回天神社忠魂塔
(茨城県水戸市)
大越伊予介(京都市東山区・霊山墓地)
水戸藩士。元治元(1864)年7月10日没。享年不明。
大宮八三郎(茨城県水戸市・回天神社)
水戸藩士。書院番組角左衛門正俊の三男。元治元(1864)年那珂湊に拠り9月3日鹿島郡鉾田村三光院で戦死。享年22歳。
細谷勘介(茨城県水戸市・回天神社)
水戸藩士。元治元(1864)年9月3日鹿島郡鉾田村三光院で戦死。享年23歳。
渡辺左衛介(茨城県水戸市・回天神社)
水戸藩士、表中間。文久三(1863)年江戸で新徴組入り。元治元(1864)年9月3日鹿島郡鉾田村三光院で戦死。享年43歳。
秋山豊之介(茨城県水戸市・回天神社)
水戸藩士。小普請組元治元(1864)年9月4日常陸で幕兵に捕らわれ斬。享年43歳。
植原亀五郎(茨城県水戸市・回天神社)
水戸藩士。伊平次の子。元治元(1864)年6月下総小金屯集。八月松平頼徳に従い、那珂湊にに拠って城兵・幕兵と交戦したがのち営を去って9月5日鹿島郡鉾田村三光院で父と共に戦死。享年18歳。
植原伊平次(茨城県水戸市・回天神社)
水戸藩士。歩行士。執政榊原新左衛門に属して那珂湊にあったが、去って元治元(1864)年9月6日鹿島郡鉾田村三光院で幕軍に囲まれ戦死。享年47歳。
林五郎三郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。安政五(1858)年床机廻に選ばれ、前藩主徳川斉昭に仕え、万延(1860)元年4月弘道館舎長に挙げられた。文久二(1862)年冬一橋慶喜に随従して上京、鈴木重義らと滞京して攘夷の策を計った。文久三(1863)年正月同藩士梶清次衛門らと共に翠紅館に会合して諸藩の有志と接し、攘夷の気運を促進した。元治の役に潮来陣営にあって筑波勢と気脈を通じ、同年9月潮来勢を率いて那珂湊の榊原進左衛門を応援、城兵と交戦中、同月19日戦死した。享年33歳。
江幡雄四郎(茨城県水戸市・回天神社)
水戸藩士。定衛門の四男。元治元(1864)年常野を転戦、敗れて奥州へ行く途中、9月30日磐城白河郡金上村で捕吏に囲まれ闘死。享年19歳。
立花辰之介(茨城県水戸市・回天神社)
水戸藩士。元治元(1864)年常野で戦闘、のち横浜外人居留地襲撃のために鹿島地方に拠り、捕えられて10月4日下総岩井で斬。享年21歳。

