回天神社忠魂塔
(茨城県水戸市)

松原神社
(福井県敦賀市)

水府藩義士墳墓
(福井県敦賀市)
武田耕雲斎(茨城県水戸市・妙雲寺)
水戸藩若年寄。跡部正房の養子となり、文化十四(1817)年家督を継いだ。文政中徳川斉昭擁立に尽力し、のち罪を得て職を免ぜられた。天保十(1839)年若年寄、弘化の藩難には斉昭の雪冤運動に加わり、老中水野忠邦に嘆願書を呈して致仕謹慎に処せられた。嘉永二(1849)年11月慎を解かれ、耕雲斎と号した。安政二(1855)年2月学校奉行に任じ、10月定江戸若年寄として再勤。安政六(1859)年12月勅書返納の評議に列席し、元家老岡田徳至・大場一真斎と共に返納慎重論を進言し、弘道館総教会沢正志斎らと意見を異にした。万延(1860)元年長州藩士桂小五郎(木戸孝允)は丙辰丸盟約実現のため水長二藩重臣の提携を呼び掛けたが、長州藩の誠意未だ認め難いとして耕雲斎はその申し出を拒絶した。文久元(1861)年6月東禅寺英国仮公使館襲撃事件発生して政務参与を免ぜられ、謹慎を命ぜられた。文久元(1861)年11月再び執政に挙げられ、文久二(1862)年12月幕命により一橋慶喜に随従して上京し、文久三(1863)年5月東下した。元治元(1864)年5月筑波挙兵の首謀者と目されて隠居を命ぜられ、謹慎処分を受けて6月初旬水戸に下った。時に市川三左衛門らの執政就任に反対して水戸士民は大挙して江戸に向い、謹慎中の耕雲斎も一族を率いて別に江戸へ向い、小金駅東漸寺より宍倉に移ったが、8月4日藩内鎮撫の命を帯びて下向する松平頼徳に帯同した。しかし三左衛門らに入場を阻止され、道を転じて那珂川に陣して、城兵と交戦するに至った。同年9月26日頼徳は幕営に去り、10月23日留守総督榊原新左衛門の投降するに及んで波山勢と合流し、北上して大子に数日滞留して去就を決し、11月1日全軍を指揮して西上の途に就いた。進路諸般の抵抗を排除しつつ難行を重ねたが、12月20日ついに加賀藩に降伏し、慶応元(1865)年2月4日敦賀において斬罪に処せられた。享年62歳。
武田延子
とき。耕雲斎の妻。人見姓。慶応元(1865)年3月25日水戸で斬。享年40歳。
藤田小四郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。藤田東湖の四男。性機敏にして才智に富み、書画をよくした。安政・文久の間学問出精をもって賞せられた。文久三(1863)年2月藩主徳川慶篤の上京に随従し、滞京の間諸般の有志と交遊を持ち、とくに長州藩士桂小五郎・久坂玄瑞に接した。帰藩後も長州・鳥取藩の有志と往来して国事を論じ、同年6.7月の交、攘夷の朝命の行われないのを嘆き、まさに上京して事を計らんとしたが、山国喜八郎に抑えられた。同年9月鳥取藩有志と江戸に会合し、東西呼応して挙兵を約し、これを家老武田耕雲斎に告げて首領に仰がんとしたが、耕雲斎は大いに驚き、その時期にあらざることを言い、反覆説論して軽挙妄動を戒めた。よって小四郎は町奉行田丸稲之衛門を説き、元治元(1864)年3月27日筑波山に兵を挙げた。ここにおいて市川三左衛門ら藩主慶篤に迫って追討を請い、幕府また諸藩に令して出兵し、数日各所に戦った。同年8月那珂湊の松平頼徳を応援して城兵と転戦、10月23日に至って武田勢・潮来勢と合流し、武田耕雲斎を将として西上の途次、12月21日加賀藩に降伏し、慶応元(1865)年2月4日斬罪に処せられた。享年24歳。
田丸稲之衛門
水戸藩士。田丸直諒の養子となり、天保十三(1842)年家督を継いだ。馬廻組使番を経、文久三(1863)年町奉行となった。元治元(1864)年3月藤田小四郎は鳥取・岡山二藩の有志と呼応して攘夷の実行を計画し、田丸稲之衛門を将に迎えて同月27日筑波山に挙兵した。4月3日陣容を整えて筑波を発し、10日日光に祈願し、板倉老中に上書して攘夷実行を請うた。また鳥取・岡山二藩主へ書を送り、勅命をもって攘夷の先人たらんことを願った。5月太平山にこもり、藩庁より出張した側用人美濃部又五郎、目付山国兵部の説諭も効を奏さなかった。時に市川三左衛門ら諸生を率いて大挙して江戸藩邸に入り、藩主を説いて武田耕雲斎らを退け、藩政一変して鎖港の議後退するに及んだ再び筑波に陣して兵食をを徴集した。同年7月藩庁は市川を陣将とし、諸生数百人をもって追討軍を編成して出陣した。同月7日波山勢は高道祖原に戦って敗れたが9日の下妻の一戦に大勝し、市川勢は退いて水戸に帰り波山勢も去って小川郷校に本陣を移した。同年8月榊原新左衛門ら那珂湊に陣して城兵と交戦するを知り、急遽これを応援して転戦した。同年10月23日榊原ら自首するに及んで武田勢と合流し、ついで耕雲斎を将として西上の途次、同年12月21日加賀藩に降伏、慶応元(1865)年2月4日斬罪に処せられた。享年61歳。
山国兵部
水戸藩士。文化六(1809)年家督を継ぎ馬廻組に班し、文政六(1823)年3月小納戸兼軍用掛となり、藩主徳川斉昭に重用された、その藩政改革には軍務の改革に当たった。天保元(1830)年3月目付に進み江戸に召されて時弊を論じたりしたが、天保三(1832)年春ごろから武田耕雲斎・会沢正志斎らと親交を重ねた。同年8月通事、天保十一(1840)年1月先手同心頭に任じたが、弘化三(1846)年斉昭の謹慎に関連して禁固刑に処せられた。嘉永二(1849)年許され小普請組・馬廻組を経て嘉永六(1853)年目付に挙げられ、ついで軍用掛を兼ねた。米艦来航に当たって幕府が斉昭を起用した際、側近として江戸に同行、海防策を建言して名声を得た。さらに持筒同心頭・槍奉行を歴任、安政五(1858)年8月武具奉行に進み目付を兼ねたが、同月攘夷の勅定降下のとき、その成就に策動したため同年11月免職・謹慎となる。文久二(1862)年冬、目付に復し、文久三(1863)年3月藩主慶篤に従って上京、攘夷貫徹に活動した。のち元治元(1864)年筑波山挙兵に中途より参加、同年10月武田耕雲斎らと攘夷達成を朝廷に訴えんと西上したが、敦賀で捕らえられ慶応元(1865)年2月4日長男淳一郎と共に惨殺された。享年73歳。
武田彦衛門(茨城県水戸市・妙雲寺)
水戸藩士。耕雲斎長男。藤田東湖義弟。嘉永五(1852)年大番組に列し、安政五(1858)年家督を継いで書院番頭となった。同年7月の藩難に際して父耕雲斎と行動を共にし、元治の役には小川勢を率いて松平頼徳の幕下に入り、那珂湊に陣して城兵並びに幕兵と戦った。同年10月23日に至り、総督榊原新左衛門ら自首するに及んで父の陣に加わり、西上の途次加賀藩に降伏、慶応元(1865)年2月4日斬罪に処せられた。享年44歳。
井田平三郎
水戸藩士。安政五(1858)年出仕して歩行目付となり、勅書問題起こるや有志の間に奔走、ために文久元(1861)年9月役禄を奪われた。のち復職し、文久三(1863)年2月藩主徳川慶篤に随従して上京した。元治元(1864)年8月目代松平頼徳ら那珂湊に拠り城兵と戦うや、潮来勢に属して応援した。同年10月23日総督榊原新左衛門ら自首するに及び、潮来勢を率いて武田耕雲斎の軍と合流、西上の途次、加賀藩に降伏し、慶応元(1865)年2月4日斬罪に処せられた。享年28歳。
三橋金助
水戸藩士。変名山形半六とも。文久三(1863)年新徴組の選に入り江戸警衛に任じた。元治元(1864)年3月田丸稲之衛門の挙兵に応じて常野の間に転戦、のち那珂湊に拠って城兵・幕兵と交戦し、さらに武田勢に属して西上の途次加賀藩に降伏し、慶応元(1865)年2月4日敦賀で斬に処された。享年22歳。
村島万次郎
水戸藩士。安政六(1859)年勅書返納の不可を唱えて奔走し、万延(1860)元年2月に至って藩論ついに返納と決するや、同志3人と共に城中斬り込みを計画したが、その前日の24日斎藤留次郎が殿中に切腹して事を中止した。文久三(1863)年2月藩主徳川慶篤の上京に随従した。同年家督を継いで小普請組に班し、元治元(1864)年榊原新左衛門らと江戸に向かい、松平頼徳に従って水戸へ下り、のち那珂湊に拠り、城兵や幕兵などと戦いさらに武田耕雲斎に属して西上の途次、敦賀に禁固され、慶応元(1865)年2月4日死罪に処せられた。享年26歳。
山国淳一郎
水戸藩士。兵部の長男。弘道館指南役から小姓頭取。元治元(1864)年那珂湊で床机隊隊長。慶応元(1865)年2月4日敦賀で斬。享年52歳。
武田魁介(茨城県水戸市・妙雲寺)
水戸藩士。耕雲斎次男。弘化の藩難には吉成恒次郎と雪冤に尽力し、禁固に処せられた。武術にすぐれ、指南功労によりたびたび賞せられた。安政五(1858)年の藩難より父耕雲斎と行動を共にし、元治元(1864)年6月大挙して江戸に向い画策するところがあった。8月松平頼徳と共に下国して那珂湊に陣し、城兵と交戦したが、西上途次加賀藩に降伏し、慶応元(1865)年2月4日斬に処せられた。享年38歳。
長谷川通之介
水戸藩士。天保十一(1840)年家督を継ぎ、安政年中大番組に列し、文久三(1863)年大番組頭となる。同年2月藩主徳川慶篤に従って西上し先手同心頭となる。元治の役には執政榊原新左衛門の陣にあって転戦した。元治元(1864)年10月21日の評議において榊原の自首を不可として武田耕雲斎の陣に移り、西上の途次加賀藩に降伏、慶応元(1865)年2月4日斬に処せられた。享年28歳。
川瀬専蔵
水戸藩士。文久元(1861)年進仕して表右筆となり、文久三(1863)年2月藩主徳川慶篤に随従して上京した。元治元(1864)年榊原新左衛門らと南上し、藩政改革を志し、松平頼徳を守護して水戸へ下り、のち那珂湊に拠り、ついで同年10月23日武田耕雲斎に属して西上の途次、加賀藩に降伏し、敦賀に禁固され、翌慶応元(1865)年2月4日死罪に処せられた。享年24歳。
国分新太郎
水戸藩士。文久三(1863)年藩主徳川慶篤の上京に際し幕府新徴組の選に入り、江戸警衛に任じた。元治元(1864)年8月目代松平頼徳の水戸に赴くのに随従し、のち別れて潮来勢に属し、同月那珂湊の榊原勢を応援、さらに10月23日武田勢に合流し、西上の途次、加賀藩に降伏し、翌慶応元(1865)年2月4日鶴賀において斬処された。享年21歳。
長谷川通之介
天保十一(1840)年家督を継ぎ、安政年中大番組に列し、文久三(1863)年大番組頭となる。同年2月藩主徳川慶篤に従って西上し先手同心頭となる。元治の役には執政榊原新左衛門の陣にあって転戦した。元治元(1864)年10月21日の評議において榊原らの自首を不可として武田耕雲斎の陣に移り、西上の途次加賀藩に降伏、慶応元(1865)年2月4日斬に処された。享年28歳。
根本新平
水戸藩士。安政四(1857)年家督を継ぎ、安政六(1859)年勅書返納阻止を計って長岡に屯集した。万延(1860)元年8月林忠左衛門らとらと薩摩藩邸に投じ、攘夷の先陣を請うて幽閉された。のち許され、文久三(1863)年藩主の上京に随従した。同年12月合図役となる。元治元(1864)年3月田丸稲之衛門らの筑波挙兵に応じ、一方の隊長となって常野に転戦、のち武田耕雲斎に属して西上の途次、同年12月12日耕雲斎の内意を受け、加賀藩と諸事にわたり商議した。同月17日降伏して敦賀に禁固され、慶応元(1865)年2月4日鶴賀において斬に処せられた。享年26歳。
須藤敬之進
水戸藩士。元治元(1864)年床机廻に選ばれ、同3月田丸稲之衛門らの筑波挙兵に参加し、一隊の長となった。のち那珂湊の榊原新左衛門を応援して城兵ならびに幕軍と交戦し、同年10月23日榊原ら降伏してのち武田耕雲斎に属し、同月末西上軍を編成して大子を発し、諸藩兵を排除しつつ難行を重ねたが、ついに加賀藩に降伏し、敦賀に禁固され、慶応四(1868)年2月4日斬に処せられた。享年24歳。
朝倉源太郎
水戸藩士。安政四(1857)年選ばれて床机廻となり、文久三(1863)年2月藩主徳川慶篤の上京に従い、4月帰府した。元治元(1864)年正月歩行目付となる。同年6月大挙して江戸に向い小金に屯集、のち松平頼徳を援護して那珂湊近辺に城兵と戦った。10月23日総督榊原新左衛門ら幕軍に降伏するに及び、潮来勢を率いて西北に走り、途中武田耕雲斎の軍勢と合流、一隊の長となった。西上の途次加賀藩にl降伏し、慶応元(1865)年2月4日敦賀で処刑された。享年30歳。
内藤昇一郎
水戸藩農民。早く義民の列に入って国事に奔走し、元治の年筑波に挙兵し参加して監察となり、のち那珂湊に転戦、さらに武田勢に合流して西上、加賀藩に降伏して敦賀に禁固され、慶応元(1865)年2月4日斬に処せられた。享年34歳。
前島徳之介
水戸領里正。和漢の学を修め、剣を千葉周作に修業した。元治元(1864)年田丸稲衛門らの筑波挙兵に参加し、のち那珂湊に拠って転戦し、さらに西上して加賀藩に降伏、慶応元(1865)年2月4日斬に処せられた。享年29歳。
高野長五郎
水戸藩吏。先手同心を勤め、神勢館にあって神発流指南福地政次郎につき砲術を修得した。元治元(1864)年6月大挙して江戸へ向うため小金に屯集して松平頼徳の下国に随従し、のち武田耕雲斎に属して西上の途次、敦賀に禁固され、翌慶応元(1865)年2月4日死罪に処せられた。享年34歳。
畑弥平
水戸藩属吏。常陸茨城郡鳥羽田の農家に生まれ、安政五(1858)年ごろ監察方の属吏となった。勅書返納の事で竹内百太郎の内意をうけて京畿に至り、情勢を探り、志士と結び、かえって金子孫二郎に報じた。3月東下して大老井伊直弼襲撃に奔走し、成功を見届けて品川宿にいた孫二郎に報じ、水戸へもこれを告げた。元治元(1864)年3月筑波挙兵に応じて監察となり、同年10月武田耕雲斎に属し、一方の隊長となり西上軍に加わった。同年12月17日降伏の評議で強硬にこれを不可とし、長州の同志との合流を主張したが、容れられなかった。慶応元(1865)年2月4日敦賀において死罪に処せられた。享年46歳。
滝平主殿
行方郡玉造村大神宮神官。文久三(1863)年選ばれて藩主の上京に随従し、帰藩して尊攘運動に加わった。元治元(1864)年3月の藤田小四郎らの筑波挙兵に応じ、那珂湊近辺の戦闘に参加、のち武田耕雲斎に属して西上の途次、慶応元(1865)年2月4日敦賀で死罪となった。享年29歳。
米川米吉
水戸藩士。元治元(1864)年大挙して江戸に向うため下総小金駅に屯集した。同年8月松平頼徳に随従して那珂湊に拠り城兵・幕兵と交戦し、10月23日武田耕雲斎に属して西上の途次、慶応元(1865)年2月4日鶴賀に於て斬に処せられた。享年21歳。
竹内百太郎
水戸藩郷士。嘉永七(1854)年家督を継ぎ、禄を受けて郷士となる。安政二(1855)年格式一代小十人列に入り、小川郷校を監した。万延(1860)元年4月致仕、春雨と号す。同年8月林忠左衛門らと勅旨貫徹のため薩摩邸に訴願して、駒込邸に禁固された。元治元(1864)年3月田丸稲之衛門らと筑波に挙兵し幕僚となり、終始田丸らと行動を共にし、慶応元(1865)年2月4日鶴賀において斬罪に処せられた。享年35歳。

