉(滋賀県大津市・岡山墓地)
膳所藩士。幼少より槍術を父に習い、また蘭学を学んだ。膳所に帰ってからは同藩の高橋作也・森喜右衛門について漢学を修めた。元治・慶応のころ膳所藩の園山開拓に際し、物事には軽重・緩急がある、天下大事の時に当りもし藩庫に余裕があれば、他日のときに備えるべきだと反対した。同藩の榊原豊・沢島信三郎・村田精一・渡辺宗助らの諸士と共に尊攘の大義を唱え、慶応元(1865)年閏5月の膳所城事件に連座して獄につながれ、同年10月21日死刑に処せられた。享年30歳。
高橋作也(滋賀県大津市・岡山墓地)
膳所藩士。嘉永年間大坂に出て篠崎小竹に学び、藩校遵義堂の教授となる。勤王の大義を唱え、川瀬太宰らの志士と交わり、藩論方向を定め、王事に鞅掌するを任となし、門下より多くの志士を出した。杉浦重剛もわずか半年の間就いて学んだが、その感化力の大であったことを追懐している。幕府の長州再征に際し、長州に走って尊攘の大義を貫徹しようとはかり、保田信六郎らと脱藩を策していたが、藩老上阪三郎右衛門の讒にあい、慶応元(1865)年閏5月膳所城事件に座して獄に?がれ、その10月21日斬に処せられ、家族は追放された。享年41歳。
高橋雄太郎(滋賀県大津市・岡山墓地)
膳所藩士。文久年間同藩の田河藤馬之丞・高橋作也らと共に尊攘の大義を唱え、藩のために大いに尽した。このころ膳所藩で瀬田川開墾の計画があったが、勇太郎は今日国家多事の際に濫りに資材を消耗すべきでないと反対して、取りやめさせた。また安芸の志士中村左馬之助が密かに膳所藩の向背を尋ねに来た時、勤王は藩論のみでなく藩主の職任だと答えた。膳所城事件に連座して慶応元(1865)年5月14日獄につながれ、同年10月21日死に処せられた。享年33歳。
田河藤馬之丞(滋賀県大津市・安昌寺)
膳所藩士。膳所藩の用人格で、文久・元治の交、抜擢されて郡宰および勝手取締役となった。同藩正義派(尊王派)中の最年長者として衆望を集め、文久三(1863)年8月大和行幸の議あるや、藩主本多康穣にその従駕を勧め、ついで幕府の長州再征の挙あるや、同志と密かに長州に走ろうとしたが、藩老上阪三郎右衛門の讒にあい、慶応元(1865)年閏5月膳所城事件に連座し、その10月21日膳所安昌院において切腹を仰せ付けられた。享年48歳。
深栖幾太郎(滋賀県大津市・岡山墓地)
膳所藩士。母の胎内にあるときに父に生別し、母一人に育てられた。しかしその賢母にも早く死別、親戚で保育された。長じて禄八石五斗二人扶持を賜り中小姓に列した。森祐信らに漢学を学び、書を能くした。同藩の志士と尊攘論を主張し、膳所城事件で:獄に?がれ、慶応元(1865)年同士と共に斬られた。
槇島錠之助(滋賀県大津市・安昌寺/滋賀県大津市・縁心寺)
膳所藩士。膳所藩正義派の一人で、物頭の職に列した。漢学・国学を修め、剣術・柔術にも秀でた。性謹直・至孝、文久年中より同志と共に尊王攘夷の説を唱え、藩主に向っても建言するところがあった。慶応元(1865)年のいわゆる膳所事件の際は江戸にいたが、呼び戻されて獄に下され、10月21日安昌寺において切腹を命ぜられた。享年25歳。
増田仁右衛門(滋賀県大津市・岡山墓地)