菊池鼎次郎(茨城県水戸市・酒門共有墓地)
水戸藩士。嘉永六(1853)年床机廻に選ばれ、嘉永初年より安政三(1856)年の間武芸出精により5たび賞せられた。安政四(1857)年歩行士となり、安政五(1858)年歩行目付、万延(1860)元年歩行士に復して小十人組に班した。元治元(1864)年6月に大挙して江戸に向った際小金に屯集し、8月松平頼徳に随従して下国、のち那珂湊に転戦し、10月5日湊村の反射炉の構内で戦死した。享年37歳。
岡田徳至(茨城県水戸市・酒門共有墓地)
水戸藩家老。文政六(1823)年家督を継ぎ、安政二(1855)年正月家老となる。安政四(1857)年従五位下信濃守に叙任し、安政五(1858)年9月致仕した。万延(1860)元年11月元家老大場弥右衛門・武田耕雲斎らと共に藩政に参加したが、文久元(1861)年6月東禅寺事件発生して謹慎に処せられた。文久二(1862)年11月再び執政に挙げられ、文久三(1863)年2月藩主徳川慶篤に随従して上京、4月に帰藩した。元治元(1864)年9月市川三左衛門らの勢いを得るに及び参政を免ぜられ、謹慎病床中の10月5日捕吏来るに及んで自刃した。享年63歳。
大久保甚五左衛門(茨城県水戸市・酒門共有墓地)
水戸藩士。天保十三(1842)年家督を継ぎ参政。大寄合頭を経て文久元(1861)年6月大寄合頭上座・用達、ついで調練司となる。元治年中市川三左衛門らと対抗して鳥居瀬兵衛らと画策するところがあった。元治元(1864)年8月鎮慰のため下向する松平頼徳に従い、那珂湊に拠って幕軍と交戦するに至ったが、幕府目付戸田五助の誘引により頼徳と江戸へ向う途中、水戸に引戻され、10月16日養子忠敬と共に死罪に処せられた。享年63歳。
高橋寿之助(茨城県水戸市・回天神社)
押役。下総葛飾郡小堤村で古河藩兵に捕えられ、元治元(1864)年10月16日斬。享年22歳。
永井芳之助(茨城県水戸市・回天神社)
水戸藩士・与力。元治元(1864)年那珂湊から鹿島に転陣、下総葛飾郡小堤村で捕えられ、10月16日下総古河で斬。享年32歳。
斉藤好次郎(茨城県水戸市・回天神社)
水戸藩士。左吉の弟。塙又三郎に従い、元治元(1864)年11月4日下総猿島郡岩井で斬。享年14歳。
砂押忠次郎(茨城県水戸市・回天神社)
水戸藩士・厩方手代。元治元(1864)年9月6日筑波郡前野村で捕、11月4日下総岩井で斬。享年24歳。
丹羽恵介(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。安政元(1854)年床机廻に選ばれ、万延・文久の間小十人組に補されて徒士目付となり、元治元(1864)年4月奥右筆に進んだ。藩内動揺に際して榊原新左衛門らと藩論統一を計ったが、同年5月市川三左衛門ら執政となるに及び、南上して小金に屯集し、8月松平頼徳に属して那珂湊に拠った。10月頼徳の南上に従い、途上水戸へ召喚されて、獄に下り、同月16日死罪に処せられた。享年35歳。
山中新左衛門(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。天保九(1838)年床机廻に選ばれ、天保十四(1843)年進任して小十人組となる。安政元(1854)年家督を継ぎ、矢倉奉行を経て安政五(1858)年小姓頭取いn進んだ。安政六(1859)年6月宍戸藩主松平頼徳付属となる。文久三(1863)年2月頼徳に随従して上京した。元治元(1864)年8月頼徳は水戸に下向したが、入場を阻止されて那珂湊に拠り、のち事情陳述のため頼徳の書を奉じて城中に達した。しかし水戸に拘執されて獄に下り、10月16日死罪に処せられた。享年47歳。
根本新介(茨城県水戸市・回天神社)
水戸藩士。新平の弟。元治元(1864)年3月田丸稲之衛門らの筑波勢に加わったが、藤田小四郎と意見が合わず本隊を去る。9月6日鹿島郡大船津で捕えられ、11月4日下総岩井で幕府の臨機処断法により斬。享年21歳。
塙又三郎(茨城県水戸市・回天神社)
水戸藩士。文久三(1863)年藩主徳川慶篤の上京に随従した。元治の役に筑波勢に所属したが、横浜の外人襲撃を藤田小四郎と議して意見を異にし、波山勢を去って、同年9月6日大船津に幕軍と交戦し、のち捕えられ、11月4日幕府の臨機処断法により下総岩井に斬られた。享年19歳。
墓碑には「大山又三郎」と刻まれていますが、没年月日及び諱の「重義」と合致点が多いため同一人物と判断しました。しかし大山姓とした論拠は不明です。
小松毅彦(茨城県水戸市・回天神社)
水戸藩士。小普請組。文久三(1863)年家督を継いで小普請組となった。元治元(1864)年11月武田耕雲斎に属して西上の途次、11月15日上野国深谷において忍藩兵に捕えられ、斬殺された。享年42歳。
郡司平三郎(茨城県水戸市・回天神社)