水府藩義士墳墓
(福井県敦賀市)
 
渡辺霞湖介
茨城郡石川村の祠官。田丸稲之衛門勢。慶応元(1865)年2月15日敦賀で獄死。享年29歳。
徳藤子之吉
橋本彦三郎
茨城田丸稲之衛門勢。慶応元(1865)年2月15日敦賀で獄死。享年29歳。郡浜田村の農。田丸稲之衛門勢。慶応元(1865)年2月16日敦賀で獄死。享年56歳。
梅原喜作
猿山又三郎
松木富蔵
内田藤吉
宇佐美孫兵衛
久慈郡天神林村の農。田丸稲之衛門勢。流刑決定後の慶応元(1865)年5月28日敦賀で獄死。享年31歳。
中村良之介
小栗重蔵
行方郡島畑村の人。初め円福寺の僧海仙。慶応元(1865)年?敦賀で獄死。享年不明。
伊藤久蔵
行方郡辻村の農。林五郎三郎勢。流刑に決まったが、出発前の慶応元(1865)年7月23日敦賀で病死。享年31歳。
箕輪円次郎
行方上戸村の農。慶応元(1865)年7月30日敦賀で獄死。享年17歳。
石川治介
中村惣兵衛
高田甚兵衛
行方郡大洲村の農。林五郎三郎勢。慶応元(1865)年6月3日(13日とも)敦賀で獄死。享年31歳。
岡田主水
山口儀兵衛
農。儀八郎とも。敦賀で獄死。享年不明。
小林藤助
常陸の農。元治元(1864)年9月27日下館藩で斬。享年不明。
潮井彦三郎
石上佐介
那珂郡青柳村の農。林五郎三郎隊。慶応元(1865)年敦賀で獄死。享年不明。
粟飯原三蔵
行方上戸村の農。降伏後流刑が決まったが、出発前の慶応元(1865)年2月19日敦賀で獄死。享年18歳。
塩島武右衛門
渡辺荘吉
高井伊兵衛
常陸の農。元治元(1864)年常陸大貫で勇戦。のち敦賀で獄死。享年23歳。
山崎定介
横山角右衛門
目付同心組。田丸稲之衛門勢。慶応元(1865)年3月7日敦賀で獄死。享年32歳。
今泉丹司
茨城郡鹿島社の祠官。慶応元(1865)年敦賀で自殺。享年17歳。
福田為之介
荘司幸三郎
先手同心組。田丸稲之衛門勢。敦賀で流刑決定後の慶応二(1866)年3月2日獄死。享年59歳。
大和田熊吉
島田国太郎
茨城郡倉敷村の農。慶応元(1865)年敦賀で獄死。享年不明。

水府藩義士墳墓
(福井県敦賀市)
黒沢理八郎
久慈郡石名坂村の農。慶応元(1865)年2月23日敦賀で斬。享年35歳。
高松与四郎
常陸の農。林五郎三郎勢。慶応元(1865)年2月23日敦賀で斬。享年不明。
大谷包太郎
台所小役人直三郎輔明の長男。田丸稲之衛門勢。慶応元(1865)年2月23日敦賀で斬。享年19歳。
林芳之介
茨城郡常磐村の商(農とも)半兵衛の長男。田丸稲之衛門勢。慶応元(1865)年2月23日敦賀で斬。享年22歳。
秋野源兵衛
那珂郡額田東郷の農。文久三(1863)年江戸新徴組。林五郎三郎隊。慶応元(1865)年2月19日敦賀で斬。享年26歳。
大越小市
新治郡宍倉村の人。慶応元(1865)年2月23日敦賀で斬。享年36歳。
鹿島茂平
茂兵衛とも。久神発流隠密同心組。慶応元(1865)年2月23日敦賀で斬。享年40歳。
渡辺金次郎
常陸の農。慶応元(1865)年2月19日敦賀で斬。享年不明。
佐川捨五郎
小森好右門
大岳大介
那珂郡本米崎村の農平兵衛の二男。慶応元(1865)年2月19日敦賀で斬。享年不明。
栗又新次郎
行方郡上戸村の農。慶応元(1865)年2月23日敦賀で斬。享年18歳。
高橋謙太郎
行方郡矢幡村の農。慶応元(1865)年2月19日敦賀で斬。享年不明。
木内貞五郎
林五郎三郎勢。慶応元(1865)年2月19日敦賀で斬。享年不明。
源介
清四郎
安清四郎?
清之介
清七
常陸の農。慶応元(1865)年2月19日敦賀で斬。享年不明。
定吉
行方郡矢幡村の農善之允の二男。真偽真義真言宗観音寺の弟子貞暁。慶応元(1865)年2月19日敦賀で斬。享年不明。
荘三郎
鈴木荘三郎か?
彦蔵
市郎
山中市郎か?

