京都市上京区・竹林寺(上2枚)
京都市・霊山墓地(下)
平野国臣(京都市東山区・霊山墓地〔上〕/福岡市・平野神社〔下〕)
福岡藩士。少時小金丸家の養子となり、弘化三(1850)年19歳のとき小金丸源蔵と称して江戸黒田屋敷の普請方役人となり、ついで藩地宗像神杜の造営掛役を勤め、長崎屋敷役人に転じ、安政二(1855)年養家を去って本姓に復した。かつて和歌・雅楽・漢書等を学んでいたが、四(1857)年には有職故実を修めた。翌五(1858)年8月脱藩上京L、都甲楯彦と変名して勤王の志士と交わり、やがて安政の大獄が起るや、幕吏の追捕を逃れてしばらく筑後に隠れた。10月京都を逃れてきた僧月照の入薩を斡旋し、ともに鹿児島に入った。月照の水死後、宮崎司と変名して京へ赴き、ついで備中連島の豪商三宅定太郎の家に番頭として潜伏し、さらに下関の商人白石正一郎の家に潜んだ。こののち福岡藩の追捕は厳しく、薩摩・肥後・筑後・下関等を転々とLた。文久元(1861)年7月「尊攘英断録」を草して島津久光に呈し、王政回復のことを論じ、翌二年2月真木和泉と会し、久光を擁して伏見に義兵を挙げる計画を立て、4月上京し、「回天三策」を朝廷に密奏し、また西国志士と義挙を画策した。たまたま藩主黒田長溥が参府の途次、久光に説いて義挙を阻止させるとの風説が伝わったので、国臣は長溥を播磨大蔵谷に迎えて上京すべきでないと諌止した。長溥はやむを得ず病と称して帰国したが、国臣は藩吏に捕えられ、藩主とともに帰藩させられ投獄された。翌三(1863)年3月赦されて徒罪方役人となり、7月上京を命ぜられ、草香江水際と変名して本国を立ち、8月16日学習院出仕を命ぜられた。ついで中山忠光の天誅組挙兵鎮撫の命を受げて五条に赴いたが、その間京都では八月十八目の政変により尊攘派は一掃され、国臣もまた鎮撫に失敗し、三田尻に赴き、七卿の一人沢宣嘉を但馬に迎え、10月12日生野代官所を襲撃した。時に国臣は佐々木将監と変名した。しかしこの挙兵は沢が突如本陣を脱出したため敗走となり、国臣は因幡に逃れようとして、15日城崎で豊岡藩土に捕えられ、幽囚されること80余日、翌元治元(1864)年正月京都へ送られ六角の獄へ投ぜられた。禁門の変に際して在獄の37人と共に斬首された。享年37歳。
京都霊山の護国神社に平野さんのお墓はありますが、平野さんの御墓、というより、福岡藩招魂社は現在霊山の南端に位置しているためなのか、岐阜、熊本の招魂社共々ほとんど誰も来ません。蜘蛛の巣がひっついたり季節柄蚊に襲われたりと大変でした。でもいらした折にはぜひお参りを。周囲には気をつけてね。竹林寺は、六角獄に捕われており、禁門の変の時に処刑され埋葬され明治十年に京都西刑場跡から姓名を朱書きした瓦片と白骨が発見された37名が移葬されたお寺です。門をくぐるとすぐ御墓、奥へ行くと供養塔があります。遺骨を納めているという点でここが本墓でしょう。平野神社は福岡市中央区にあり、平野さんの故郷・福岡市で唯一平野さんを偲ぶ場所となっており、現地の墓所と認定して入れました。。この地は平野さんの生誕地でもあります。
古高俊太郎(京都市東山区・霊山墓地〔上〕/京都市上京区・福勝寺〔下〕)
膳所藩郷士。京で桝屋喜右衛門という商人に身を変えていたが新撰組に捕縛、拷問により、祇園祭の夜に市中に放火し京都守護職松平容保を襲撃して混乱させ、その隙に天皇を長州に移す計画を自供、これが池田屋事件につながる。元治元(1864)年7月、平野国臣らと共に斬殺された。