水戸藩士・矢倉方手代。各地奔走、幕吏に捕えられ、元治元(1864)年12月25日江戸小塚原で斬。享年36歳。
菊池郁太郎(茨城県水戸市・回天神社)
久慈郡下野宮村の農。元治元(1864)年9月3日鹿島郡鉾田村三光院で戦死。享年不明。
郡司市左衛門(茨城県水戸市・回天神社)
茨城郡小鶴村の農。文久三(1863)年春江戸で新徴組。元治元(1864)年9月3日鹿島郡鉾田村三光院で棚倉藩兵と戦い死す。享年不明。
綿引新四郎(茨城県水戸市・回天神社)
茨城郡下青山村、郷士孝三精貞の兄。那珂湊組。元治元(1864)年夏茨城郡細谷村で負傷、9月23日没。享年28歳。
木村信之介(茨城県水戸市・回天神社)
久慈郡上河合村里正四郎衛門の二男。幕兵に捕えられ、元治元(1864)年11月2日野向原で斬。享年23歳。
飯村平太(茨城県水戸市・回天神社)
久慈郡町付村の農。元治元(1864)年11月13日下総関宿で獄死。享年46歳。
内田総介(茨城県水戸市・回天神社)
常陸の農。元治元(1864)年11月23日下総関宿で斬。享年不明。
河田貞介(茨城県水戸市・回天神社)
茨城郡孫根村の農。元治元(1864)年12月5日下総銚子で獄死。享年26歳。
森嶋政次郎(茨城県水戸市・回天神社)
那珂郡小瀬村の農。元治元(1864)年12月13日武蔵川越で獄死。享年20歳。
海老沢直衛門(茨城県水戸市・回天神社)
茨城郡塩ヶ崎村の農、組頭(島田村の農とも)。元治元(1864)年12月26日江戸で獄死。享年47歳(48歳とも)。
杉山粂之助(栃木県宇都宮市・慈光寺)
宇都宮藩士。元治元(1864)年6月4日下野塩谷郡宝積寺で殺害。享年22歳。
戸田光形(栃木県宇都宮市・台陽寺)
宇都宮藩士。安政元(1854)年頃脱藩、江戸に出て初め講武所師範戸田八郎左衛門に、ついで安政四(1857)年より斎藤弥九郎の門に学び、万延(1860)元年帰参を許されたが、長ずるに及び宇都宮天狗党を結成してその首領となる。元治元(1864)年6月5日筑波勢の池尻嶽五郎の隊に加盟して幕軍と戦い、敗戦後、筑波本隊に転じ、戸田弾正の名において総轄兼調練奉行に任ぜられて各地に転戦、同年9月16日磯浜において戦死。享年29歳。
松本亮之允(栃木県宇都宮市・台陽寺)
宇都宮藩士。脱藩後元治元(1864)年11月4日常陸で戦死。享年38歳(36歳とも)。
松本定(栃木県宇都宮市・桂林寺)
宇都宮藩医。幼少から医者になることを好まず、兄や小山剛介と共に但馬の池田草庵に学び、文武の道を究めた。やがて攘夷の志を抱き、筑波義挙のころ宇都宮天狗党を結成し、元治元(1864)年6月4日脱藩九士し池尻嶽五郎の隊に投じ、幕兵と戦って敗れた際誤って水中に落ち、、捕えられて真岡の獄に繋がれ、その年11月26日斬刑に処せられた。享年23歳。
堀貞道(栃木県宇都宮市・台陽寺)
宇都宮藩士。幼少から文武の道を励み、万延(1860)元年正月藩の訓読師となる。筑波挙兵後、藤田小四郎らが宇都宮城を訪れた頃から、これを支援しようとする同志の動きが激しくなり、ついに同志の小山剛介ら8人と脱藩、城下竹下村にに屯した池尻嶽五郎の隊に参加し、変名して早川新介と称してしばしば幕軍と戦ったが、のちに那珂湊の戦で捕えられ、12月24日長岡村にて斬られた。享年21歳。
水田謙次(福岡県久留米市・山川招魂社)
久留米藩領富安村庄屋。筑後国下妻郡冨安村に住し、その庄屋となる。文久三(1863)年7月脱藩して京に赴き、長州藩の仮邸木屋町に住み、諸藩の志士と交わった。元治元(1864)年6月同藩の有志古松簡二・池尻嶽五郎と水戸の藤田小四郎の筑波山挙兵に参加し、8月13日幕府の追討軍と戦って同地で戦死した。享年35歳。
池尻岳五郎(京都市東山区・霊山墓地/福岡県久留米市・山川招魂社)
久留米藩士。文久二(1862)年8月同藩の尊王派古松簡二と共に脱藩して京都に赴き、当時京都で活動していた父茂左衛門を援助した。京都では長州藩の木屋町仮邸に住した。元治元(1864)年6月水戸藩の藤田小四郎が常陸国筑波山に義挙を企てたのを聞き、古松および同志の水田謙次らと馳せてこれに赴き、挙兵に参加した。7月幕府兵と戦って負傷し、ついで西上の途中、11月24日に信州和田峠で捕えられて斬殺された。享年21歳。
水戸藩は二代藩主・義公徳川光圀公の命と遺志を継いで編纂されていた『大日本史』の編集の過程で、日本の歴史が天皇を中心として展開していることにより日本のあるべき姿は天皇を中心にした統一国家であるという「尊王」思想が特化し、さらに『古事記』や『日本書紀』に拠れば、神の国とも言える日本を汚す外国勢力は排斥するべきという「攘夷」思想が結びつく「尊王攘夷」の気風を含んだ「水戸学」という水戸藩独自の学問を生み出したのです。
従って幕末の藩主だった水戸の烈公・徳川斉昭侯もガチガチの尊王攘夷派でした。