水府藩義士墳墓
(福井県敦賀市)
望月義太郎
方波見善一郎
常陸の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年20歳。
中村延之介
常陸の農。慶応元(1865)年2月19日敦賀で斬。享年不明。
坂本啓介
源介とも。鹿島郡磯浜村の農十左衛門の食客。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年不明。
岡野彦四郎
常陸の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年不明。
関末吉
本村友次郎の三子。関友七と同一人か。慶応元(1865)年2月19日(16日とも)敦賀で斬。享年18歳。
刑部熊吉
刑部熊太郎と同一人か。行方郡潮来村の農。慶応元(1865)年2月19日(16日とも)敦賀で斬。享年23歳。
内野啓兵衛
内藤とも。行方郡潮来村の農。慶応元(1865)年2月15日(16日とも)敦賀で斬。享年18歳。
飯島喜助
飯島喜作と同一人か。喜一郎とも。行方郡延方村の農。元治元(1864)年常陸府中で負傷。慶応元(1865)年2月15日(19日とも)敦賀で斬。享年26歳。
箕輪又次郎
行方郡上戸村の農。慶応元(1865)年2月19日敦賀で斬。享年33歳。
萩谷利兵衛
利平とも。久慈郡上利員村の農。慶応元(1865)年2月19日敦賀で斬。享年40歳。
前島雄三郎
行方郡上戸村の農。慶応元(1865)年2月19日敦賀で斬。享年21歳。
茂木浅吉
朝吉とも。行方郡上戸村の農。慶応元(1865)年2月19日敦賀で斬。享年17歳。
吉川忠蔵
行方郡上戸村の農。慶応元(1865)年2月19日(16日とも)敦賀で斬。享年41歳。
片岡武左衛門
行方郡矢幡村の農。慶応元(1865)年2月19日敦賀で斬。享年53歳。
小島彦次郎
行方郡矢幡村の農市左衛門の長男。林五郎三郎勢。慶応元(1865)年2月19日敦賀で斬。享年不明。
浅野善十郎
行方郡富田村の農。慶応元(1865)年2月19日(15日)敦賀で斬。享年32歳。
森山勝蔵
森山衛門と同一人か。行方郡矢幡村の農。慶応元(1865)年2月19日(15日とも)敦賀で斬。享年50歳。
兼平与総右門
行方郡牛堀村の農。慶応元(1865)年2月16日(19日とも)敦賀で斬。享年39歳(30歳とも)。
岩戸常蔵
常陸の農。慶応元(1865)年2月19日敦賀で斬。享年不明。
岡山藤介
行方郡富田村の農浅吉の長男。慶応元(1865)年2月19日敦賀で斬。享年不明。
石井蔵之介
常陸の農。元治元(1864)年11月15日上野甘楽郡で佐貫藩兵に銃殺される。享年不明。
小林勇次郎
林五郎三郎勢。慶応元(1865)年2月19日敦賀で斬。享年不明。
根本熊太郎
行方郡潮来村の農要七の二男。慶応元(1865)年2月19日敦賀で斬。享年不明。
吉川半兵衛
石川甚五郎
常陸の農。慶応元(1865)年2月19日敦賀で斬。享年不明。
香内彦三郎
金輪清之介
行方郡潮来村の農。慶応元(1865)年2月19日敦賀で斬。享年不明。
佐野信一郎
石島秀之允
石田秀之介とも。常陸の農。林五郎三郎勢。慶応元(1865)年2月19日敦賀で斬。享年不明。

水府藩義士墳墓
(福井県敦賀市)
武田泰吉
田中重蔵
山田龍之進
長谷川幾之介
長谷川幾三郎?
佐山覚之進
鈴木信蔵
常陸の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年32歳。
武田孝蔵
斎藤安之進
藤田仲務
常陸の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年24歳。
飯島与三郎
時三郎とも。林五郎三郎隊。慶応元(1865)年2月19日敦賀で斬。享年不明。
大久保信之介
与力八郎の長男。元治元(1864)年6月下総小金駅屯集。8月松平頼徳に従い下国、転戦後西上。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年27歳。
野牛熊吉
源(弥)衛門の子。大砲方同心。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年22歳。
横田弥四郎
桜井辰之介
下野芳賀郡田野部村、高雷神社神主郡祗の子。元治元(1864)年親友楠要介と筑波勢に加わり転戦。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年22歳。
服部荘介
新治郡田伏村の農嘉衛門の長男。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年不明。
大窪専七
半七とも。多賀郡大久保村の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年34歳。
小橋新作
行方郡矢幡村の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年42歳。
高橋元次郎
常陸の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年不明。
石井総介
常陸行方郡潮来村の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年27歳。
福田誠十郎
青山新太郎
常陸の農。慶応元(1865)年死。青山新四郎と同一人か。享年32歳。
村上栄五郎
坂藤蔵
行方郡島崎村の農。田丸稲之衛門勢。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年22歳。
佐々木久介
行方郡玉造村の農政介の長男。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年不明。
吉田藤蔵
茨城郡秋葉村の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年25歳。
鴨志田伴七
伴七郎とも。那珂郡鷹巣村の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年不明。
武藤宇兵衛
武藤田とも。茨城郡吉田村(久慈郡太田村とも)の農常介の六男。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年不明。
大関弥平
加藤政介
星彦吉
茨城郡大橋村の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年不明。

水府藩義士墳墓
(福井県敦賀市)
大津雄太郎
運送方手代東次郎忠順の長男。元治元(1864)年江戸藩邸から那珂湊へ。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年21歳。
佐々木雄蔵
重蔵とも。常陸の浪人。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年不明。
亀山祐衛門
下野芳賀郡三好村の豪農賀治の子。亀田徳三郎の異母弟。元治元(1864)年4月太平山へ参加。西上中小荷駄奉行。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年26歳。
木村雄六
常陸の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年不明。
大和田秀次郎
常陸の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年24歳。
春田秀太郎
川崎健之介
銕之介とも。久慈郡磯部村の農。佐次衛門の三男。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年不明。
森貞之介
茨城郡大橋村の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年不明。
寄金貞太郎
定次郎か?。多賀郡大久保村の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年18歳。
野口主馬
大和田外記
真壁郡大国村青木の医。昌元の子。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年26歳。
宮田勝三郎
千葉貫一郎
本多巳之太郎
巳之介とも。茨城郡酒門村の農太兵衛の三男。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年不明。
関登一郎
久慈郡花房村の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年43歳。
井坂貞蔵
久慈郡花房村の農。安清四郎と事を共にし、慶応元(1865)年2月19日(16日とも)敦賀で斬。享年43歳。
関口直次郎
直十とも。行方郡芹沢村の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年54歳。
森荘三郎
茨城郡大橋村の農。田丸稲之衛門勢。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年24歳。
直木藤平
直本とも。茨城郡小川村の農重兵衛の二男。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年不明。
川澄善兵衛
別名鬼平。茨城郡小幡村の農。慶応元(1865)年2月16日(15日とも)敦賀で斬。享年28歳。
宮本清蔵
新治郡安食村の農。田丸稲之衛門勢。儀左衛門の長男か。慶応元(1865)年2月19日(16日とも)敦賀で斬。享年27歳。
富士申十郎
半蔵とも。常陸の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年不明。
白須伊平太
はじめ権次郎。馬廻組平十郎正敬の二男。田丸稲之衛門勢。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年17歳。
埜本久次郎
近藤伴蔵
常陸の浪人。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年不明。
森誠八郎
茨城郡大橋村の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年不明。
中村東一郎
中村清之允
茨城郡小坂村の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年不明。
酒井八三郎
多賀郡大久保村の農。敦賀から水戸へ送られ、慶応元(1865)年獄死。享年30歳(35歳とも)。
横田藤十郎
那珂郡田谷村の農。慶応元(1865)年5月18日敦賀で獄死。2月16日斬とも。享年25歳。

水府藩義士墳墓
(福井県敦賀市)
加藤木総吉
茨城郡北方村の農。慶応元(1865)年2月16日(19日とも)敦賀で斬。享年26歳。
清水大助
八次郎とも。那珂郡山方村の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年17歳。
楠要人
常陸の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年21歳。
岡部仙介
園部とも。茨城郡藤井村の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年不明。
大分太介
小川新三郎
加固新太郎
行方郡潮来村(鹿島郡磯浜村)の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年不明。
成井藤九郎
行方郡玉造村の農。大山守格。田丸稲之衛門勢。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年46歳。
渡辺雄之介
小松主殿
渡辺直次郎
直四郎か?。常陸浪人。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。
原田武佐衛門
石井政之允
内山小六
深谷四郎
常陸の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年22歳。
大塚亀次郎
三田徳兵衛
伊藤与十郎
永田兵介
平馬か?。常陸の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年19歳。
藤田啓介
飯泉芳之介
右門
都賀厚之介
常陸の農。慶応元(1865)年2月19日敦賀で斬。享年不明。
谷村与右衛門
谷口与五衛門とも。常陸の農。慶応元(1865)年2月19日敦賀で斬。
大崎新蔵
新之介とも。行方郡清水村の農。慶応元(1865)年2月16日(19日とも)敦賀で斬。享年38歳。
黒沢八郎
別に有田姓。久慈郡落合村の農。文久三(1863)年春新徴組。元治元(1864)年林五郎三郎勢。慶応元(1865)年2月19日敦賀で斬。享年34歳(35歳とも)
田善五郎
斎藤太介
茨城郡常盤村、農総五郎の長男。変名西東太助。田丸稲之衛門勢。慶応元(1865)年2月19日敦賀で斬。享年不明。
寺門喜次郎
原弁之介
大砲方同心。慶応元(1865)年2月9日敦賀で斬。享年不明。