ここにお入れした方々の並べ方ですが、その没年を基準にしています。池田屋事件、ひいては禁門の変の引き鉄となる人物の古高さんがこの位置にいるのはそういった事情からです。霊山では池田屋事件で亡くなった方々と同じ場所に葬られています。
樋口良好(京都市東山区・霊山墓地)
肥後藩士。早くから父を失い母に孝養を尽した。江戸詰役にあったとき、阿部友清と共に天下を憂えて脱藩、京都に活躍しようとしたが、母の傷心を恐れて断行しかねていた。母はそれを察し歌を示して激励したので、文久二(1862)年5月16日脱藩して京都に赴き活躍したが、翌三年幕吏に捕われ京都六角の獄舎に投ぜられた。元治元(1864)年7月禁門の変の紛乱に乗じて在獄勤王士は殺されたが、良好もそのとき殺されたといい、その後消息がない。
かなり新しい御墓です。失礼ながら今回の企画の中で初めてその存在を知りました。履歴を追う限り、大きな活躍は見られないものの、親を思い逡巡する姿は等身大の志士の姿を垣間見せてくれました。
乾十郎(奈良県五條市)
大和国宇智郡五条出身の儒者・医者。京都に上って儒学を森田節斎に、医学を森田仁庵に学び、さらに梅田雲浜のもとで国学を修めた。嘉永六(1853)年に来坂して医業を営んだが、もっぱら勤王の志士と交遊した。のち帰郷してからも尊王思想を振起し、また和歌山藩に対し紀ノ川の筏税の免除、船荷積替の慣例撤廃などについて提言するなど、郷党のために尽くした。文久三(1863)年天誅組が大和で挙兵するやこれに参加、武器方となって天川辻・鷲家口などに転戦、敗れて大坂の西成郡江口村に潜伏中を捕縛され、京都の六角獄に繋がれ、元治元(1864)年7月20日斬首された。享年37歳。
水郡善之祐
河内国富田林甲田の庄屋。伊勢神戸藩の大庄屋の家に生まれ、嘉永六(1853)年家業を継いだが、尊攘運動の風潮に心酔していった。元熊本藩士松田重助などと富田林に塾を開いて郷里の師弟に国事を説き、諸国の憂国の志士とも交わった。文久元(1861)年家を弟謙三郎に委ねて同郷の長野一郎・田中楠之助らと京都に赴き、吉村寅太郎・松本謙三郎らと共に尊攘派の同士を糾合して、盟主に中山忠光を擁立して武力反乱を起こす画策をした。文久三(1863)年天誅組の乱が勃発すると、長子英太郎以下十余人の河内勢を指揮して参加し、輜重器奉行を務めた。五条・和田・大日川などを転戦したがついに敗北し、十津川勢と和歌山藩の追撃を受けて進退窮まり、河内勢8名と共に和歌山藩に自首して捕囚の身となった。のち京都六角獄に移され、元治元(1864)年生野の乱の平野国臣ら37人と共に獄内で斬首された。享年39歳。
長野一郎
河内国南河内郡長野の医者。吉井竜の三男で儀三とも称した。緒方洪庵の適塾で西洋医学を学び、天誅組に参加するにあたり、長野一郎と名前を変えた。文久三(1863)年8月天誅組に加わり歴戦。天ノ川辻で芝村(彦根とも)藩兵に捕えられ、元治元(1864)年7月20日京都六角獄で斬首された。享年28歳。
田中楠之助
河内国大県郡竪下村の庄屋。農家に生まれたが武芸を好み、正確は過激で尊攘運動に心酔して悲憤慷慨の言動があったので、領主大久保忠礼に捕らえられ獄に下された。赦放された後も志を変えず、郷里に尊攘論を鼓吹して回った。文久三(1863)年天誅組の乱が起きると、水郡善之祐らの河内勢と共に参加し、大和地方を転戦したが、ついに紀州兵に降伏、元治元(1864)年7月20日京都六角獄中で斬首された。享年22歳。
原田一作
