真木和泉(京都府大山崎・天王山/福岡県久留米市・山川招魂社
久留米水天宮第22代宮司。文政六(1823)年父の死によって家督相続、久留米藩中小性格に列し、水天宮祠官となる。天保三(1832)年閏11月京都において従五位下に叙任、大宮司真木和泉守朝臣保臣と称した。弘化元(1844)年江戸に出て7月会沢正志斎に面会し、尊撰思想の影響を受け、また安井息軒・塩谷宕陰・橘守部らと往来する。9月久留米に帰り、木村三郎・村上守太郎らと水戸学(天保学)を鼓吹し、三(1846)年3月藩主有馬頼永に藩政改革意見を上書した。同四(1847)年9月孝明天皇の即位式拝観のため上京し、三条実万・東坊城聡長・野宮定功ら公卿、小林良典ら堂上諸大夫の知遇・面識を得る。嘉永五(1852)年稲次因幡・木村三郎らと執政有馬監物らを排斥せんとはかって失敗、5月「三里構い」となって下妻郡水田村(筑後市大字水田)の実弟大鳥居啓太の家に蟄居を命ぜられる。以後11年におよぶ幽閉中その居山梔窩に青年たちを教え、諸国の志士でひそかに訪れる者も多かったが、文久元(1861)年12月平野国臣・清河八郎らと会議し、二(1862)年2月ついに鹿児島に脱出して大久保利通・有馬新七らと島津久光の上京をはかる。同年4月大坂にのぽり田中河内介らと挙兵をはかり、その総督たらんとしたが、寺田屋の変で挫折、7月久留米に護送幽閉される。同三(1863)年2月朝廷の沙汰により赦免、4月藩是を尊攘一途とすべきを藩主慶頼に建言、親兵頭取となったが、守旧派のため投獄、刑せられんとした。5月公卿および長州藩関係者の奔走で釈放、長州へおもむき毛利敬親父子に謁見して攘夷親征・討幕を説き、6月上京し学習院御用掛となった。八月十八日政変後三条実美らに従い長州に下ったが、久坂玄瑞・来島又兵衛らと挙兵上京をはかり、6月長州藩主の委託を受け諸隊総督となって進発したが、7月の禁門の変では久坂玄瑞、来島又兵衛らとともに浪士隊を率いて長州軍に参加、7月19日、堺町御門を目指して山崎から進軍したが、敗北して天王山に退却、長州へ敗走することを拒否して21日、同志16名とともに自刃した。享年52歳。
松田五六郎(京都府大山崎・天王山/京都市東山区・霊山墓地)
福岡藩士。諸国を遊歴した後、怡土郡飯原村雉子琴宮(一説には長野庄宇美八幡宮ともいう)の祠官となり、中原出羽守と称した。時に藩政を左右せる佐幕派の牧市内の暗殺を計画し、元治元(1864)年3月尊王派の藩士吉田太郎と謀ってこれを斬殺、吉田と共に脱藩して長州藩に投じた。同年7月の禁門の変には真木和泉に属して戦ったが敗れ、天王山で同志と割腹した。享年38歳。
松浦八郎(京都府大山崎・天王山/福岡県久留米市・山川招魂社)
久留米藩士。筑後国上妻郡本分村に住す。初め池尻茂左衛門に学び、また熊本に出て横井小楠に師事し、のち江戸に遊学して安井息軒の門に入り、また土浦藩の中島仁左衛門に就いて農学を修め、大橋訥奄にも従学した。文久二(1862)年脱藩上京し、川島順三郎と変名し、勅使三条実美の関東下向に従い、ついで帰藩した。翌三(1863)年8月藩命により上京を命ぜられたが、脱藩して長州藩に投じた。元治元(1864)年7月禁門の変に際し、真木和泉の忠勇隊に属して闕下に迫ったが、敗れて天王山で同志16人と自刃した。享年29歳。
岸上弘(京都府大山崎・天王山)
宇都宮藩士。幼より学を好み、江戸に出て大橋訥庵らに師事してのち、藩校の句読師または助教となり、さらに槍術を究めながら尊攘の志を練った。文久三(1863)年3月広田精一と共に脱藩して江戸に入り、さらに長州に走って久坂玄瑞・高杉晋作らと国事に奔走、元治元(1864)年7月真木和泉の軍に加わって禁門の戦いに敗れた後、志空しく十七烈士の一人として自刃した。享年28歳。
中津彦太郎(京都府大山崎・天王山/熊本県熊本市・黒髪神社)
肥後藩士。生来力強く、相撲界に入り矢筈嶽と称し大坂角力中第一流となり、感ずるところがあって松田範義の門に入り尊攘の事に従った。初め赤星姓のち中津姓を称し、轟木武兵衛・山田信道らに愛された。文久三年八月十八日の変に、彦太郎は鷹司邸に馳せて山田信道に会い、直ちに出撃を促して止まなかった。しかし事の成らざるを見て同志と共に長州へ走り七卿の護衛に任じた。元治元(1864)年7月19日、禁門の変に長州勢と共に出撃、敗れて天王山で自刃した。享年32歳。
