藤村太郎(山口県美禰郡・光明寺)
奇兵隊小隊司令。奇兵隊結成当時からの隊士。文久三(1863)年10月13日には弓隊世話掛、同月21日には陸地台場掛をつとめる。元治元(1864)年4月1日の六卿彦島視察では狙撃隊30人を率いて護衛に当たったが、その際何か不手際でも起したのか自ら謹慎し、5日になって許される。4月16日、英熊より太郎に改名。元治元(1864)年7月の奇兵隊幹部血盟にも名を列ね、8月の四国連合艦隊下関砲撃で奮戦、9月5日には狙撃隊長を除かれ書記より精錬掛となる。慶応元(1865)年1月の大田・絵堂の戦いでは河原先発隊を率い、絵堂の反政府軍本陣を奇襲して勝利するも戦死。享年28歳。
天宮慎太郎(山口県美禰郡・光明寺/山口県下関市・桜山招魂場)
長州藩士。故あって脱藩し流浪したが、文久三(1863)年下関攘夷のとき帰藩し、罪を謝し許されたのに感奮、6月奇兵隊に入隊し、次いで陣場奉行となった。元治元(1864)年8月健武隊の隊長となって壇ノ浦前田の外艦砲撃戦に参加し、10月応接掛兼陣営見合役となった。慶応元(1865)年正月恭順派政府軍と美禰郡絵堂村で戦い、野波瀬屋八十槌宅前で戦死を遂げた。享年39歳。
世木騎?(山口県美禰郡・光明寺)
奇兵隊士。嘉永五(1852)年、父に従い江戸に上るが2年後に父が他界したため桑梓に帰り、剣を隣村の繁沢某に学ぶ。文久三(1863)年に奇兵隊に参加し隊内で重きを置かれるも、元治元(1864)年2月29日より3月23日まで病気療養のために花岡に帰省した。同年8月の四国艦隊との戦いでは斥候を務める。大田・絵堂の戦い中慶応元(1865)年1月10日、大木津から攻め寄せた反政府軍との戦いで戦死。享年31歳。
松浦喜代三(山口県美禰郡・光明寺)
奇兵隊士。熊毛郡室積の農安右衛門倅。慶応元(1865)年1月10日、川上村で戦死。享年27歳。
田中栄作(山口県美禰郡・光明寺)
奇兵隊士。吉敷郡台道岩淵の農正義弟。慶応元(1865)年1月10日、川上村で戦死。享年不詳。
守田鎌次(山口県美禰郡・光明寺)
南園隊士。玖珂郡白潟の農。慶応元(1865)年1月14日、大田村呑水で戦死。享年不詳。
中村与七(山口県美禰郡・光明寺)
八幡隊士。慶応元(1865)年1月10日、美禰郡長登村で戦死。享年不詳。
利吉(山口県美禰郡・光明寺)
八幡隊士。慶応元(1865)年1月14日、美禰郡大田村で戦死。享年不詳。
石田三千井(山口県美禰郡・光明寺)
八幡隊士。都濃郡富田の農。慶応元(1865)年1月14日、美禰郡大田村で戦死。享年21歳。
三宅秀之丞(山口県美禰郡・光明寺)
南園隊士。萩満願寺の臣。慶応元(1865)年1月6日、絵堂村で戦死。享年21歳。
斉藤竹之進(山口県美禰郡・光明寺)
南園隊嚮導。慶応元(1865)年1月6日、絵堂村で負傷し11日死去。享年不詳。
西山八十槌(山口県美禰郡・光明寺)
奇兵隊士。萩御許町の商人。 『奇兵隊日記』元治元(1864)年10月1日の条には「萩へ使狙撃西山八十槌、今宵帰陣、長氏跡より来ルト云」とあり、内訌の際に使者を務めていたことがうかがえる。慶応元(1865)年1月10日、川上村で戦死。享年22歳。
佐伯太三郎(山口県美禰郡・光明寺)
奇兵隊士。吉敷郡小郡東津の農佐兵衛次男。慶応元(1865)年1月10日、川上村で戦死。享年22(17?)歳。
柳半之丞(山口県美禰郡・光明寺)
奇兵隊士。文久三(1863)年11月26日、狩場で不覚の筋あり謹慎を命じられる。慶応元(1865)年1月10日、川上村で戦死。享年34歳。
田村熊吉郎(山口県美禰郡・光明寺)
奇兵隊士。萩河添の農。元治元(1864)年9月10日、志願して入隊。慶応元(1865)年1月10日、川上村で戦死。享年45歳。
萩原忠一郎(山口県美禰郡・光明寺)
遊撃隊(好義隊)士。下関伊崎の商人。高杉晋作に従い赤村を奇襲して戦死。享年17歳。