嘉永六(1853)年にペリーが浦賀に来航して以降、日本は欧米やロシアとの間に和親条約を締結し、下田と箱館を開港しました。その結果外国船が日本にも多く来航するようになり、攘夷を掲げる水戸藩は当然不快感を覚えます。

そういう状況の中、安政五(1858)年7月、こともあろうに十三代将軍徳川家定公が薨去します。当然後継将軍を決めないといけないんですが、後継者についてはすでに水戸藩出身の一橋慶喜さんを推す斉昭侯・薩摩藩主島津斉彬侯・老中堀田正睦侯らのグループ(一橋派)と、紀伊藩出身の徳川慶福さんを推す彦根藩主井伊直弼侯・老中松平忠固侯・鯖江藩主間部詮勝侯らのグループ(南紀派)が対立してたわけです。しかし幕閣工作で井伊直弼侯が大老に就任するや、強権発動させて十四代将軍は徳川慶福(家茂)に決めてしまい、ライバルだった一橋派のメンバーは軒並み隠居・謹慎といった処分を食らいます。いわゆる「安政の大獄」の始まりです。
その上、日米修好通商条約を朝廷の許可も得ずに締結し、長崎・兵庫・神奈川・新潟といった港が開港して貿易が開始され、国内では輸出したことによって生糸や茶などが品不足に陥って物価が上昇してしまったのですから民衆の生活を直撃したのです。

そんなこともあって水戸藩士の一部はブチキれ、民衆や下級士族の中には「日本をどげんかせにゃいけん」と言ったかどうかは知りませんが、尊王攘夷を掲げる「志士」達が急増していくわけです。

このころ水戸藩内には、「あまり幕府の政策に逆らわねえで、おどなしぐしでいっぺ。」という上級藩士を中心とした保守勢力と、斉昭侯と共に藩政改革を行ってきたために「亡き斉昭侯の意思を継いで、尊王攘夷を幕府さ実行させるだめにはどんなこどでもすっぺ」という中・下級藩士からなる革新勢力に分かれて対立していたのです。一時は改革派で水戸藩執政の藤田東湖さんが両派の融和を図った姿勢をとっていましたが、安政二(1855)年、その東湖さんが大地震で亡くなると、対立が再び激化していたのです。
のちに保守派は改革派のことを学問を鼻にかけた成り上がり者という意味で「天狗党」と称したという説があります。でもそんな蔑称を改革派も自称するとは考えにくいよなぁ…。むしろ藤田東湖の四男で改革派のリーダーである藤田小四郎が「水戸の小天狗」って呼ばれてたことに由来する方がしっくりきますよ。でもそれすら保守派が付けた蔑称だったら一緒かな?。まぁこの際どうでもいいですが…。

