江幡定彦(京都市東山区・霊山墓地)
水戸藩士。文久三(1863)年春上京して禁門守衛。一橋家の公用人平岡円四郎を君側を乱す奸として、元治元(1864)年6月16日京都三条千本御用屋敷で暗殺、自刃。享年26歳。
林忠五郎(京都市東山区・霊山墓地)
水戸藩士。文久三(1863)年京都勤方。一橋家公用人平岡円四郎を、一橋慶喜に攘夷延引を勧める奸として、元治元(1864)年6月16日京都三条千本御用屋敷で斬殺して自刃。享年26歳。
中丈之助(京都市東山区・霊山墓地)
十津川郷士。文久三(1863)年8月天誅組に呼応して農兵を組織。元治元(1864)年6月19日没。享年不詳。
佐久間象山(京都・妙心寺大法院)
松代藩士。松代藩の下士の家に生まれたが、少年時代から秀才の誉れが高く、天保四(1833)年江戸に出て佐藤一斎に学び、天保十(1839)年江戸神田阿玉池に塾を開いた。天保十三(1842)年、藩主真田幸貫が海防掛老中となると、象山を顧問として海外の事情を研究させた。伊豆韮山代官江川太郎左衛門に西洋兵学を学び、弘化元(1844)年、黒川良安を同居させて蘭学を学ぶ。その後オランダの百科辞書等によって新しい知識を身につけ、嘉永三(1850)年深川藩邸で砲学の教授を始め、勝海舟・吉田松陰・橋本左内・河井継之助ら、多くの有能な人材を門下に集めた。嘉永六(1853)年、門人吉田松陰のアメリカ密航失敗事件の連座して国元に蟄居を命ぜられ、44歳から52歳までの働き盛りの丸8年を松代でおくり、その間、蘭書などを読んで知識を広めた。文久二(1862)年蟄居を許され、元治元(1864)年上洛中の将軍家茂の召命により上京、公武合体・開国佐幕の策士として活躍中、7月11日三条木屋町で尊攘派の手により暗殺された。享年54歳。
ここは普段閉門しているらしく入れませんでした。今回この企画のために訪れたときは・・・開いてました!! 実際に撮影するまでにはもう少し関門を突破しなければならなかったのですが、結果的にお連れできたのは幸いでした。これも象山先生のお導きでしょうか?

