武市瑞山・富子(高知県高知市吹井・瑞山神社)
土佐郷士。幼少のころより文武に励んだが、絵画も巧みであった。嘉永三(1850)年高知城下新町に移り、安政元(1854)年道場を開いた安政三(1856)年江戸に出て桃井春蔵に入門し、翌年塾頭となった。安政五(1858)年剣道の功により藩から終身二人扶持を給せられたが、安政の大獄、桜田門外の変など、情勢の変化に伴い、尊攘運動が激化するや、万延元(1860)年の秋九州の諸藩を巡歴し、ついで文久元(1861)年江戸に出て諸藩の尊攘派の志士と交わり、その動静を探索した。さらに修学のため江戸に来た大石弥太郎から勤王論勃興の情勢を聞き、その紹介により住谷寅之助・岩間金平・樺山三円・桂小五郎・久坂玄瑞ら水・薩・長藩の志士と交わり、時勢を論じたが、深く感ずるところがあって土佐藩尊攘派の組織化を決意し、同年8月下級武士・郷士・村役人層を中心とする土佐勤王党を結成し、その首領となった。盟約に応ずるもの200余人に及び、藩体制に大きな影響を与えた。藩の参政吉田東洋は佐幕的公武合体を堅持していたので、一藩勤王を念願とする瑞山は東洋を説得したが容れられず、ついに文久二(1862)年4月東洋を党員の手で暗殺して吉田派を退け、藩論を一変させた。ついで藩主山内豊範に従って入京し、他藩応接役として諸藩の有志と交わり、勅使三条実美・姉小路公知の東下にあたっては姉小路の雑掌となり、柳川左門と変称して10月12日京都を出発した。このころが最も華やかな活躍時代で、年末に留守居組に列せられて上士格に進み、文久三(1863)年正月京都留守居役となったが、旧門閥層の佐幕派の勢力は強く、八月十八日の政変によって尊攘運動は後退し、勤王党の弾圧となった。瑞山は脱藩志士の相次ぐ中にあっても動かず、9月投獄され、在獄1年半余、ついに切腹を命ぜられた。享年37歳。妻富子の内助の功は有名。
もはや左膝の痛みは限界に達し、潮江山での吉田東洋さんら探索を棄権してしまいました。前日の谷干城・間崎哲馬両氏の捜索断念と相俟って非常に気落ちしたので気分転換に桂浜へ。しかしこの足に龍馬像は遠かった・・・MDからはひたすらグランド・ソード(小橋建太選手の入場テーマ・・・膝の故障に苦しんだ小橋選手に完全に同化してたかも)。それでも龍馬像の前に来ると素材確保とばかりにあらゆる角度から撮影をしました(膝の痛みも平地ではだいぶマシ)。きっといつか使う日も来るでしょう。桂浜を後に一路田野町へ向かうわけですが、当然その途中にある瑞山神社を避けて通るわけにはいきません。痛む左足も歩かない限りどうと言うことはないので、調子こいて現地着!しかし墓所に至る参道で目の前には当然というか何というか・・・階段がそびえていました(ほんのちょっとの階段なのに、そのときは金毘羅宮並みに見えてたのです)。痛みに耐えつつ一段一段上る、その頭の中にはグランド・ソードがひたすら流れてました。ようやく登りつめると、そこには武市さん、富子さん、半太さんらご一族の墓碑が並んでいます。富子さんの詳細がわかれば略歴出すのですが、まだありませんので仕方なく写真のみにしました。それにしても真宗寺山で迷いまくった私にはこんなにもすんなりたどり着けたことがなんともいえない感動でした。「これで月形半平太の完成だ!」とわけのわからない喜びに浸りつつ、次の田野町を目指すのでした。
岡田以蔵(高知県高知市浦戸町・真宗寺山)
土佐郷士。天性豪放で武芸を好んだ。安政三(1856)年9月江戸に出て桃井春蔵に入門して剣を学んだ。帰国ののち万延(1860)元年武市瑞山に従って九州諸藩を遊歴して剣を磨き、名声が高まった。土佐勤王党に加盟し、文久二(1862)年藩主山内豊範に従って上洛したが、尊王攘夷・佐幕開港の論の渦巻く中で彼の激発的性格は佐幕派に対し天誅を加える行動となり、とくに薩摩の田中新兵衛と意気投合し、人斬り以蔵の異名をとった。同年8月2日には前土佐藩監察井上佐一郎のスパイ的行動を憎み、同志と共に井上を大坂で絞殺し、同月20日には越後の浪士本間精一郎が勤王を装って金銭を貪り、幕府の間諜的行動に出るのを憎んで、田中らと謀って本間を暗殺し、ついで宇郷重国を斬った。なた幕府に通じた千種家の臣賀川肇を斬って文久三(1863)年2月1日首を一橋慶喜の旅宿に、両腕を千種、岩倉両邸に投じて脅迫し、藩の儒者池内陶所の変節を憤って暗殺したのち大坂難波橋上に梟した。この間、文久二(1862)年10月勅使姉小路公知の東下に選ばれて江戸に随従し、思うところあって勝海舟の若党となり、勝の上京に伴われて京都に出て、ある夜海舟を暗殺しようとした徒を斬殺したが、海舟に人を斬るは良士のすべき所為にあらずと誡められたことがあった。文久三(1863)年5月姉小路暗殺の疑いで捕えられた田中新兵衛が死んでから、以蔵も嫌疑を受けたので、土居鉄三と改名して京摂の間に潜伏した。同年土佐勤王党の獄が起こるや、捕えられて拷問を受け、井上佐一郎の殺害を自白し、斬罪に処せられた。享年27歳。
丹地山を後にして、一路谷干城さんと間崎哲馬さんに会いに行ったのですが、散々な目に遭いました。道もお墓も草に埋もれ移動もままならず、ましてや檮原で左膝を痛めてこの時点では屈伸がほとんどできない状況になっておりまして涙を呑むしかありませんでした(後日リベンジしちゃる!)。日も完全に暮れてしまってたのでとりあえず岡田さんの御墓の所在地の入口だけ確認しましてその日は駅近くのビッグ1に逗留したものの日焼けと生傷で入浴は死ぬほど苦痛、膝もかなり悪かったので鰹料理を食べる前に薬局でゴム製ギブス付きアンメルシン1%ゲルを買って翌日に備えました。翌朝一夜で足が一気に治るわけも無いですが、少しは和らいでいたので早速真宗寺山へ。昨日チェックした入口から道巡が示してありましたので、それに従って行きゃ大丈夫と余裕で登っていったら・・・突然案内が途絶えてしまいました。結局一時間近くも探し回った挙句ようやくず〜っと奥のほうでお会いすることができました。帰りに一本の棒がささっていたのに気付きました。きっとこれが案内板のなれの果てなんでしょうね・・・。始まったばかりなのに左膝もまた悲鳴を上げ始める中、吉田東洋さんを探しに行きました。そして最終目標は・・・田野町!!
慶応元年 土佐勤王党壊滅