水府藩義士墳墓
(福井県敦賀市)
藤四郎
留吉
常陸の農。慶応元(1865)年2月19日敦賀で斬。享年不明。
清三郎
惣次郎
兵介
常陸茨城郡鯉淵村の農。獄死。享年不明。
忠介
蔵介
道之介
七蔵
鹿島郡小堤村の農新七の叔父。島山姓か。慶応元(1865)年2月19日敦賀で斬。享年不明。
伊介
那珂郡千田村の農。赦にあったが病のため敦賀に留まり、慶応元(1865)年閏5月9日病没。享年55歳。
吉兵衛
早川姓か。茨城郡小鶴村農茂兵衛の長男。の農。慶応元(1865)年2月19日敦賀で斬。享年22歳。
貞七
又介
董四郎
定吉
安兵衛
清吉
貞介
銀蔵
孝太郎
鎌次郎
与三郎
長次郎
長吉
良介
宗八
啓一郎
吉兵衛
徳兵衛
定蔵

水府藩義士墳墓
(福井県敦賀市)
藤咲源三郎
石橋彦七
行方郡牛堀村の農。慶応元(1865)年1月9か敦賀で獄死。享年17歳。
大久保重次郎
常陸の農。慶応元(1865)年敦賀で斬。享年不明。
福田三右衛門
飯田忠四郎
目付同心組手代格。鹿島郡磯浜に拠り、元治元(1864)年8月16日那珂郡那珂湊で戦死。享年41歳。
戸牧孝蔵
豊田彦之丞
菊池鼎次郎
野村則行の二男、菊池以道の養子。小十人組。元治元(1864)年10月5日那珂湊反射炉構内で戦死。享年37歳。
大津彦之允
彦次郎武綱の三男。彦五郎の兄。小十人組。元治元(1864)年榊原新左衛門勢。転戦して9月9日久慈郡島村で戦死。享年30歳。
野村丑松
常陸の農。元治元(1864)年11月16日上野甘楽郡下仁田で高崎藩兵と戦い戦死。享年不明。
大江雄之介
青木源介
慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年23歳。
石川茂平次
久慈郡天神林村の農。元治元(1864)年10月13日那珂湊で戦死。享年25歳。
武石猟之介
久慈郡島村の農。慶応元(1865)年1月29日敦賀で獄死。享年20歳。
大曽根繁蔵
久慈郡島村の農。田丸稲之衛門勢。元治元(1864)年11月16日上野甘楽郡下仁田で高崎藩兵と戦い戦死。享年32歳。
根本兵介
浅野彦重
片岡源次
茨城郡下小田村の祠官。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。
田村長右衛門
那珂郡足崎村の農。慶応元(1865)年2月25日敦賀で斬。享年不明。
加藤栄次郎
積次郎とも。行方郡潮来村の農。慶応元(1865)年2月15日(16日とも)敦賀で斬。享年18歳。
小嶋新作
行方郡矢幡村の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年42歳。

水府藩義士墳墓
(福井県敦賀市)
高谷徳三郎
筑波郡島名村、農源右衛門の五男。藤田小四郎と行動を共にし、慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年25歳。
中野平介
坪山源介
行方郡潮来村の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年35歳。
本間信三郎
行方郡潮来村の農。林五郎三郎勢。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年35歳。
山口四郎左衛門
川俣清左衛門
川澄とも。常陸の農。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。
溝口太二郎
常陸の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年41歳。
小田部重平
行方郡玉造村の農。組頭。田丸稲之衛門勢。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年42歳。
岡野亀太郎
茨城郡飯前村の農。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年不明。
登戸藤之介
桐山伊介
堤誠八
清八とも。茨城郡常陸村年寄格、藤三郎の弟。田丸稲之衛門勢。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年18歳。
二方舎人
久慈郡新宿村諏訪神社祠官。文次郎徳久の叔父。林五郎三郎勢。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年49歳。
大高要介
茨城郡阿波山村の農。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年22歳。
久保田久蔵
行方郡矢幡村の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年48歳。
高橋荘五郎
高松荘三郎とも。常陸の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年不明。
荒井弁次郎
新次郎とも。行方郡清水村の農。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年不明。
小泉芳之介
虎次郎の弟。兄と共に行動。慶応元(1865)年2月16日(15日)敦賀で斬。享年18歳。
永井小四郎
那珂郡館村の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年不明。
栗又鉄之介
行方郡上戸村の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年21歳。
山本儀兵衛
行方郡潮来村の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年23歳。
菊池忠兵衛
常陸の農。林五郎三郎勢。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年不明。
本田佐久之介
行方郡羽生村香取神社祠官志馬義胤の二男。慶応元(1865)年2月16日(15日とも)敦賀で斬。享年19歳。
渡辺久助
常陸の農。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年不明。
田中三之介
常陸の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年不明。
萩谷荘三郎
久慈郡島村の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年不明。
田村宇三郎
右三郎とも。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年不明。
桜井茂介
上野六衛門
慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年不明。
坂本勝次
新治郡安食村の農。田丸稲之衛門勢。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年33歳。

水府藩義士墳墓
(福井県敦賀市)
川津丑之助
那珂郡上河内村の農。林五郎三郎勢。慶応元(1865)年2月16日(15日とも)敦賀で斬。享年28歳。
萩津甚兵衛
土子竹次郎
山沢啓介
小沢姓、山崎姓も。行方郡延方村の農。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年20歳。
羽黒粂之介
内藤利兵衛
行方郡辻村里正、五郎左衛門の弟。田丸稲之衛門勢。慶応元(1865)年2月16日(15日とも)敦賀で斬。享年27歳。
山口新介
神田宗介
寺門左右吉
伊能彦八郎
小山馨三郎
小野馨之丞とも。元下野芳賀郡真岡の商。小山鼎吉の子。横田藤四郎の甥。藤田小四郎と義兄弟。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年19歳。
宮崎安五郎
安太郎とも。行方郡潮来村農、次衛門の長男。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年不明。
高崎新兵衛
鬼沢熊次郎
熊太郎とも。行方郡上戸村の農。伊兵衛の子。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年不明。
加藤荘吉
石上三次郎
常陸の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年21歳。
川島三郎
富川寅次郎
寅五郎とも。行方郡富田村の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年不明。
前島竹次郎
武四郎とも。行方郡牛堀村の農慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年28歳。
小今田平介
皆川亀松
行方郡羽生村の農小貫藤介の僕。主と共に慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年32歳。
小岸亀吉
沢田信之介
那珂郡村松村太神祠官、恒之介泰博の弟。慶応元(1865)年2月16日(19日とも)敦賀で斬。享年27歳。
高瀬秀之介
茨城郡下圷村郷士、忠八郎の兄。敏徳とも。田丸稲之衛門勢。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年21歳。

水府藩義士墳墓
(福井県敦賀市)
前木六三郎
新八郎の次弟。百石。文久三(1863)年新徴組入り。元治元(1864)年松平頼徳に従って市川勢と転戦。10月敦賀に禁固され、慶応元(1865)年2月4日敦賀で斬。享年37歳。
玉造誠之進
清兵衛の二男。土蔵番組。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年20歳。
秋山又三郎
村島与十郎の五男。磯浜、岩船で勇戦。慶応元(1865)年2月16日(15日とも)敦賀で斬。享年20歳。
下野廉三郎
早太郎の三男。元治元(1864)年松平頼徳に従い転戦。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年17歳。
高橋市兵衛
虎之介の長男。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年17歳。
浜野松次郎
孔嘉の三男。元治元(1864)年筑波勢に加わり転戦。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年23歳。
瀧口六三郎
新左衛門の五男。元治元(1864)年3月田丸稲之衛門勢に加わり常野を転戦。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年22歳。 
小野藤五郎
皆川栄達の三男で小野直行の養子。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年19歳。
芹沢助次郎
馬廻義幹の三男。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年20歳。
岩間久次郎
金左衛門の子、金平の弟。元治元(1864)年常野を転戦。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年19歳。
中村親之介
三五衛門の三男。元治元(1864)年田丸稲之衛門勢に加わり転戦。10月西上軍に入り、慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年20歳。
朝倉三四郎
源太郎の弟。元治元(1864)年江戸から松平頼徳に従い、各地転戦、西上に加わり、慶応元(1865)年2月23日敦賀で斬。享年19歳。
市毛孝之介
普請方勤め太郎衛門の二男。元治元(1864)年3月挙兵に参加、慶応元(1865)年2月16日慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年19歳。
杉山弥一郎
阿久津小太郎
留付列敏衛門の長男。郡代手代見習。一時幕府新徴組。慶応元(1865)年2月25日敦賀で斬。享年23歳。
安藤彦之進
信明の長男。与力。元治元(1864)年武田耕雲斎に従って転戦。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。
桑屋元三郎
文庫役列鉄砲師善太郎の三男。田丸稲之衛門勢。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年20歳。
小泉虎次郎
庖厨人。田丸稲之衛門勢。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年23歳。
萩谷金次郎
飯村昌節の二男で萩谷信道の養子。元治元(1864)年8月松平頼徳に従って水戸へ。転戦後西上。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年37歳。
檜山三之介
茂尚の三男。文久三(1863)年2月上京。元治元(1864)年5月太平山に拠り歴戦。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年27歳。
荘司与十郎
鈴木秀太郎
同心。林五郎三郎勢。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年27歳。
平埜重三郎
目付同心。松平頼徳を守って那珂湊へ。慶応元(1865)年2月16日(15日とも)敦賀で斬。享年45歳。
木村園三郎
順之介の長男。元治元(1864)年榊原新左衛門勢で転戦。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年17歳。