田村勇人(山口県美禰郡・光明寺)
遊撃隊(好義隊)士。慶応元(1865)年1月16日、赤立石村で戦死。享年23歳。
2004年、3年ぶりに大田・絵堂の地を踏むことになりました。どうせなら3年前と同じにしちゃえってことで給油まで同じ出光のスタンドでやってしまう念の入れようです(そこしかないという噂も…)。金麗神社で史上初の他サイト実況生中継を敢行したあと、東行庵で買った「維新防長掃苔録(一)」の情報に基づいて急遽光明寺に向います(地図は神社の案内掲示板を撮影…相変わらずアバウトな行動よ…)。何だか細い道をちょろちょろ曲がりながら走ってると、田んぼの中に明らかに寺とわかる建物がすぐに見つかりました。寺の中にあるものと思ってたら、外に史跡として一区画独立して旧官修墓地が鎮座していたのです。早速御参りしたのですが、妙に近くで遊んでいた地元の子供達の視線が気になりました…別に不審者じゃないつもりなんですけど…十分不審だったのかなぁ…。
水津岩之允(山口県美禰郡・川上口)
撰鋒隊士。慶応元(1865)年1月10日、川上口で戦死。享年29歳。
駒井小源太(山口県美禰郡・川上口)
隊士。慶応元(1865)年1月10日、川上口で戦死。享年40歳。
椋梨藤太(山口県萩市・徳隣寺)
長州藩政務座。長州藩の密用方より進んで政務座に就き、とくに藩校明倫館用掛となってその興隆に尽くした。嘉永三(1850)年保守恭順派の坪井九右衛門と要路にあったが、嘉永六(1853)年周布政之助の革新派と交代、安政二(1855)年周布派を退けて再び政権を奪還したが、翌安政三(1856)年退役、安政四(1857)年明倫館頭人役となり、安政五(1858)年には熊毛郡代官役に転じ、万延(1860)元年まで勤めた。文久三(1863)年坪井処刑の時、同派の者と共に罪せられたが、元治元(1864)年三度政権を握り、前政務員を処刑した。ついで革新派の諸隊挙兵し、慶応元(1865)年美禰郡大田絵堂の戦いで保守派を破ったため、2月同志と共に脱走中、石見国津和野藩内で捕えられ、萩野山獄で刑死した。享年61歳。
辛かった・・・。とにかく辛かった。2002年8月、楞厳院で時山さんのお墓に参ってた頃から雲行きが怪しくなってましたが、それだけに急ぎ萩市街地に突入を敢行しました。最初の探査地がこちらの徳林寺だったのですが、探査中にいきなりすさまじい夕立に見舞われました。電装品の塊と化していた(デジカメ・ビデオ・MD・VAIO-U1・携帯電話・数珠・・・は違うか)私は濡れることを許されない体であったため、おとなしく本堂の軒下で1人寂しく止むのを待ってました。30分ほどして天気は回復し、再び探査活動を始めたのですが、今度は凄まじいほどの熱さ!(暑いのではなく)に襲われました。何しろ照りつける真夏の太陽にさっきの雨がどんどん蒸発、まさにサウナの中での活動となってしまったのです。その上目指す椋梨さんの御墓は一向に見つからず(正確には3つくらい見つかったのですが、いずれも違うと判明。グレイブ・ハンターを震撼させる恐怖の一族菩提寺攻撃です)諦めかけた頃、端っこの方で後ろ向きになっている椋梨さんの御墓を発見いたしました。そのお姿はまるで人の目を偲ぶかのようで、寂寥感を感じました。

2004年、大田・絵堂再訪問のときに、その日買ったばかりの「維新防長掃苔録(一)」に水津さんと駒井さんの御墓が載ってましたから是非御参りしようと現地に向ったのですが…どこ探しても無いんです。あるはずの道を何往復かしたとき、ふと畑の奥の方でかすかに石碑のようなものが確認できました。もしやあれではと思い早速近づこうと思ったのですが、何せ畑の奥でしたからバイクですら乗り入れることが出来ません。じゃあ歩いて…と思って石碑まで行けそうな道を探ると…ひょっとして民家の敷地を通らなきゃいけないの?! とまぁそんな苦労の末にようやくたどり着けたのでございます。
慶応元年 長州藩内訌