ともかく、その改革派は井伊直弼侯らの「反斉昭政策」にブチキレたわけですが、その一方でもう一人ブチキれてた方がいました。勝手に日米修好通商条約を幕府に結ばれた孝明天皇です。この2つが結びつき、安政五(1858)年8月8日、孝明天皇が水戸藩に対し幕府を通さず直接密勅(戊午の密勅=幕府に対しては勅許もなく条約を締結した事情を説明させ、諸藩に対しては公武合体と攘夷の実行を進められるよう幕府への協力と改革をすることを指示しています)を下すという、幕府を無視した行動をおこしました。

これを知った井伊大老が今度はブチキれます。水戸藩に対して密勅の返納を要求、密勅の原案を意見書を書いた梅田雲浜さんや密勅を京から運ぶのに暗躍した鵜飼父子らをひっ捕え、翌年には斬罪に処しました(安政の大獄)。
水戸藩では返納すべきとする鎮派と、「下されだ勅を返すなんてどんでもねえ」という返納反対の激派に分裂します。安政六(1859)年には返納の詔が出され、幕府ではなく朝廷に直接返納することで藩論を統一したこともあり鎮派が大勢を占めるようになりましたが、いざ密勅の返納へという方向に向い始めると、一部激派は「あいつらひょっとしたら、朝廷ではなく、幕府の方に密勅を返納するがもしんねえぞ」って疑心暗鬼から長岡(茨城町)に結集して返納阻止を図ります。しかしさすがにこの行動は行き過ぎということで、幕府や水戸藩庁のみならず斉昭侯までが武力討伐に動き出したため退散してしまいました。

ところがその中の一部は脱藩して、万延元(1860)年3月3日、江戸桜田門外にて井伊大老を襲撃、暗殺するという桜田門外の変を引き起こします。さらに文久元(1861)年5月28日には英国領事館を襲撃した東禅寺事件、文久二(1862)年1月15日には老中安藤信正を襲撃する坂下門外の変を引き起こします。
そのころ水戸藩主徳川慶篤侯が宍戸支藩藩主の松平頼徳侯、弟の徳川昭訓さん、改革派の執政武田耕雲斎さん、藤田小四郎さんらと一橋慶喜さんに随行して文久三(1863)年2月16日には京に入っていました。
京都では長州が朝廷工作を行っており、ついに朝廷は将軍家茂公に対して文久三(1863)年5月10日までに攘夷を実行せよという勅命を幕府に下したのです。ちょうど日本全体が尊攘派にとって一番活躍できた時期かもしれません。

元々尊攘派だった藤田小四郎さんはこのころ、桂小五郎さんや久坂玄瑞さんと盛んに接触し、長州藩のいわば過激尊攘派の影響も受けるのです。そして5月11日、長州藩が常実行ということで関門海峡を通過する外国船に対して砲撃を加えたと知るや、藤田さんも攘夷実行に移りたかったはずですが、水戸藩は動きませんでした。そうこうするうちに八月十八日の政変が起こり、大和で天誅組が、但馬生野でも筑前の平野国臣さんらが決起しましたがほどなく鎮圧され、攘夷勢力は一気にしぼんでいったのです。しかし藤田さんにしてみたら「尊王攘夷の同志が次々立ち上がっているのだがら、おらたぢも続かなければなんねえ」という思いがあったでしょうね。
そこで改革派のリーダー的存在だった武田耕雲斎さんに相談すると、期待に反して留意するよう戒められてしまうのです。しかし藤田さんはあとへ引く気はすでになかったのです。

元治元(1864)年3月27日、筑波山で天狗党は決起しました。藤田さんは水戸町奉行の田丸稲之右衛門を大将に据え、自らは総裁ととなりましたが、事実上のリーダーは藤田さんです。そして日光の霊廟を目指したのです。霊廟では170名ほどが一度にお参りできなかったので、十人一組で分拝しています。しかし宇都宮藩に協力を要請するも断られたため、栃木の大平山に篭ることになりました。