水府藩義士墳墓
(福井県敦賀市)
川嶋森之介
奥同心組頭手添荘八郎教忠の長男。林五郎三郎勢。慶応元(1865)年2月16日(19日とも)敦賀で斬。享年19歳。
高橋辰三郎
茨城郡常磐村の農。日光山に会し、林五郎三郎に属す。。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年25歳。
中崎貞介
那珂郡鹿島村の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年34歳。
横田藤四郎
下野芳賀郡真岡荒町の質商、穀商。国学を学び志士と交友。坂下門事件にも関与。元治元(1864)年三男藤三郎と筑波勢に加わり、慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年45歳。
大内雄之介
久慈郡島村農、組頭弥次郎の長男(茨城郡川又村組頭とも)。慶応元(1865)年6月水戸に送られ、慶応二(1866)年2月15日獄死(慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬とも)。享年30歳。
安藤繁之介
浪人。繁蔵とも。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年不明。
寺門周吾
浪人。林五郎三郎勢。元治元(1864)年10月18日部田野の戦いで敵将加藤彦太郎を斬る。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年不明。
加藤木雄之介
茨城郡高久村の農。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年20歳。
小沢弥一郎
小沼とも。行方郡富田村の農(同郡上戸村の農、弥五左衛門の長男とも)。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年25歳。
安藤正之介
林正徳組。穀留中間。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年37歳。
相田健之介
郡方下役。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年不明。
藤田秀五郎
山野辺主水正の家士蔵之進の長男。田丸稲之衛門勢。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年22歳。
津久井衛門七
留守列織物師太介の弟。御広敷下番豊田定次郎倅とも。田丸稲之衛門に属し三郎と改称。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年25歳。
亀山大介
泰介とも。常陸の農。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年不明。
佐々木鉄之介
小沢栄介
那珂郡武田村、農甚兵衛の長男。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年不明。
小貫藤介
行方郡羽生村の農。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年23歳。
青木孫之允
梶山敬介
安掛藤十
久慈郡天神林村の農。初め田丸稲之衛門勢、のち林五郎左衛門勢。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年24歳。
粟飯原久七
行方郡上戸村の農。慶応元(1865)年2月16日(19日とも)敦賀で斬。享年25歳。
卯月七之介
宇津木とも。行方郡辻村の農。田丸稲之衛門勢。慶応元(1865)年2月16日(19日とも)敦賀で斬。享年20歳。
宮本安五郎
粟飯原留吉
行方郡上戸村の農。慶応元(1865)年2月15日(19日とも)敦賀で斬。享年25歳。

水府藩義士墳墓
(福井県敦賀市)
加藤柳之介
金方元締役歩士列浅見子之介の子。中奥坊主小頭林斎の養子。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年22歳。
松崎熊之介
小道具方中間。江戸藩邸より那珂湊に拠る。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年25歳。
北川元三郎
庭方同心組政之介の弟。武田彦衛門勢。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年25歳。
安嶋鉄次郎
金方手代弥七郎の二男。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年不明。
立花新吉
常陸の農。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年18歳。
山口荘吉
関雄之介
先手同心組。武田彦衛門勢。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年21歳。
萩原造酒之介
行方郡玉造村の修験、竜宝院賢海。元治元(1864)年部田野で勇戦。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年31歳。
篠原造酒蔵
先手同心組造酒衛門の長男。田丸稲之衛門勢。変名亀介、秀之介。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年21歳。
森兵五郎
茨城郡大橋村組頭兵七郎の長男。田丸稲之衛門勢。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年不明。
金沢啓蔵
久慈郡磯部村の農。林五郎三郎隊。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年不明。
梅川竹四郎
浪人。林五郎三郎勢。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年不明。
田村源太郎
常陸の農。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年不明。
楠帯次郎
芳次郎とも。茨城郡常磐村修験積善の子、光学院。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年23歳。
塚原五郎
時次、忠介とも。行方郡潮来村の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年30歳。
唐津俊蔵
行方郡潮来村の農。林五郎三郎勢。額田、部田野で勇戦。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年39歳(40歳とも)。
飯村晋三郎
表中間、林五郎三郎組。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年29歳。
中庭力蔵
平山良太郎
常陸の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年不明。
浅山一寿
宮本孫四郎
行方郡玉造村の農。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年41歳。
大嶋新介
高木徳衛門
小沢辰之介
久慈郡松栄村の農。太郎衛門の長男。藤田小四郎の僕。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年不明。