小坂小次郎(京都府大山崎・天王山/熊本県熊本市・黒髪神社)
肥後藩士。人となり沈毅、武を好み特に槍を能くした。大義に臨み独見の明があった。早くから尊攘思想を抱いていたので父秋月も彼を特に寵愛した。文久三(1863)年5月親兵となり上京した。兄大八はその隊長、小次郎は隊内の雑務処理に当った。同年八月十八日の政変のとき高木元右衛門・加屋四郎らと語らい脱藩、七卿のもとに走り長州に赴いた。その後高木らと共に京都の情報を伝え、元治元(1864)年6月真木和泉に属して東上、7月の禁門の変に敗れて天王山に登り自刃した。享年22歳。
西島亀太郎(京都府大山崎・天王山/熊本県熊本市・黒髪神社)
肥後藩士。若年のころから藩命で江戸または長崎に往復し時勢に通じていた。父礫助も慷慨家でその影響で尊攘思想を抱いていた。文久二(1862)年父に従い京師に行き、翌三(1863)年春任終って帰国し即座に親兵に選ばれた。文久三年八月十八日の変の後、親兵解散しても帰国昔ず藤村衆郎と共に長州へ赴いた。長州では井上忠次郎と称し、京にあっては道具屋吉兵衛といい刀剣を売って天下の形勢を探った。元治元(1864)年7月宮部鼎蔵と共に郡山藩に使して帰り、長州藩の敗戦を知り天王山にて自刃した。享年32歳。
千屋菊次郎(京都府大山崎・天王山)
安芸郡和食村に生れたが、父が高岡郡半山村の庄屋となり、半山に移った。慷慨の士で、京都の遊学より帰国後土佐勤王党に加盟した。文久三(1863)年より諸国を巡歴したが、宮部鼎蔵と交わり、その書を得て、同志松山深蔵らと9月22日の夜脱藩、三田尻に至り七卿に随従した。元治元(1864)年7月禁門の変では忠勇隊に属し、堺町門にせまったが敗れ、天王山により真木和泉ら十六人と共に自刃した。享年28歳。
池尻茂四郎(京都府大山崎・天王山/福岡県久留米市・山川招魂社)
久留米藩士。文久二(1862)年、父茂左街門と共に上京し、諸藩の志土と交わり、勅使三条実美の関東下向に従って江戸へ行った。翌三(1863)年4月帰藩し、久留米藩尊王派勢力の回復に努力したが果さず、脱藩して長州へ赴き、同藩の下関外国艦船砲撃に参加した。のち久留米藩志士と帰藩したが、同年6月藩命により加藤常吉と共に上京した。同年八月十八日の政変後、長州藩へ逃走した、元治元(1864)年7月禁門の変に久坂玄瑞らと共に鷹司邸前に戦って敗れ、真木和泉らと天王山で割腹した。享年25歳。
安藤真之助(京都府大山崎・天王山)
土佐藩士。幼少時より剣道を修め、間崎哲馬について漢籍を学んだ。のち土佐勤王党に加わり王事に尽瘁した。文久三(1863)年11月勤王党の獄が起るや、藩の態度に失望して国を出て長州に赴いた。元治元(1864)年禁門の変が起るや、松山深蔵の忠勇隊に入って上京し、7月19日堺町御門の攻撃に向ったが敗れ、退却して天王山に拠り「七死七生、国賊是磯、敵王師者、強弱何嫌」の句を残し同月21日自刃した。享年22歳。
広田精一(京都府大山崎・天王山)
宇都宮藩士。父作助は笠間藩の老臣篠原某の第二子。故ありて脱藩、当時、江戸の宇都宮藩邸に住していた藩士広田家を継ぎ、長子精一を生む。幼少より学を修め、長じて藩儒大橋訥庵に従学やがて藩主の侍講として尊攘の志を磨く。文久二(1862)年県信緝・戸田忠至と共に山陵修復の策を立てた。翌三(1863)年岸上弘と共に脱藩して長州に赴き、高杉晋作らと行動を共にしたが、元治元(1864)年禁門の戦に真木和泉の部将となって活躍、敗れて天王山上十六烈士と共に自刃した。享年25歳。
酒井庄之助(京都府大山崎・天王山/熊本県熊本市・黒髪神社)
肥後藩士?。自ら肥後人と称するが、その本姓は不詳である。脱藩後酒井庄之助の変名を用い、したがってその郷里・人物閲歴を明らかにすることができない。一説には藩の一門長岡内膳の臣といわれている。文久・元治の間に京都にあって専ら尊攘を唱えその実現に尽力した。元治元(1864)年7月長州藩の兵と共に禁門の変に加わり、ついに天王山で真木和泉の下で奮戦し自刃した。享年不詳。
加屋四郎(京都府大山崎・天王山/熊本県熊本市・黒髪神社)
