元治元年 対馬藩尊攘派壊滅
大浦作兵衛(長崎県下県郡厳原町・太平寺)
対馬藩士。大浦教之助の長男。人となり厳急廉潔。天保九(1838)年11月出仕し、安政五(1858)年3月勘定奉行となり、常に父と共に国事に奔走した。文久元(1861)年2月露艦浅茅湾に闖入するや、川本九郎左衛門と江戸へ上り、家老佐須伊織を斃し、一藩を挙げて勤王の方向に導くのに与って力があった。ついで京都の留守居助役となり、周旋方を兼ねて上京したが、元治元(1864)年4月勝井五八郎の刺客のため負傷し、4月23日憤慨の極み自刃した。享年42歳。
大浦教之助(長崎県下県郡厳原町・太平寺)
対馬藩世臣・家老。不羈独立、持論とするところは尊王攘夷にあり、また天文・算数・砲術を能くし。経史に通じた。文政十二(1829)年扈従となり、郡奉行・勘定奉行に累進、天保中大目付となり、万延元(1860)年大勘定に転じ、大坂役表用人席となる。文久元(1861)年露艦来泊の時、間情使となり強行談判をなす。ついで家老助役から加判の列に登った。文久二(1862)年8月長子作兵衛らをして江戸家老佐須伊織を殺さしめた。元治元(1864)年日新館開設に当り宰となる。この間長州藩老臣と謀り、毛利敬親父子と七卿の雪冤に尽力し、禁門の変には藩の少壮の士を上京させ、鷹司邸前の戦闘に参加させた。時に勝井五八郎が藩主の外戚の故をもって政権を握ろうとしたが、教之助はその暴挙を憎んで除こうとし、かえって同年10月勝井の獄に連座、国乱をかもす首謀者と讒せられて投獄され、絶食して10月25日卒し、獄門・梟首に処せられた。享年72歳。
大浦亨
対馬藩士大浦作兵衛の子。幼時から孝養の心厚く、長じて唐坊長秋の門に学ぶ。経史を読み詩文を愛好した。元治元(1864)年2月日新館居寮生となった。同年10月権臣勝井五八郎の忙殺事変起こり、祖父教之助斃され、亨もまた揚屋に入れられ、10月25日刑せられた。享年17歳。
亨の死後、母その枕元の紙片を見れば「男児要当死於辺 野馬革襄我尸耳 何能病臥於床上 触于子女手耶」とあった。また次の和歌を遺している。「後の世の 為に思ふ身は 草の葉の 露と消ゆとも 何をか惜しまん」
大浦毅次郎
対馬藩士大浦作兵衛の子。幼時から沈断気節の男児であった。慶応元(1865)年1月5日二人の捕吏が来た際、毅次郎は直ちに避けて中庭に行って自刃した。捕吏は毅次郎の死を見届けて退去した。しばらくして毅次郎は目を開いて筆紙を乞い、滴る鮮血に筆端を染め抜いて「松竹梅 御母様涙のたね 毅次郎」と書き終って、どうぞ一杯の水をと願い、水を飲み干して絶息した。享年13歳。
毅次郎が難に遭った勝井騒動は、家族の一人が尊王家であればその家の男児は皆命を断たれるという過酷なものであった。
牟田隆伯(長崎県下県郡厳原町・醴泉寺)
対馬藩藩医。父の隆琢は寛政元(1789)年から対馬藩の儒学講学所で子弟の教授に当り、傍ら医業に従事し、寛政七(1795)年馬廻に進み、爾後医をもって家業とした。元治元(1864)年2月日新館が開設され、隆伯は選ばれて館の医学局教授に任ぜられた。同年12月勝井五八郎の獄を起すや、差控に処せられ、免れがたきを知って、「大野辺を 行くほど広き 入日かな」の辞世の俳句を遺し、10月10日入獄前に自宅で自刃した。享年47歳。遺体は斬首後、獄門となった。
牟田清太郎
対馬藩藩医。元治元(1864)年10月勝井五八郎の獄を起すや、父隆伯と共に揚屋入りを命ぜられたが、10月10日「西東 別たぬ父子の わかれ哉」の辞世の俳句を詠じ、入獄前に自宅で自刃した。享年19歳。のち獄門梟首に処せられた。
田中寛治(長崎県下県郡厳原町・醴泉寺)
対馬藩士。人となり質直で、唐坊荘之助・大浦遠らについて経史を学び、また隷書を能くした。文久三(1863)年出仕、元治元(1864)年3月、日新館居寮生となり、6月政府の書記となった。元治元(1864)年6月12日異国船横浦村に来泊した時は幾度判兵衛に従って難に赴いたが、9月故あって出仕を止められた。同年10月勝井五八郎の事変起るや、自ら死を覚悟し、10月25日「君か世の 曇りも晴て 行くならば あとにこゝろは のこさじものを」の辞世を遺して自害した。享年20歳。
田中久米輔
対馬藩士。元治元(1864)年10月勝井五八郎が肥前田代より帰り、勤王派党首大浦教之助を斃し矢継ぎ早にその野党の殺戮を決行するや、久米輔もまた大浦党であったために豆酘村に幽閉され、追て斬殺の運命にあった。その妻愛女は夫が他人の手に殺されるのを恥じ、金五両をもって婦人小田すみを傭って豆酘に行かせ、短刀を夫に与えて自刃させようとしたが、12月4日到着前、夫久米輔は殺戮されていた。享年44歳。
夫の死後愛女は閑居孜々菩提を弔うて追想に余念がなかったという。
多田外衛・作次郎(長崎県下県郡厳原町・太平寺)
対馬藩家老。弘化三(1846)年諸士頭に挙げられ、ついで寺社奉行を兼ね、万延元(1860)年家老に抜擢された。つねに勤王の士鈴木綱之介・河内染右衛門および義僧豊田三位らの節操有志の士と交わった。家老を罷めて閑居し、一日弟の鳥居嘉津衛に酒を饗し、坂間兄弟話に勝井五八郎の匪政を憤慨し、それが勝井の耳に入り、元治元(1864)年10月勝井の獄を起すや欠所の処分を受けた。ついで12月21日久田原の刑場に斬られ、のち獄門に曝された。享年50歳。
その子作次郎も殺吏のために絞殺された。享年13歳。
文久二(1862)年8月、大浦作兵衛ら対馬藩尊攘派40余人が対立していた対馬藩江戸家老佐須伊織を斬殺しました。長州をはじめとした尊攘の時勢もあって尊攘派は許されましたが、元治元(1864)年7月19日に禁門の変で長州が敗れ全国的に尊攘派の弾圧が始まるに及び、対馬藩でも新たに政権を握った奥家老勝井五八郎は対馬藩尊攘派の弾圧を始めました。その弾圧の徹底振りは、身内に一人でも尊攘派がいたならば一族共に抹殺するという苛烈なものでした。

2005年8月に偶然から対馬の土を踏むことになったのですが、そのとき捜索のために与えられた時間はわずかに2時間弱…元治元(1864)年に粛清されたのは調べが付く限りで164人に及びます…探せるかぃッ!。
消極的になってもしょうがないのでとにかく太平寺・醴泉寺の2箇所だけ周ったのですが、最初の太平寺が凄まじいところで、墓の数も多ければ草ぼうぼうで道もなくなるような所だったんです。そんな中草を掻き分け探せるだけ探しましたけど、全てが終わった段階でほぼ全ての殉難者がまだ残ってるような状態です。いつかまた対馬へ行かねばならないということですね。しかも冬に…。夏は草と蚊が多い…。