水府藩義士墳墓
(福井県敦賀市)
幡谷善七
行方郡羽生村の農。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年21歳。
瀧広次
広介とも。常陸の農。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年不明。
松原彦兵衛
常陸の農。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年不明。
藤田平太郎
山田才輔
山崎とも。久慈郡西宮村の農。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年不明。
森富松
小松崎荘之介
茨城郡下吉影村、農兵衛門の長男。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年不明。
三鴨善七
常陸の農。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年不明。
高橋一楽
一平とも。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年不明。
笹目平二郎
鹿島盟
盥とも。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年不明。
堤三次郎
加藤積次郎
小嶋重次郎
今野勇
磯部春之介
笹目福次郎
石崎彦作
農。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年不明。
坂本源介
平山藤之介
行方郡潮来村の農。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年25歳。
武井惣吉
定之介
関口熊三郎
栗田源左衛門
町方同心。安政五(1858)年以来国事に奔走。万延(1860)元年8月江戸薩邸に攘夷を訴える。元治元(1864)年3月田丸稲之衛門勢隊長。慶応元(1865)年2月15日敦賀で斬。享年38歳。
綿引誠一郎
渡場守理兵衛の子。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年不明。
島田文右衛門
茨城郡花野井村の農半平の二男。元治元(1864)年3月参加。大砲隊の長として歴戦。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年31歳。
兜宗介
鹿島郡大貫村の農、小山守。田丸稲之衛門勢。慶応元(1865)年2月19日敦賀で斬。享年48歳。
米川文蔵
久蔵とも。行方郡潮来村の農。慶応元(1865)年2月16日敦賀で斬。享年39歳。
難波源之進
樫村平太郎
表祐筆平三郎の長男。元治元(1864)年田丸稲之衛門に属し転戦。慶応元(1865)年2月1日敦賀で斬。享年21歳。
林忠左衛門(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。安政四(1857)年床机廻に選ばれ、のち馬廻組となる。安政五(1858)年の藩難、ついで安政六(1859)年の勅書返納阻止に奔走した。万延(1860)元年2月金子孫二郎ら評定所に召還されるを聞き、これを奪わんとして藩兵と消魂橋に戦って負傷し、ために大老井伊直弼要撃に加わらなかった。同年8月薩摩藩邸に37人と共に投じ、攘夷の先陣たらんとした。元治元(1864)年6月大挙して江戸に向うため下総小金に屯集した。同年8月松平頼徳を護衛して那珂湊に拠り、少年隊を指揮して城兵と戦い、神勢館の砲撃に負傷して10月23日総督榊原新左衛門の自首に従い、久留里藩に禁固中、慶応元(1865)年正月1日病死した。享年26歳。
江口忠八(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
茨城郡下大野村の農。下総関宿に拘禁。慶応元(1865)年1月2日江戸佃島で獄死(飯野で病死とも)。享年42歳。
田山文左衛門(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
茨城郡川又村の農。慶応元(1865)年1月8日江戸佃島で獄死。享年66歳。
小貫善兵衛(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
那珂郡下江戸村の農。慶応元(1865)年1月2日下総関宿で獄死。享年42歳(44歳とも)。
玉川金左衛門(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。寄場方同心。慶応元(1865)年1月7日下総関宿で獄死。享年61歳。
鶴田謙次郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
茨城郡塩子村の農。慶応元(1865)年1月14日下総関宿で獄死。享年52歳(49歳とも)。
菊池由兵衛(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
那珂郡照田村の農。慶応元(1865)年1月17日下総関宿で獄死。享年51歳(49歳とも)。
榊忠兵衛(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。矢師。慶応元(1865)年1月24日武蔵忍で獄死。享年56歳。
岡部忠蔵(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。安政元(1854)年家督を継ぎ、安政四(1857)年書院番頭、万延(1860)元年6月に大番頭に進み、文久三(1863)年には大寄合頭となり、元治元(1864)年藩主徳川慶篤の命を受けて上京、関白二条斉敬に攘夷鎖港の説を進言し、帰国して執政に挙げられた。ついで市川三左衛門らの国政変革に異論を唱え、榊原新左衛門らと共に藩主を補佐したが、市川らの志を得るに及び執政を罷免せられ、10月に幕命により江戸の獄に下り、翌慶応元(1865)年1月26日囚中に没した。享年44歳。
井坂善七(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
那珂郡野上村の農。岩槻藩に拘禁。慶応元(1865)年2月2日獄死。享年29歳。
永山新次郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
茨城郡塩子村の農。慶応元(1865)年2月5日下総関宿で獄死。享年53歳(56歳とも)。
加藤忠五郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。慶応元(1865)年2月20日武蔵岩槻で獄死。享年50歳。
飯島善七(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
茨城郡大串村の農。慶応元(1865)年3月26日武蔵川越で獄死。享年20歳。
石川新次衛門(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
那珂郡野口平村の農。慶応元(1865)年3月28日武蔵川越で獄死。享年26歳。
鈴木猪之太郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。郡方手代見習。慶応元(1865)年3月28日下総佐倉で戦死。享年19歳。
江橋五衛門(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
茨城郡島田村の農。那珂湊に拠り、慶応元(1865)年4月2日武蔵川越で斬。享年55歳。
萩谷平八(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
茨城郡小泉村の里正、郷士列。安政松から国事に奔走。元治元(1864)年下総銚子に拘禁、慶応元(1865)年4月2日斬。享年66歳。
雨宮鉄三郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。茨城郡秋葉村神社祠官兼水門郷校守。下総結城藩に幽閉され、慶応元(1865)年4月3日斬。享年39歳。
新井源八郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。嘉永二(1849)年家督を継ぎ馬廻組となり、金奉行を勤めた。安政五(1858)年の徳川斉昭籠居中は小姓頭として近侍した。文久三(1863)年2月藩主慶篤に随従して上京。元治元(1864)年郡奉行に在任中、6月部下吏民が小金駅に集ったのを率い、8月榊原新左衛門らと松平頼徳に従い下国した。しかし入城を阻止され、ついに那珂湊に拠り連戦し、同年10月23日総督榊原らの自首に従い、郡奉行村田理介と負傷者の看護に当たり、のち佐貫藩に預けられ、慶応元(1865)年4月3日自刃を命ぜられた。享年42歳。
五十嵐宗四郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。剣に長ず。江戸藩邸から松平頼徳に従い下国。武蔵忍藩に幽せられ、慶応元(1865)年4月3日斬。享年21歳。
木村三穂介(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
茨城郡島田村の郷士。安政五(1858)年以来国事に奔走、亡命。元治元(1864)年8月から転戦。10月自首。慶応元(1865)年4月3日上総佐貫で斬。享年55歳。
黒沢覚介(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
那珂郡石神宿村の郷士。横目格。弘化以来国事に奔走、元治元(1864)年那珂湊に拠る。慶応元(1865)年4月3日佐貫で斬。享年47歳。
園部俊雄(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。目見格医員。慶応元(1865)年4月3日武蔵忍で獄死(刑死か)。享年不明。
床井荘三(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。藩校に学んで俊秀の聞こえが高かった。茅根伊予之介・原市之進につき塾生を教授した。安政三(1856)年史館雇となり、歩士に転じ、小十人組に班した。文久三(1863)年藩主に随従して上京した。元治の役には武田耕雲斎に属して各所に転戦したが、10月榊原新左衛門の自首に従い、忍藩に禁固され、慶応元(1865)年4月3日死罪に処せられた。享年28歳。
村田理介(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。文政元(1818)年家督を継ぎ、天保十三(1842)年東郡奉行となり、弘化の藩難に際し藩主徳川斉昭の雪冤に奔走した。安政元(1854)年反射炉築造に当たって金子孫二郎と共に奉行に任ぜられた。文久三(1863)年北郡奉行に移る。元治元(1864)年6月大挙して江戸に向うため下総小金駅に屯集した。8月松平頼徳に随従して那珂湊に拠り、10月23日榊原新左衛門の自首に従い、那珂湊に残留して負傷者の看護に従事した。11月銚子に禁固され、慶応元(1865)年4月3日自刃を命ぜられた。享年58歳。
興野助九郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。郡吏。慶応元(1865)年4月4日上総東金で斬。享年47歳。
下野隼次郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。安政三(1856)年進仕して弘道館訓導に@挙げられ、史館勤を兼ねた。安政五(1858)年8月勅諸問題発生して国事に奔走し、文久元(1861)年5月同藩の原市之進と共に宇都宮藩士大橋訥庵らと会合して安藤老中要撃を画策した。文久二(1862)年冬一橋慶喜の上京に随従し文久三(1863)年正月翠紅館の会合に列席し、諸藩の同志と交わり、、攘夷の機運を高めた。同年3月軍用見習となる。元治元(1864)年の役には松平頼徳に属して那珂湊に拠り、山国喜八郎と共に軍議に与った。同年10月23日総督榊原新左衛門の自首に従い、岩槻藩に禁固され、慶応元(1865)年4月4日死罪に処せられた。享年43歳。
田尻新介(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。年少の頃より会沢正志斎に学び、天保末横目役に任じて里正を兼ねた。弘化の変に出府して藩主の無実を老中牧野忠雅邸に訴えて発覚し、獄につながれた。藩政回復するに及んで許され、安政はじめ横目役に服して郷士に列した。安政六(1859)年の難に南上して意見を開陳し、勅書返納の議起こるや憤激して大老井伊直弼襲撃を唱えた。元治の春選ばれて郡方勤となって徒士に列し、潮来郷校の取締を命ぜられ、動乱には那珂湊に拠って城兵と戦い、のち降伏して岩槻村に禁固され、慶応元(1865)年4月4日死罪に処せられた。享年47歳。
薄井十兵衛(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。蔵奉行、馬廻組。南上し、のち那珂湊に拠る。慶応元(1865)年4月5日下総古河で斬。享年34歳。
岡部藤介(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。父がかつて罪を得て士籍を削られたので、藤介は家を再興しようと武芸に出精し、最も槍術をよくした。藩主の特命により安政五(1858)年祖父岡部忠義の養子となり、家督を継いで小十人目付となる。元治元(1864)年の内戦に榊原新左衛門に属し、那珂湊に拠って転戦。同年10月23日新左衛門の自首に従い、古河藩に禁固せされ、翌慶応元(1865)年4月5日死罪に処せられた。享年28歳。
小田部幸吉(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。奥祐筆頭取から郡奉行。元治元(1864)年藩士を率い部田野に戦う。慶応元(1865)年4月5日下総古河で斬。享年46歳。
梶清次衛門(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。天保末年家督を継ぎ、床机廻より歩士目付・小十人組・土蔵番頭を経て、安政二(1855)年寺社役に進み、馬廻役に列した。万延(1860)元年10月富小路任節が勅書を奉じて水戸に徴行した時、原市之進と図り、家老大場一真斎に致した。文久三(1863)年正月一橋慶喜に随従して上京し、翠紅館の志士会合に列席して諸藩の同志と交わり、攘夷の機運を高めた。元治元(1864)年の国難に那珂湊に拠り城兵並びに諸家の戦い、10月23日総督榊原新左衛門の自首に従い古河藩に禁固せられ、翌慶応元(1865)年4月5日死罪に処せられた。享年45歳。
木村円次郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
茨城郡島田村の里正。安房館山藩に捕えられ、慶応元(1865)年4月5日斬。享年36歳。
栗田八郎兵衛(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。嘉永六(1853)年床机廻に選ばれ、安政四(1857)年歩行目付、安政五(1858)年奥右筆に移った。同年奉勅・雪冤に同志と奔走した。万延(1860)元年本家栗田寛猛の養子となった。元治元(1864)年の内戦には榊原新左衛門に属し、那珂湊・神勢館の戦闘に参加し、10月23日新左衛門の自首に従い、古河藩に禁固され、慶応元(1865)年4月5日自刃を命ぜられた。享年35歳。
小池源太衛門(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。先手同心組から目付。慶応元(1865)年4月5日下総古河で斬。享年45歳。
榊原新左衛門(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。嘉永二(1849)年養子となり家督を継ぐ。安政五(1858)年大番頭・大寄合頭を経て文久三(1863)年執政に挙げられた。元治元(1864)年6月市川三左衛門らの執政就任に反対して江戸に向かい、その解任に成功した。ついで同年8月藩主目代として下向する松平頼徳を護衛して水戸へ下ったが、三左衛門らに入城を阻止され、転じて那珂湊に陣して遂に城兵と交戦するに至った。同年8月29日頼徳は陣容をあらためて新左衛門を軍事総督に任じた。やがて幕府目付戸田五助の誘引により頼徳は江戸に向い幕府に陳情する事となったが、9月26日那珂湊を去るに臨み、新左衛門を留守総督に任じ、後命を待たしめた。しかし休戦は破られて戦闘は再開された。彼は幕軍と戦うことの本意ではないことと城中の戸田銀次郎の勧めもあって、10月21日会合を開き、自首を評決した。同月23日千余人を率いて幕府に降伏し、古河藩に禁固され、慶応元(1865)年4月5日自刃に処せられた。享年32歳。
鈴木荘蔵(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。天保十三(1842)年床机廻、安政元(1854)年家督を継ぎ、安政四(1857)年大番組頭。文久二(1862)年6月先手同心頭となり、海岸防御として磯浜に定詰となる。元治の役に際して松平頼徳の陣営に入り、那珂湊に拠って城兵と戦い、10月23日の総督榊原新左衛門の自首に従い、古河藩に禁固され4月5日自刃に処せられた。享年44歳。
大胡聿蔵(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。天保十三(1842)年文武出精により賞せられ、弘化の藩難に奔走して処罰された。嘉永二(1849)年免され、嘉永六(1853)年床机廻に選ばれ、安政四(1857)年家督を継いで小十人組に班した。安政五(1858)年勅書伝達をはかり住谷寛之介と西海南海道に遊説し、安政六(1859)年2月帰藩した。同年8月高橋多一郎らと出府し、薩摩藩士高崎五六らと会合して除奸計画に加わった。文久二(1862)年冬一橋慶喜の上京に随従した。元治元(1864)年6月大挙して江戸に向うため下総小金に屯集し、7月松平頼徳に従って那珂湊に拠り、諸生隊を率いて城兵並びに幕兵と交戦、同年10月23日榊原新左衛門の自首に従い、古河藩に禁固され、慶応元(1865)年4月自刃に処せられた。享年44歳。
谷鉄蔵(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。嘉永四(1851)年重和の養子となって家督を継ぎ、中寄合・小姓・使番・歩行頭と進んだ。安政五(1858)年藤田小四郎・佐野竹之介らと奉勅を唱えて奔走した。元治の役に榊原新左衛門に属して那珂川に拠り城兵と交戦したが、幕府に抗する意なく、10月5日幕軍が那珂湊に迫るに及んで退陣した。同月23日総督榊原の自首に従い、父政常と共に古河藩に禁固され、翌年4月5日自刃に処せられた。享年22歳。
谷弥次郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。天保十三(1842)年家督を継いで大番組、安政元(1854)年町奉行となり、安政五(1858)年用人を経て万延(1860)元年新番頭に進む。文久三(1863)年用人を再勤。藩主徳川慶篤の上京に随従した。元治元(1864)年6月大挙して江戸に向うため、小金に屯集して武田耕雲斎と画策した。8月松平頼徳を護衛して下国、那珂湊に拠って転戦したが、10月23日に至り榊原新左衛門の自首に従い、古河藩に禁固され、慶応元(1865)年4月5日自刃に処せられた。享年62歳。
照沼平三郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。奥祐筆からから馬廻。慶応元(1865)年4月5日下総古河で斬。享年54歳。
富田三保之介(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。万延(1860)元年側用人となり、文久元(1861)年若年寄に進む。文久三(1863)年藩主徳川慶篤の上京に随従した。源次の駅に松平頼徳に属し、那珂湊に拠って城兵と戦火を交えた。元治元(1864)年8月末、軍事奉行に任じて中備の将となった。同年10月23日総督榊原新左衛門の自首に従い、古河藩に禁固せられ、慶応元(1865)年4月5日自刃に処せられた。享年28歳。
沼田久次郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。歩行目付・普請奉行を経て文久三(1863)年奥祐筆頭取に進んだ。元治元(1864)年6月大挙して江戸に向うため小金駅に屯集し、8月松平頼徳を護衛して那珂湊に陣し、城兵と交戦したが、10月23日榊原新左衛門の自首に従い、古河藩に禁固され、慶応元(1865)年4月5日死罪に処せられた。享年55歳。
 
林了蔵(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。安政三(1856)年弘道館舎長に挙げられ、安政四(1857)年訓導となる。万延(1860)元年奥祐筆に転じ、万延二(1861)年馬廻組を経て奥祐筆に復した。元治元(1864)年6月市川三左衛門らの執政就任に反対し、江戸に向うため下総小金に屯集した。同年8月松平頼徳に随従して下向、那珂湊に拠って城兵と戦い、10月23日に至って榊原新左衛門の自首に従い、古河藩に禁固されて慶応元(1865)年4月死罪に処せられた。享年37歳。
 