そのころ水戸藩内では保守派・保守系鎮派が合流して諸生党という一大勢力を築いていました。そして天狗党と繋がりのある水戸藩江戸家老武田耕雲斎さんら藩重役を処分して政権の奪還を図ろうと江戸へ向いました。当然武田さんはこれを阻止しようとしますが、藩主慶篤侯はそんな武田さんらを謹慎処分にしました。そして諸生党のリーダーであった市川三左衛門さんは政権を得るや、武田さんらに極刑で臨む姿勢を示し、天狗党に対しても市川さんが500人の藩兵を率いて討伐に出陣します。
しかしこの専横ぶりは水戸にいた改革派や改革系鎮派・激派を刺激し、6月には慶篤侯に市川さんの弾劾を訴えます。藩主に違勅の罪を犯させてしまったこと、故斉昭侯が遺した「奸党(市川さんら)をば、決して政権の要路に用ふる勿れ」と記された書状が弾劾の理由ですが、慶篤侯はこれを聞き入れたために諸政党政権は1ヶ月で崩壊してしまいました。

そのころ天狗党は、大平山から筑波へと戻ろうとしていました。しかし軍資金が乏しいため、天狗党の監察である田中愿蔵さんに軍資金調達を任せていたのですが、壬生浪士組の芹沢鴨さんのような強引なやり方をしたらしく、6月5日には栃木で資金調達をしようとしましたが断られ、挙句陣屋から鉄砲を打ち込まれたので放火して退却したところ、栃木の町の大半が焼失するという事態に発展したため、7月3日には天狗党を除名されてしまいました。しかしこの所業は天狗党を完全な「暴徒」と認知させるには十分で、7月6日には始めて幕軍と戦端を開き、天狗党の勝利で終わるのです。慶篤侯は鎮撫のため松平頼徳侯を自分の代理として武田耕雲斎さんらと共に派遣します。また幕府も田沼玄蕃頭さん率いる13000人からの追討軍を7月16日に出発させ、宇都宮藩など13藩に対してその指揮下に入るよう命じています。

天狗党討伐に向かった市川勢は7月23日に水戸へ戻り、幹部級がほとんど江戸などに出て手薄になっている改革派のメンバーを根こそぎ捕縛させるというクーデターに等しい行動で水戸城下を制圧します。これを知った天狗党は市川勢を攻めますが敗れてしまいました。そんな折に頼徳侯の鎮撫隊が水戸へ着きました。ところが市川勢は、鎮撫隊の中に江戸で諸生党を弾圧した勢力がいたために、戦闘状態に入ってしまいました。しかも諸生党は幕閣への工作を済ませていたために、鎮撫を命じた慶篤侯でさえどうしようもなくなっていたのです。

結局鎮撫隊は天狗党と合流することになり、9月26日には頼徳侯自らが江戸で陳情するために出立します。しかしこれに気付いた諸生党は田沼さんに報告し、田沼さんは総指揮官を差し置いて直訴するなど以ての外と頼徳侯を捕縛して10月5日に切腹を申付けました。これによって宍戸藩は一時廃藩の上天領になってしまいました。
天狗党は「先さ手を出したのは諸生党なのに、なぜ頼徳侯が切腹しなげればなんねえのだ。こうなったら京にいる一橋慶喜侯に直訴しで真相を聞いてもれえ、その上で本来の目的である尊王攘夷を実行すっぺ」ということで、慶喜侯への直訴のため京へ向かうことになりました。

10月23日には陣を布いていた800名が那珂湊を出発し、10月25日には大子で陣容を変えました。総大将には武田耕雲斎さん、大軍師・山国兵部さん、本陣・田丸稲之右衛門さん、ということで藤田さんは輔翼としてサポート役になりますが、発言力はありました。そしてかんぴょうで有名な下仁田、のちに赤報隊終焉の地になった下諏訪と進み京へ近づいていました。

12月3日、天狗党が頼みにしていた慶喜さんが追討軍を率いて京を出発します。12月11日、敦賀の手前にある新保でこのことを知った天狗党は騒然とします。そして抗戦するか降伏するかで紛糾しましたが、結局慶喜さんに刃向かうは不忠不義の極みということで降伏することになりました。


面倒だったので、水戸のレポートで書いた天狗党挙兵の経緯をそのまま流用…。また一から書く勇気がなかったんです…。
元治元年 水戸天狗党蜂起