日野佐一(熊本県人吉市・永国寺)
人吉藩士。物頭。慶応元(1865)年9月26日未明、自宅で和風派に殺害された。享年56歳。
日野貫蔵(熊本県人吉市・永国寺)
人吉藩士。近習役。慶応元(1865)年9月26日未明、自宅で和風派に殺害された。享年29歳。
日野かの(熊本県人吉市・永国寺)
貫蔵の妻。慶応元(1865)年9月26日未明、自宅で夫・娘と共に斬殺された。享年21歳。
日野やえ(熊本県人吉市・永国寺)
貫蔵の娘。慶応元(1865)年9月26日未明、父母と共に斬殺された。享年3歳。
肥後人吉藩は代々山鹿流軍学を藩の軍制にしていましたが、幕末期には山鹿流の和風派と、軍制改革によりオランダ流にしようとする洋風派が対立。おりしも文久二(1862)年2月7日、城下の鍛冶屋町寅助宅から発生した大火(寅助火事)によって人吉城を含め城下の大半を消失するという事態が発生しました。
復興には薩摩藩家老小松帯刀さんの高配で5000両の借金が得られたことで一応の目処は立ったものの、武器庫の再興などにあたってオランダ流が採用され、さらに文久三(1863)年7月に薩摩藩が鹿児島湾に来航したイギリス艦隊によって城下を焼かれた薩英戦争のことが伝わるや、洋式派の松本了一郎さんは洋式軍制化の必要性から和風派を藩政から遠ざけ、藩主相良頼基侯の用人に抜擢されて藩政を掌握したことで対立は激化しました。
しかし元々佐幕派だった洋風派が勤王派であった和風派を追い落としたことで、薩摩藩と軋轢を生むことになってしまいました。
そのため藩主が洋風派を疎んじ始めたことから、洋風派が藩主を廃して新藩主を立てようという陰謀を巡らせているといった噂が飛び交い出し、真に受けた藩主は和風派を藩政に復帰させ、洋風派の粛清を断行したのです。これが慶応元(1865)年9月25日に発生した人吉藩の丑年騒動で、このとき上意討ちにされた者は16名に及びました。

現在墓碑の存在が確認できたのは、この騒動で唯一妻子ともに巻き添えを蒙った日野家だけです。御墓は明治十(1877)年の西南戦争において人吉まで撤退した西郷隆盛さん率いる薩摩軍が本営を置いた永国寺で、城下復興の折に世話になったこともあってか薩摩軍によく協力し、境内には秀吉の朝鮮出兵に関わる耳塚などと共に西郷さん関係の石碑やありますが、薩摩軍に対する政府軍の攻勢でこのお寺も灰燼に帰し、僅かな寺宝を残すのみとなりました。その1つが有名な幽霊図なんです{{{{( ▽|||)}}}}。

調査に入ったのは雪のちらつく2007年の大晦日でしたが、隣の保育園の裏にある日野家墓所の方には誰もいませんでした。まぁ寒い大晦日にそうそう出歩く人もいないでしょうし…。
霊山歴史資料館が発行する『紀要 第6号』に所収されている「祭神研究 熊本県」には、日野家の御墓は現存しないとなっていますが、そこには斬殺された家族4人の御墓が寄り添うに建っており、佐一さんの傍らには生き残って明治を生きた奥様の御墓があります。

正直言って無名な方々なんですけど、御墓の印象度は過去最大でした。さながら家族5人が集まっているような墓所。墓碑の大きさがさながら体の大きさを表しているかのごとくで、とりわけ3歳で斬られたやえさんの小さな御墓は、なんともいえない無常を感じました…。
慶応元年 人吉藩丑年騒動