原熊之介(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。天保十三(1842)年床机廻に選ばれ、弘化の難に藩主徳川斉昭の無罪を老中阿部正弘に訴えて罪を得、幽閉された。安政四(1857)年吟味役となり、文久三(1863)年藩主慶篤に随従してして上京した。同年家督を継いで勘定奉行見習となる。元治元(1864)年6月大挙して江戸に向うため、下総小金に屯集した。同年8月松平頼徳の下国に随従、那珂湊に拠って城兵と交戦、10月23日榊原新左衛門の自首に従い、古河藩に禁固されて慶応元(1865)年4月5日死罪に処せられた。享年41歳。
 
福地勝衛門(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。幼より学を好み、神童の聞え高かった。嘉永六(1853)年進仕して床机廻に選ばれ、9月砲術出精をもって賞せられ、同年馬廻組に班した。文久三(1863)年軍用掛見習となり、2月、藩主徳川慶篤の上京に随従した。元治元(1864)年8月父と行動を共にし、古河藩に禁固され、慶応元(1865)年4月5日斬罪に処せられた。享年36歳。
 
福地政次郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。天保六(1835)年進仕して小十人組に班し、嘉永六(1853)年小姓頭取に進む。同年11月大砲献上の介添えを勤めた。安政元(1854)年神発流指南の功により賞せられ、安政四(1857)年指南出精により持筒頭格となり、安政五(1858)年銃砲頭、軍用掛に任ぜられた。元治元(1864)年8月目代松平頼徳を神勢館に迎え、目代の入城を計った。しかし城中の市川三左衛門らはこれに応ぜず、再び戦闘となり、政次郎は頼徳に属して城兵と対抗した。同年10月23日総督榊原新左衛門自首するに及び、政次郎もこれに従い、古河藩に禁固され、慶応元(1865)年4月5日自刃に処せられた。享年56歳。
 
真木彦之進(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。天保十三(1842)年床机廻に選ばれ、安政五(1858)年家督を継いで普請奉行となる。文久三(1863)年藩主徳川慶篤の上京に随従、同年6月西郡奉行に任じた。元治元(1864)年6月大挙して江戸に向うため下総小金に屯集、松平頼徳に従って那珂湊に拠り諸戦に参加した。同年10月21日榊原進左衛門の自首を決するや会合の場においての評決を主張し、新左衛門はこれに従った。同月23日降伏して古河藩に禁固され、慶応元(1865)年4月5日自刃に処せられた。享年42歳。
 
松本平左衛門(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。先手同心頭から目付。松平頼徳かに従って那珂湊に拠る。慶応元(1865)年4月5日下総古河で斬。享年55歳。
 
三木孫太夫(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。嘉永六(1853)年床机廻に選ばれ、安政元(1854)年家督を継ぎ、文久元(1861)年同心頭となる。文久三(1863)年藩主徳川慶篤の上京に随従した。元治元(1864)年6月大挙して江戸に向うため下総小金に屯集した。8月松平頼徳を護衛して水戸に下り、那珂湊に拠って転戦、10月23日の榊原新左衛門の自首に従い、古河藩に禁固され、慶応元(1865)年4月5日自刃に処せられた。享年44歳。
 
宮本辰之介(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。安政元(1854)年床机廻に選ばれ、安政四(1857)年家督を継いで小十人目付となる。文久二(1862)年勅使大原重徳の東下に際し、下野遠明と間行して出府し、重徳に接して上書建言するところがあった。元治元(1864)年6月大挙して江戸に向い、藩邸に入り、8月目代松平頼徳に随従して那珂湊に拠り、城兵と交戦して10月23日榊原新左衛門の自首に従い、古河藩に禁固されて翌年4月5日死罪に処せられた。享年34歳。
 
三好右衛門八(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。文久末先手同心頭。慶応元(1865)年4月5日下総古河で斬。享年39歳。
 
森三四郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。大番組。元治元(1864)年松平頼徳を守り転戦。慶応元(1865)年4月5日下総古河で斬。享年29歳。
 
渡辺宮内衛門(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。小姓頭取から用人。慶応元(1865)年4月5日下総古河で斬。享年36歳。
 
綿引宇八郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。弘道館舎長、小十人目付組頭、馬廻組頭。慶応元(1865)年4月5日下総古河で斬。享年37歳。
 
木村平五郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
久慈郡照山村の農。慶応元(1865)年4月6日銚子で獄死。享年58歳。
 
梶仁介(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。留守居同心頭又左衛門俊富の庶子。慶応元(1865)年4月16日武蔵忍で獄死。享年37歳。
 
西郷鉄太郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。床机廻。慶応元(1865)年4月19日下総古河で獄死。享年20歳。
 
安蔵忠之進(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。先手同心組。下総関宿に拘禁。慶応元(1865)年4月25日武蔵岩槻で獄死。享年23歳(24歳とも)。
 
加倉井金兵衛(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
茨城郡下古内村の農。慶応元(1865)年4月25日下総関宿で獄死。享年51歳。
 
立花秀之介(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。慶応元(1865)年4月28日獄死。享年29歳。
 
野上久吉(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
那珂郡八田村の農。慶応元(1865)年5月3日武蔵川越で獄死。享年47歳(44歳とも)。
 
箕川正遺(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
那珂郡湊村の医師。慶応元(1865)年5月5日江戸佃島で獄死。享年35歳。
 
本沢平太夫(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。安政四(1857)年家督を継ぎ、文久二(1862)年大番組に進む。この俊2月藩主徳川慶篤の上京に随従した。元治元(1864)年6月大挙して江戸に向うため下総小金に屯集した。8月松平頼徳に随従して那珂湊に拠り、10月23日榊原新左衛門の自首に従って久留里藩に禁固され、慶応元(1865)年5月11日囚中病死した。享年27歳。
 
武藤伝十郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
久慈郡下土木内村の農。慶応元(1865)年5月16日下総島野で獄死。享年42歳。
 
長島平次衛門(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
那珂郡吉丸村の農。慶応元(1865)年5月17日武蔵川越で獄死。享年22歳。
 
門奈三衛門(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。兄直章の養子となり、天保三(1832)年家督を継いだ。弘化元(1844)年歩行頭を経て、安政三(1856)年大番頭となり、同年8月致仕した。元治の難にその二子事に赴き、ために有司に忌嫌され、官舎に禁固されて5月21日獄死した。享年不明。
 
宮本吉兵衛(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
茨城郡小勝村の農。慶応元(1865)年5月25日獄死。享年49歳。
 
佐々与衛門(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。嘉永六(1853)年床机廻りに選ばれ、安政元(1854)年、命により江戸に出て外夷の変に備えた。砲技をよくし、しばしば賞せられた。安政五(1858)年小十人組に補せられて、同年家督を継ぎ、馬廻組に移った。元治元(1864)年6月大挙して江戸に向うため小金に屯集し、8月松平頼徳に随従して那珂湊に拠り、砲隊を指揮して城兵幕兵と転戦した。同年10月降伏して古河に禁固され、5月26日囚中に没した。享年41歳。
 
小田倉捨吉(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
那珂郡門部村の農。慶応元(1865)年5月28日武蔵川越で獄死。享年19歳。
 
長山助十郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
那珂郡若林村の農。慶応元(1865)年閏5月1日下総関宿で獄死。享年38歳。
 
出沢喜平次(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
茨城郡上古内村の農。慶応元(1865)年閏5月4日武蔵川越で獄死。享年33歳。
 
関根加賀(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
久慈郡東蓮池村、嵯峨社祠官目見格。慶応元(1865)年閏5月6日下総結城で獄死。享年67歳。
 
片岡吉衛門(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
那珂郡青柳村の農。慶応元(1865)年閏5月8日武蔵川越(下総関宿とも)で獄死。享年31歳。
 
鈴木斎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
多賀郡安良川村八幡宮祠官目見格。慶応元(1865)年閏5月13日下総結城で獄死。享年38歳。
 
平沢金之介(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。那珂郡小場村、鹿島社仕官目見格。慶応元(1865)年閏5月19日結城で戦死。享年39歳。
 
中島兵部(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
那珂郡額田村の人。上岩瀬村五所社祠官熊太郎久徳の父。慶応元(1865)年閏5月25日下総高岡で獄死。享年39歳。
 
小森平七(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
那珂郡三美村の農。慶応元(1865)年閏5月22日下総関宿で獄死。享年50歳。
 
海老根謙蔵(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
那珂郡東野村の農。慶応元(1865)年閏5月23日下総関宿で獄死。享年35歳。
 
雨沢孫四郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
鹿島郡大貫村の農。慶応元(1865)年閏5月30日武蔵川越で獄死。享年30歳。
 
田辺造酒之介(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
久慈郡磯部村、鹿島熊野両社祠官、目見格。慶応元(1865)年6月1日下総結城で獄死。享年50歳。
 
野上藤蔵(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
那珂郡八田村の農。慶応元(1865)年6月1日武蔵川越で獄死。享年51歳。
 
桐原幸吉(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
那珂郡照田村の農。慶応元(1865)年6月2日江戸佃島で獄死。享年不明。
 
青木源之介(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
茨城郡下伊勢畑村の農。慶応元(1865)年6月6日下総関宿で獄死。享年24歳。
 
大久保吉衛門(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
那珂郡上小瀬村の農。元治元(1864)年下総銚子で捕らえられ、慶応元(1865)年6月9日獄死。享年54歳(56歳とも)。
 
横須賀荘四郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。神発流付属中間。慶応元(1865)年6月10日銚子で獄死。享年26歳(28歳とも)。
 
岡本勇三郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。抜刀術に長ず。床机廻。慶応元(1865)年6月12日下総古河で獄死。享年26歳。
 
皆川荘次平(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
那珂郡高部村の農。慶応元(1865)年6月14日下総関宿で獄死。享年28歳(24歳とも)。
 
河原井藤次兵衛(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
茨城郡小坂村の農。慶応元(1865)年6月16日下総関宿で獄死。享年46歳(44歳とも)。
 
和知亀之助(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
多賀郡大久保村の農。慶応元(1865)年6月18日下総島野で獄死。享年34歳。
 
楠橘衛門(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
那珂郡野口村、佐伯社社務正雄の父。慶応元(1865)年6月22日下総高岡で獄死。享年53歳。
 
鈴木喜八郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
茨城郡上合村の里正。慶応元(1865)年6月27日武蔵川越で獄死。享年59歳。
 
面川誠一郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
多賀郡油縄子村の農。慶応元(1865)年6月29日下総銚子で獄死。享年25歳
 