備中上房郡松山の商市十郎の子。人となり細行を事とせず才思敏捷、好んで書史を読む。松山藩主板倉氏はしばしば物を賜って賞した。安政元(1854)年江戸に遊び岸淵蔵に入門し、次いで森田節斎に入塾した。藩主は抜擢して士列に進めたがまもなく辞し、和泉の谷三山の門に遊び、また京師に漫遊した。文久三(1863)年藤本鉄石らの天誅組義挙に勇躍参加し、各地に転戦、十津川に退き、逃れて小俣にて和歌山藩兵に捕らえられ、京都六角獄につながれ、元治元(1864)年7月20日京都六角獄中で斬首された。享年27歳。
吉田重蔵(京都市東山区・霊山墓地)
福岡藩士。少時文学を好み、藤井良蔵・岡部甚助に学ぶこと数年、兼ねて武技を能くした。平野国臣と深交があり、尊攘思想を抱いて文久元(1860)年郷里を出て諸国を遊歴して世の形勢をうかがった。帰国してのち文久三(1863)年2月に再び出国、肥後の松田重助と共に京に上り、諸藩尊攘の有志と交わり、回天の策を巡らした。たまたま同年大和行幸の報を聞き、同士と共に公卿中山忠光を首領として大和に挙兵したが、十津川で敗れ、和歌山藩兵に捕らえられて京都に送られ、元治元(1864)年7月20日京都六角獄中で斬首された。享年34歳。
中倉才次郎
土佐藩士高木宅之丞の家来。文久三(1863)年八月京都から天誅組に参加。転戦後捕えられ、元治元(1864)年7月20日京都六角獄で斬首された。享年25歳。
古東領左衛門
淡路三原郡津井村庄屋。名庄屋として治績あり。文久二(1862)年度々上京して国事に奔走。文久三(1863)年8月の天誅組の乱に参加。敗れて京都に潜入するも捕えられ、元治元(1864)年7月20日京都六角獄で斬首された。享年27歳。
幸助
常助、常吉とも。紀伊伊都郡富貴村の農。天誅組に従い岡見留次郎僕として転戦。捕えられ、元治元(1864)年7月20日京都六角獄で斬首された。享年22歳。
幾助
鶴松とも。紀伊伊都郡名倉村の大工の子。文久三年八月天誅組に従い、捕えられて元治元(1864)年7月20日京都六角獄で斬首された。享年25歳。
森本伝兵衛(大阪府富田林市・養楽寺)
河内錦部郡甘山村の人。村役人である浅川家に生まれたが、のち森本氏を継ぎ、神戸藩長野支庁の吏となった。幼少より文武を好み、尊攘運動に心酔して水郡善之祐と最も親交があった。文久三(1863)年の天誅組の乱には水郡らと参加し、兵器量餉方を務めて大和地方を転戦したが敗れ、河内勢と共に和歌山藩に自首した。京都六角の獄に繋がれていたが、元治元(1864)年7月20日に斬首された。
辻幾之助
京都の人。平井重蔵の六男。河内道明寺三根文治に養われ、河内富田林木綿商辻為次郎の養子となる。文久三(1863)年の天誅組の乱に参加。天誅組敗戦後紀州兵に降り、元治元(1864)年7月20日京都六角獄で斬首された。享年27歳。
保母健
島原藩士。平田銕胤・斎藤弥九郎の門人であった。文久三(1863)年脱藩。京都で天誅組に参加、転戦ののち敗れて紀州藩兵に捕えられ、元治元(1864)年7月20日京都六角獄で斬首された。享年23歳。
石川一
因幡鹿奴藩士。江戸平田銕胤の門に入り国学を学んだ。文久元(1861)年和宮降嫁の際、奏者となる。文久二(1862)年4月仙石佐多雄と共に江戸藩邸を脱し京都に走り、文久三(1863)年2月に同士と京都等持院の足利尊氏ら足利氏三将軍の木像の首を斬り三条河原に晒した。のち長州藩邸に隠れ、同年5月同藩家老益田右衛門介に従い、6月下関で攘夷実行の砲撃に加わった。同7月京都に上り高台寺にあった越前福井藩松平慶永の陣営を焼き、8月天誅組の挙兵に参加、のち逮捕され京と六角の獄に幽閉。元治元(1864)年7月禁門の変に際し獄中にて殺害された。享年22歳。
木村楠馬