肥後藩士。父は事に座して自刃したので兄霽堅と共に貧困の中に母をいたわり、霽堅および木原楯臣の影響で尊攘思想を抱く。文久三(1863)年親兵に選ばれ、八月十八日の政変で小坂小次郎・高木元右衛門らと共に脱藩して長州に走った。元治元(1864)年6月福原越後の部下に属して東上、7月19日の禁門の変に敗れ、同志と共に天王山に退き、山上で真木和泉ら自刃せんとして四郎に年少の故をもって報告のため下山を勧めたが、四郎かえって怒り衆に先んじて自刃した。享年21歳。
松山深蔵(京都府大山崎・天王山)
土佐藩士。重厚剛毅の人で、土佐勤王党に加盟した。文久二(1862)年命により京都藩邸にあったが、禄二人扶持と金五両を賜わり、姉小路公知の東下に随従し、三(1863)年4月藩主山内豊範より禄二人扶持と金一五両を賜わり、探索の密命を帯びて江戸に赴き、関東を回って帰国した。八月十八日の政変後、同志の千屋菊次郎と共に脱藩し、三田尻に至って七卿に従い、一時三条実美の従士となった。その間九州諸藩の視察に赴き、久留米で捕えられたが脱出して三田尻に帰ったこともあった。元治元(1864)年禁門の変では、忠勇隊隊長として益田隊に属して出陣し、7月19日堺町門にせまったが敗れ、真木和泉ら十六士と共に天王山で自刃した。享年28歳。
宮部春蔵(京都府大山崎・天王山/熊本県熊本市・黒髪神社)
肥後藩士。兄鼎蔵の薫育をうけ尊攘思想を抱き、兵学の蘊蓄をきわめた。安政二(1855)年2月兄の門弟丸山勝蔵と共に水前寺で事件を起し三年の懲役(一年半で済んだ)をうけた。文久二(1862)年春内田弥三郎らと前後して脱藩、京師にあって八月十八目の政変ののち長州に奔り、兄鼎蔵を助けて三条実美の側備組頭となる。元治元年7月禁門の変に際し、たまたま西島亀太郎と共に出で郡山藩に説く。事が成功せずして帰京、禁門の変の敗北を知り、天王山に篭り屠腹した。享年27歳。
加藤常吉(京都府大山崎・天王山/福岡県久留米市・山川招魂社)
久留米藩士。同藩の尊王派池尻茂左衛門について学び、藩庁へ度々建議するところがあった。文久三(1863)年4月親兵を命ぜられたが、佐幕派が台頭して幽閉された。同年5月許され、藩命により上京した。翌月下関嬢夷のための長州藩応援、久留米藩借地の豊前大里の砲台築造を朝廷より命ぜられ、直ちに同地へ赴き周旋して帰国した。同年8月再び上京の命に接し、時に藩論一変して召還されたが、命に従わず、密かに京都に留まった。佐幕派の捜索に遇い、室町の客舎に襲われ、脱して津和野に逃れた。これがため家禄と居宅を没収された。翌元治元(1864)年7月長州藩兵と共に東上、禁門の変に戦い、敗れて真木和泉らと天王山で自刃した。享年33歳。
能勢達太郎(京都府大山崎・天王山)
土佐藩士。幼少時より英才の聞えが高く、14歳で高知に出て藩校に入り、16歳で得業生となった。安政年中伊勢・大坂・京都・下総等四方に遊学し、さらに江戸で佐藤一斎・安積艮斎に学び、傍ら剣術・砲術・算数・水練等の技術を修めた。文久二(1862)年の冬、病のため帰国したが、勤王の諸士と交わり、三(1863)年上京した。ついで同年5月2日名和宗助と変名し、北添佶磨らと北海・東山・北陸の地を探り、諸藩の動向を視察した。元治元(1864)年の春京都にあり、長州藩兵の入京に際して忠勇隊に属して戦ったが、禁門の変で敗れ、真木和泉ら十六士と共に天王山で自刃した。享年23歳。
久坂さんらに誓った手前、予定に無かったのですがその足で天王山に行きました。そのまま原付で登れるかと思いきや、登山しなきゃいけないと現地で始めて知りました。まぁ何とかなるかと思い草履履きにデジカメという出で立ちで登ったら・・・ 数十分後神社の鳥居脇にオーバーヒートした無残な姿を晒しました。天王山も恐るべし!!
そして約一年の後、再び天王山に挑みました。今回は福岡・佐賀遠征の予定装備品を装着しての実戦演習!を兼ねておりまして、万全の体制で臨みました。前回草履履きというあまりにも舐めた態度が天王山の逆鱗に触れましたようなので、足元は通気性と運動性を考慮したトライアスロン用シューズで固め、ペットボトルホルダーを装着しての攻略だったためなのか何か呆気なく走破したような感じです。。
元治元年 天王山十七烈士