膳所藩士。16歳で家を継ぎ、中小姓に列し禄八石五斗二人扶持を賜った。森喜右衛門に軍学を、高橋作也に経学を学び、安政六(1859)年9月藩校の句読師となった。幕末に至り藩の同志と共に尊攘の大義を唱え、元治元(1864)年同志の川瀬太宰と謀り、幕府に上申して速やかに朝旨を奉じて攘夷の師を挙げ、当藩その先鋒になるように請うべきだと、藩主本多康穣に建言した。慶応元(1865)年5月膳所城事件に連座して同志と共に獄に?がれ、同年10月21日死刑に処せられた。享年26歳。
森喜右衛門(滋賀県大津市・岡山墓地)
膳所藩士。家を継いで物頭役となる。初め藩命により大坂の篠崎小竹・藤沢東?に漢学を学び、また長沼流の兵学を習い、のち江戸昌平黌で越後流の兵式・天山流の砲術を五ヵ年学修した。帰藩後藩校遵義堂の教授となった。元治年間藩主本多康穣の密命を受け長防豊筑の諸藩を歴訪し、その動静を視察した。また尊攘を説き、長州人の一橋慶喜宛の願書の伝達を斡旋した。慶応元(1865)年5月膳所城事件に連座して獄につながれ、同年10月21日死刑に処せられた。享年37歳。
保田信六郎(滋賀県大津市・安昌寺/滋賀県大津市・縁心寺)
膳所藩士。幕末膳所藩では正義派と俗論派に分かれた。正義派は尊王攘夷を主張するもので、保田などはその中核であった。文武両道に秀で、家格も高かったので若くして中老職に就いたが、徳望高く、多くの人から敬われた。幕府が長州再征の師を起すや、その非を論じ、同志と長州に赴いて尊攘の志を達成しようと期したが、藩老上阪三郎右衛門の讒にあい、慶応元(1865)年5月膳所城事件のために捕えられ、10月21日膳所安昌寺において切腹を命ぜられた。享年28歳。
渡辺宗助(滋賀県大津市・岡山墓地)
膳所藩士。父は家業を継がせようと京都の秋吉雲渓に医を学ばせたが、宗助は医を好まず三年で帰郷し、高橋作也に漢学を学んだ。榊原豊・沢島信三郎・村田精一らと共に尊攘の大義を唱え、慶応元(1865)年膳所城事件に連座して、10月21日死刑に処せられた。享年29歳。
今まで奮闘してくれたアプリオに加えて、新戦力ゼルビスのデビュー戦ということで張り切ってたんですけど、途中大雨降ったりでたいへんでした(その日福井では水害が発生…)。岡山墓地は山裾から傾斜地へと広がる墓地でして、最初に見たときはちょっと鬱になりました。しかし幸い一番下にあり、しかも案内の看板もあったので予想以上に早く見つけることが出来ました。安昌寺は一方通行の路地をあっち行ったりこっち行ったりと無意味に走り回り、やっとの思いで着いてみると門が固く閉ざされていました。とりあえず潜戸を開けて中に入り、インターホンで主旨を伝えて漸く御参りできたしだいです。

ところで膳所城事件というのは何かというと、まず慶応元(1865)年、禁門の変を引き起こした長州に対して第一次長州征伐が発令されました。その指揮を執るために第14代将軍徳川家茂が上洛することになったのです。その家茂が5月17日に膳所城に一泊するという通知が膳所藩に届けられました。しかし将軍到着直前になって京都守護職の松平容保から膳所藩の尊攘派が将軍暗殺を企んでいる疑いがあるとして取りやめにされたとの通知され、藩内は大騒ぎになります。そもそも将軍暗殺計画を京都守護職にリークしたのは、膳所藩の佐幕派だった藩老上阪三郎右衛門でして、この事態に藩は尊攘派だった11名を投獄します。しかし将軍の宿泊は結局行われず、藩は捕えた11人を長州と通じていたという理由で10月21日に処刑した事件が膳所城事件です。
慶応元年 膳所藩十一烈士