十津川の人。林曽兵衛家人。文久三(1863)年天誅組に加わり転戦、大坂で捕えられ、元治元(1864)年7月20日京都六角獄で斬首された。享年24歳。
船田彦次郎
鳥取新田藩士。生国は肥前島原。文久三(1863)年8月天誅組に加わり、敗戦後自首。元治元(1864)年7月20日京都六角獄で斬首された。享年21歳。
横田友次郎
鳥取藩士田村貞彦の従僕。文久二(1862)年藩儒景山龍造に従って京都に上り、広く諸藩の士と交わり見聞を広めた。文久三(1863)年8月鳥取藩内の佐幕派を襲撃しようとして失敗、のちに但馬へ走り北垣国道らと共に但馬生野の挙兵に参加、その失敗の後平野国臣らと鳥取に逃れる途中豊岡藩で捕らえられ、京都六角獄に幽閉された。元治元(1864)年7月禁門の変に際し獄中にて殺害された。享年31歳。
大村辰之助
鳥取人。水戸ともあり。文久三(1863)年10月但馬で生野一挙に加わって出石藩兵に捕えられ、元治元(1864)年7月20日京都六角獄で斬首された。享年不詳。
本多小太郎(京都市東山区・霊山墓地)
膳所藩士。天下に周遊せんと欲し、自ら咎を犯して士籍を取り上げられ、京都明暗寺で虚無僧となり素行と称した。但馬国養父郡明暗寺の出張所に住み、四方の志士と交わり、尊攘運動に挺身、文久三(1863)年10月の但馬生野の乱に当たっては、主将沢宣嘉らに対し一旦その不利を説いたが聞き容れられずやむなく荷担した。敗れて播磨神崎郡福崎新村で姫路藩兵に捕えられ、元治元(1864)年7月20日京都六角獄で斬首された。享年45歳。
片山九市
亀山藩郷士。天保十(1839)年福知山藩士上野俊平に漢学を、篠山藩士赤城収五郎に剣・槍・馬術を修め、もっとも馬術を能くした。嘉永二(1849)年帰郷後は亀山藩黒井陣屋銀札場掛を勤め、嘉永六(1853)年アメリカ艦隊来航後は専ら国事に奔走、丹後国与佐郡岩滝村千賀量助と交わり、その孫娘を妻とした。その後宮津・豊岡・出石各藩に出入りして馬術を教授、出京後は三条・中山諸卿の家にて志士達と交わった。文久三(1863)年10月沢宣嘉の生野義挙の際、率先して参加し、斥候に出て出石藩に捕らえられ、やがて京都六角の獄に送られ、翌元治元(1864)年7月20日斬首された。享年37歳。
今井三郎右衛門(京都東山区・霊山墓地)
豊岡藩士。変名宮津三郎右衛門。早くより尊攘の志を抱き、文久元(1861)年郷里を出て宮部鼎蔵・吉田稔麿らに従い国事に奔走した。元治元(1864)年6月5日三条池田屋で同志と謀議中新撰組の襲撃を受け捕縛されて六角の獄に投ぜられ、7月20日斬首された。享年46歳。
佐藤市郎(京都市東山区・霊山墓地)
長州藩士。京都藩邸吏。元治元(1864)年6月5日池田屋事件当夜宮川町小倉春方で会津藩士に捕えられ、7月20日六角獄で斬首された。享年41歳。
吉田五郎
越前敦賀築山の郷士。文久三(1863)年新徴組。同年横浜外人館襲撃を企て成らず。10月生野一挙に加わり捕えられる。元治元(1864)年7月20日京都六角獄で斬首された。享年25歳。
山田虎之助(京都市東山区・霊山墓地)
長州藩士。文久三(1863)年3月上京 して久坂玄瑞らと尊攘を唱導し、ついで5月下関外国船砲撃戦に参加し、6月奇兵隊に入り、八月十八日の政変に商人に変装して京都に潜入、松原町で古道具店を開いて上下の情勢を偵察し同志に通報した。元治元(1864)年6月池田屋の変の夜、同志佐藤市郎と共に会津藩兵に捕らえられて投獄、7月禁門の変の起こるや惨殺された。享年23歳。
内山太郎右衛門(京都市東山区・霊山墓地)