もへい様寄贈
久世広周(東京都豊島区・本妙寺)
関宿藩主、老中。天保元(1830)年10月養父広運卒去により遺領五万八千石を継ぎ、天保八(1837)年8月奏者番となり、天保十四(1843)年10月寺社奉行を兼ね、嘉永元(1848)年10月西丸老中に転じ、嘉永四(1851)年12月老中に進んだ。その在職中、安政五(1858)年には日米通商条約締結調印と将軍継嗣問題に直面し、老中首座の堀田正睦・内藤信親・脇坂安宅・松平忠固と共に幕閣として幕末の難局に当たった。同年4月井伊直弼が大老となるや、広周はその意向に迎合し、6月正睦・忠固は大老の忌諱に触れて老中を罷免されたが、広周もまた10月職を辞した。桜田門外の変直後の万延(1860)元年閏3月再び老中となり、12月一万石加増されて六万八千石となった。再度の閣老としては安藤信正と共に久世・安藤幕閣を形成し、尊攘派に対抗して公武合体策を強め、文久二(1862)年には和宮の家茂将軍への降嫁ともなったが、信正は浪士に襲われ(坂下門外の変)間もなく老中を罷免された。この間、広周はまた外国御用取扱の老中として、ヒュースケン暗殺事件、露艦の対馬滞泊事件、英国仮公使館東禅寺事件を処理した。しかるにかねて期待していた長州藩士長井雅楽の航海遠略策による公武周旋が、病と称して辞職を請うていたが、同年6月罷免され、8月に至り在職中に不測の取計らいがあったとして、先に加増された一万石を削られ、致仕・謹慎を命ぜられ、家督を嫡子に譲ったが、さらに11月追罰永蟄居に処せられた。元治元(1864)年6月25日没。享年46歳。
山田小右衛門(京都市東山区・霊山墓地)
長州藩士。元治元(1864)年7月13日死。享年不詳。
今井三郎右衛門(京都市東山区・霊山墓地)
但馬豊岡藩士。早くより尊攘の志を抱き、文久元(1861)年郷里を出て京都に出、宮部鼎蔵・吉田稔麿らに従い国事に奔走した。元治元(1864)年6月5日三条池田屋で同志と謀議中、幕吏のため捕縛されて六角の獄に投ぜられ、7月18日獄舎で斬られた。享年46歳。
桃井可堂(東京都文京区・吉祥寺)
儒者。幼時大里郡血洗島の渋沢仁山に師事、文政七(1824)年江戸東条一堂の門に入り、清河八郎・那珂悟楼とともに「一堂門の三傑」と称された。のち備前庭瀬藩の儒臣となったが、藤田東湖らに共鳴し、書を大原重徳に献じて時務を策したが報いられず文久三(1863)年藩を辞して郷里に帰り、中瀬村に塾を開いた。その門から小田熊太郎・金井国之丞らの志士を出した。自らも水戸志士とともに尊攘の兵を挙げようとしたが露見して自首、江戸福江藩邸に幽囚され、元治元(1864)年7月22日同所で没した。享年62歳。
深瀬時助(京都市東山区・霊山墓地)
十津川郷士。御親兵として上京。元治元(1864)年9月8日病死。享年不詳。
沖剛介(東京都港区・青山墓地)
鳥取藩士。安政六(1859)年17歳にして江戸藩邸学問所の助教となる。文久二(1862)年辞し天下を巡遊、ひまひまに探索方を勤めた。文久三(1863)年国事周旋方に任ぜられ、諸藩との情報把握に従事、8月藩命により江戸へ行き、長州藩の救解に努力した。元治元(1864)年鳥取藩の征長の役参加に際し目付堀庄次郎を征長支持派の中心人物と目しそれを非として、9月5日同志増井熊太と共に堀庄次郎を暗殺し、そのため11日切腹を命ぜられ自刃した。享年22歳。
城武平(福岡市・安養院)
福岡藩士。文化九(1812)年右筆役となり、納戸役、町方吟味役、無定組取締請持を経て、万延元(1860)年要害作事奉行添役となった。この間武平は海津幸一・今中仁左衛門(今中祐十郎・作兵衛の父)・伊丹三十郎(伊丹慎一郎の父)らと楠公会を興した。同年10月藩主の参勤交代中止を極諌したが聞き容れられず、逼塞に処せられた。ついで翌文久元(1861)年5月勤王派藩士と交際しているとの理由で家禄を没収され、長子亀太郎に十石三人扶持を給せられた。元治元(1864)年5月赦されて禄を復し、勤王派藩士と謀るところがあったが、9月12日病死した。享年62歳。
安養院ではずいぶん猫にお世話になりました。おかげで心身ともに疲弊していた私が仏になるかと思いました(誰もいない墓地でいきなり飛び出す猫たち…本当に疲れる…)。これまで京都をはじめたくさんのお墓に接しましたが、福岡では大抵の志士の御墓に贈位が書かれていることに気付きました。案外これは御墓を探す際の目印になるではないでしょうか。

もへい様寄贈
青山忠良(東京都品川区・東海寺玄性院)
篠山藩主。天保六(1835)年閏7月襲封、天保七(1836)年正月奏者番となり、天保八(1837)年5月寺社奉行を兼ねた。天保十一(1840)年11月大坂城代となり、因幡守を下野守と改め、弘化元(1844)年12月老中となったが、嘉永元(1848)年9月病のため辞した。文久二(1862)年2月致仕し、封を二男忠敏に譲った。元治元(1864)年11月15日没。享年58歳。
伊藤香刀(京都市東山区・霊山墓地)
池田屋殉難長州人の変名か?詳細不明。
   
  
文久四年/元治元年