栗原誠蔵(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。公廟台所勤。慶応元(1865)年7月1日武蔵忍で獄死。享年34歳。
 
斎藤伊左衛門(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
那珂郡静村の里正。慶応元(1865)年7月2日下総関宿で獄死。享年不明
 
菊地忠衛門(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
菊池とも。久慈郡冥賀村郷士。水戸藩小十人組。安政五(1858)年より国事に奔走。元治元(1864)年8月松平頼徳に従い下国、10月降伏。慶応元(1865)年7月3日武蔵川越で獄死。享年67歳。
 
小林総七(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
茨城郡浜田村の農。慶応元(1865)年7月3日下総佐倉で獄死。享年54歳。
 
藤田丈七(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
久慈郡高柴村の農。慶応元(1865)年7月6日下総銚子で獄死。享年不明。
 
黒沢理兵衛(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
那珂郡石神外宿村、郷士七之介利貞の祖父。慶応元(1865)年7月5日下総銚子で獄死。享年60歳。
 
鈴木彦太郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。反射炉掛職工留守居同心格。銚子から江戸佃島へ移送され、慶応元(1865)年7月5日獄死。享年63歳。
 
須藤正之衛門(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
久慈郡下利員村の郷士。慶応元(1865)年7月5日下総佐倉で戦死。享年28歳(27歳とも)。
 
鴨志田唯一郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
那珂郡東石川村の農。慶応元(1865)年7月7日下総島野で獄死。享年25歳。
 
滝田重作(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。表中間。慶応元(1865)年7月7日下総佐倉で獄死。享年44歳。
 
介川治三郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。押役。慶応元(1865)年7月6日下総佐倉で獄死。享年26歳。
 
深沢悌之進(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。床机廻.。慶応元(1865)年7月8日下総古河で獄死。享年22歳。
 
横田金蔵(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。神発流隠密同心組。慶応元(1865)年7月9日上総鶴巻で獄死。享年28歳。
 
宮田金太郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。普請方三十人組。慶応元(1865)年7月10日下総佐倉で獄死。享年22歳。
 
介川秋三郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。目付同心組。慶応元(1865)年7月16日安房勝山で獄死。享年45歳。
 
阿良山佐兵衛(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
茨城郡塩子村の農。慶応元(1865)年7月20日下総関宿で獄死。享年39歳(37歳とも)。
 
羽部廉蔵(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩郷士。小十人組。元治元(1864)年6月小金屯集。8月松平頼徳に従って入国、転戦。慶応元(1865)年7月21日武蔵川越藩で獄死。享年58歳。
 
野上大内蔵(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
那珂郡村松村の修験。法名龍蔵院。目見格。慶応元(1865)年7月23日下総高岡で獄死。享年47歳。
 
川上源次兵衛(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
那珂郡石神豊岡村の里正。慶応元(1865)年7月25日下総島野で獄死。享年50。
 
伊王野秀太郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。故あって士籍を脱。元治元(1864)年上総東金に幽され、慶応元(1865)年7月25日獄死。享年62歳。
 
海野長次郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
那珂郡後台村の農。慶応元(1865)年7月28日下総関宿で獄死。享年36歳。
 
大窪又一郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
多賀郡大久保村の郷士。武蔵岩槻(下総鳥野とも)に拘禁され、慶応元(1865)年8月5日獄死。。享年25歳。
 
長山総兵衛(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
久慈郡冥加村の農。慶応元(1865)年8月10日佐倉で獄死。享年54歳。
 
石川清五郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
久慈郡中利貞村の農。慶応元(1865)年8月13日下総銚子で獄死。享年41歳。
 
木村勘兵衛(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
茨城郡島田村の郷士。安政五(1858)年10月小金屯集。元治元(1864)年榊原新左衛門勢。10月降伏。慶応元(1865)年8月14日上総久留里で獄死。享年52歳。
 
樫村雄之介(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。床机廻。慶応元(1865)年8月28日武蔵川越で獄死。享年22歳。
 
三浦平太郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。安政中次番から中奥番。慶応元(1865)年8月25日下総古河で獄死。享年41歳。
 
里見四郎左衛門(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。文政八(1825)年家督を継いで大番頭となり、嘉永年中槍奉行・旗奉行を務め、安政四(1857)年致仕した。元治の役に一族参加し、家を去って城東の栗崎村の民家に隠れていたが、異党の捕吏に探知され、9月5日妻を手刃にして自ら割腹して果てた。享年71歳。
 
河野井和三郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。与力。慶応元(1865)年9月10日武蔵忍で獄死。享年41歳。
  安藤政五郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
那珂郡門井村の農。慶応元(1865)年9月17日下総関宿で獄死。享年52歳(50歳とも)。
 
園部謙介(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
茨城郡全隈村の農。那珂湊で砲創を負い、慶応元(1865)年9月17日没。享年38歳。
 
多賀野美濃(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
那珂郡堤村静社祠官。慶応元(1865)年9月18日下総高岡で獄死。享年48歳。
 
野内多三郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。大沼詰先手同心。慶応元(1865)年9月29日武蔵岩槻で獄死。享年41歳。
 
永井量蔵(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。小普請組熊之介の弟。慶応元(1865)年10月24日上総東金で獄死。享年22歳。
 
大竹勘次郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。文政十二(1829)年進仕して嘉永四(1851)年小十人目付、安政元(1854)年同組頭となる。安政四(1857)年末、水戸藩建造の軍艦旭日丸が完成して幕府に賞せられた。安政五(1858)年の国難に際して雪冤・:奉勅に奔走、同藩士杉浦仁右衛門の手引により浪人山本貞一郎と懇意となり、京都手入を容易にした疑いで安政六(1859)年4月評定所の審理を受け、、10月押込となり、慶応元(1865)年10月25日水戸の獄で死罪に処せられた。享年42歳。
 
 
 岡田新太郎(茨城県水戸市・酒門有墓地〔上下とも〕)
水戸藩参政。徳守。新太郎徳至の長男。安政初年出仕して小姓となり、寄合指引・小姓頭を経て、安政五(1858)年家督を継いで書院番頭となった。密勅の降下に際し朝旨遵奉を主張し、安政六(1859)年参政に進んだ。同年藩主徳川慶篤の許しを得て、執政白井織部・杉浦羔二郎と共に老中安藤信行に勅書返納の不可を説き、返納の期を緩くすることを請うた。元治元(1864)年6月大寄合頭に進んだが、江戸にて市川三左衛門が政権を執るに及び、二弟を率いて江戸に向い、慶篤に正邪の別を陳情して三左衛門らを斥けさせた。ついで藩主目代松平徳頼が水戸に赴く際、病床にあって従うことができず、留まって藩邸にいたが、三左衛門が再び政権を得るに及んで水戸に送致されて下獄、翌慶応元(1865)年10月25日斬に処せられた。享年26歳。
 
 岡田捐蔵(茨城県水戸市・酒門共有墓地)
水戸藩士。新太郎徳守の弟。兄と元治元(1864)年共に南上。共に入獄。慶応元(1865)年10月25日水戸で斬。享年22歳。
岡田兄弟の御墓に刻まれた没年は「元治元年」となっています。その理由についてはわかりません…。
皆川平衛門(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
那珂郡野口村の農。慶応元(1865)年10月30日下総関宿で獄死。享年46歳。
  
 
遠藤常彦(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
郡方勤留付列。安政五(1858)年奉勅を運動。元治元(1864)年武蔵岩槻藩に拘禁。慶応元(1865)年11月1日獄死。享年44歳。
 
 
黒沢彦七(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
那珂郡石神外宿村、準郷士善兵衛邦好の次男。慶応元(1865)年11月1日下総銚子で獄死。享年24歳。
 
小林留太郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
茨城郡塩子村の農。慶応元(1865)年12月10日銚子で獄死。享年19歳。
 
柴田誠之介(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
多賀郡木四村、郷士正夫惇の長男。下総関宿から武蔵岩槻へ移され、慶応元(1865)年12月10日獄死。享年28歳。
 
堀江小三郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
茨城郡酒門村の農。田丸稲之衛門勢。敦賀から水戸へ移され、慶応元(1865)年12月10日獄死。享年21歳。
 
舟橋清七郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
茨城郡下阿野沢村の里正。慶応元(1865)年12月11日武蔵川越で獄死。享年36歳。
 
柴田総七(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
那珂郡北塩子村の農。慶応元(1865)年12月16日江戸佃島(銚子とも)で獄死。享年22歳(24歳とも)。
 
 
館鉄太郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。弓師久米太郎芳久の長男。上総久留里から佃島に移され、慶応元(1865)年12月26日獄死。享年19歳。
天狗党は最後の頼みとしていた一橋慶喜が天狗党討伐の指揮を執っているという報を聞き、加賀藩に投降します。最初はそれなりに厚遇されていたのですが、戦後処理を任された老中田沼意尊さんが敦賀に到着し、身柄を引き渡されると共に、天狗党823名は敦賀の鰊倉16棟に押し込められます。
そして元治二年=慶応元(1865)年2月4日…武田耕雲斎さんら25名が処刑執行。2月15日には134名、2月16日には103名、2月19日は75名、2月23日に16名と次々と処刑されます。さらに累は幹部家族にまで及び、幕末史上最大の刑死者を生む悲劇となりました。
そして怨嗟は連環していくことになるのです…。

この作業を始めた時点で天狗党が最大の強敵になるだろうとは思っていましたが、さすがにその終幕となると半端な辛さじゃないですね。殉難者の人数だけなら上野戦争や会津戦争などの方がはるかに上ですが、基本的に合葬墓なので個々の略歴の編修がメインになります。しかし天狗党は結構個人墓が多い…。だから一人一人の御墓の写真に名前つけて整理するところから始まり…。敦賀の碑に至っては現地で現物を直接見ながら、その場で一人一人の名前をこのためだけに作った専用チェックシートに記入しましたよ。その間誰も来なかったのが不思議なくらいで…。万一来たら観光客にしたら鬱陶しい奴がチョロチョロしてると御不快に思ったことでしょう。

そして略歴の編集に入るのですが、どうにも敦賀の碑に刻まれた殉難者の名が、「殉難者名鑑」に適合しないケースが多いのです。特に名字がないとどれが誰やら…。変名などのケースもあったので、さらに精査しつつ、書き加えていく必要があります。今回は碑名を全て列挙した上で、判明した者のみ略歴を記し、必要に応じて名を書き変えています。
慶応元年 天狗党・悲劇の終焉