長州藩士。内山某の養子となった。文久三(1863)年4月攘夷実行に感奮して藩吏を辞職し下関に行き、6月奇兵隊に入隊して器械方となり、外船撃攘に参加した。ついで山田虎之助らと長崎の夷館焼き討ちを計画したが、高杉晋作。・入江九一らに慰諭されて止め、11月探索方となり、脱藩して商人に変装し、各藩の形勢を探って京都の藩邸に報告した。元治元(1864)年6月池田屋の変に嫌疑を受け、幕吏に捕らえられて六角の獄に投ぜられたが、7月の禁門の変に幕吏槍隊のため、同志と共に刑壇に連ねられ同時に惨殺された。享年24歳。
河村丹斎(京都市東山区・霊山墓地)
小郡の医師。「貴真膏」元祖。京都で売薬を生業とし国事に奔走。幕吏に捕えられ、元治元(1864)年七月二十日六角獄で刑死。享年不詳。
村上俊平
上野佐波郡境町の人。医師瑞軒の三男。妻は勝海舟の妹順。蘭医で勤王家でもあった父村上随憲、およびその交友志士の影響を受けて、少壮にして時勢を憤慨し尊王に志した。安井息軒に経史を学び文章の才あり。文久元(1861)年清河八郎らと武蔵国秩父に義挙をはかって失敗。ついで新徴組の募兵に応じ、同志300余名と共に京都に上って尊攘の議を奏した。文久三(1863)年4月親政の詔下るに及んで関東に帰り、水戸老死と謀って横浜を夜襲せんとした。しかし謀破れ、逃れて再び京都に上ることをなさんとするうち、同年10月幕吏に捕らえられて六角の獄に繋がれ、翌元治元(1864)年禁門の変に同獄の平野国臣ら生野・五条の残党と共に処刑された。享年27歳。
南雲平馬
上野利根郡沼田村の郷士。野田神社社人。早くから国事に奔走。元治元(1864)年6月5日池田屋事件で捕えられ、7月20日六角獄で斬首された。享年29歳。
河村季興(京都市東山区・霊山墓地)
三条西家諸大夫。諸大夫として三条西家に仕え、石見守・筑前守・左兵衛大尉を経て、安政四(1857)年正月能登守に任じ、従五位下に叙せられた。年少より和歌を好み、国文学・有職故実にも通じた。文久三(1863)年八月十八日の政変によって失脚したその主三条西季知ら七卿の西走に従って長州三田尻に下向、七卿の従士会議所詰となって善後策の画策に努めた。元治元(1864)年2月主命によって京都に使し、さらに6月長州藩兵の上京に先立ち、武家伝奏野宮定功を通じて冤罪を嘆訴するため、季知および三条実美の命を受け、丹羽正雄と京都に上る途中、伏見において幕吏に捕らえられ六角獄に拘禁され、7月禁門の変に際し、獄中で斬殺された。享年44歳。
吉川菊治(京都市東山区・霊山墓地)
三条西家諸大夫河村季興の家来。河村に従い長州から上京、伏見で捕えられ、元治元(1864)年7月20日六角牢で斬殺された。享年39歳。
横田清兵衛(京都市東山区・霊山墓地)
京都の書籍商。19歳の頃麹屋町姉小路上ル中白山町に移転し、安政二(1855)年4月家業の書籍商を継いだ。天性剛毅にして気概あり、尊王の志深く長州藩士らと交わり、国事に奔走した。文久三(1863)年八月十八日の政変による七卿の都落ちの際、幕府の嫌疑を受け、28日捕えられて六角の獄に繋がれ、しばしば拷問を受けたが頑として同志の事は話さず、元治元(1864)年7月20日禁門の変による兵火が獄舎に迫ったとき斬首された。享年31歳。
長尾郁三郎(京都市東山区・霊山墓地)
京都の商人。幼少より学を好み、特に国学に傾倒、江戸に出て平田銕胤の門に入り勉学に励んだ。帰京後は尊王攘夷運動に奔走し、将軍家茂の上洛に先立ち、天下に勤王の大義を知らさせ、あわせて幕府に諷告しようとして文久三(1863)年2月22日諸岡正胤ら10余名と共に等持院に押し入り、足利尊氏以下三代の木像の首を取り三条河原に晒首にした。このとき一味であった大場恭平の裏切りによって幕吏に捕えられ、六角獄に投ぜられた。しばしば訊問されたが、正論をもって屈することなく、翌元治元(1864)年7月禁門の変による火災が獄舎に迫り斬首された。享年28歳。
丹羽出雲守正雄(京都市東山区・霊山墓地)
三条家家臣。農事を好まず、若くして京都に出て、愛宕家の医海野貞吉に医学を、梅田雲浜に儒学を学び、ほかに兵学・古学も修めた。また梁川星巌・頼三樹三郎らの志士と交わり、盛んに尊王攘夷論を提唱した。たまたま三条家諸大夫丹羽正庸の知遇を得てその養子となり、従五位下筑前介に任じた。文久二(1862)年10月三条実美が攘夷催促の勅使として東下すると、従って江戸に赴き、実美を補佐して公務の処理に当った。そのため従五位上に叙され、出雲守に任ぜられた。文久三(1863)年八月十八日の政変起こり、実美らの七卿が長州に西下するとこれと行動を共にして仮居。その後はもっぱら京阪に潜行するなど情勢探索に奔走した。元治元(1864)年6月実美の命を受けて冤罪を朝廷に哀訴しようと河村季興と共に上京したところ、伏見において幕吏に捕縛され、六角の獄に繋がれ、禁門の変に際して獄中で斬殺された。享年31歳。
川勝寛治(京都市東山区・霊山墓地)
三条家家士。京都に出て三条実朝に仕え、安政以後の国内情勢の緊迫したときに、実美の内命を受けて諸藩の尊攘派志士と往復した。文久三(1863)年八月十八日の政変の後、実美に従って長州三田尻に下向、その後実美の密命を同志に伝えるため京都に潜行したが、幕吏に捕えられ、六角獄舎に拘禁され、元治元(1864)年7月禁門の変に際して獄中で斬殺された。享年36歳。
佐竹織江(福岡県田川郡添田町・英彦山神宮招魂社)
彦山修験の奉行職。厳瑶坊亮親。性奇矯で雄弁をもって人に知られた。文久三(1863)年彦山が長州藩と呼応して義挙を企てたとき、密かに盟約を結んだ。同年10月同志と共に長州に渡り、三田尻に到る。11月七卿の遺棄した品を収め、かつ政情を探るため、久坂玄瑞らに伴われ彦山使僧として上京した。帰途、伏見において一行の企図を察知した小倉藩兵に捕らえられ、京都六角の獄に繋がれた。元治元(1864)年禁門の変の際、平野国臣や同志である藤山衛門教観坊と共に獄内で刺殺された。享年49歳 
藤山衛門(福岡県田川郡添田町・英彦山神宮招魂社)
彦山修験の奉行職。教観坊成連。体躯人にすぐれ、一日に数十里を跋渉した。文久三(1863)年6月彦山の僧徒が義挙を企てたとき、荷担して盟約を結んだ。同年8月奇兵隊と連絡のため高根正也(良什坊)と共に下関に赴き、八月十八日の政変を知り、さらに三田尻に行った。帰山して政情を報告、同年10月再び長州に渡り、11月久坂玄瑞および三条家家臣丹羽正雄に伴われ、佐竹織江(厳瑶坊)と共に彦山使僧と称して京都に潜入した。政情を探索し、七卿の遺棄した品を収めて伏見に到ったとき小倉藩兵に捕らえられ、六角の獄舎に繋がれた。元治元(1864)年禁門の変の際、獄舎の中で刺殺された。享年34歳 
7月19日におこった禁門の変による兵火、いわゆる「ドンドン焼け」で六角通神泉苑西の六角牢にも類焼の恐れが出てきました。町奉行月番滝川播磨守具知さんは、六角獄に収監されている国事犯が類焼によって脱走する危険性を感じ、独断で斬首処分を決定してしまいます。処刑された志士は、主に天誅組の乱・生野の変で捕えられた人々で、その数は実に37名に上りましたが、結局六角獄に類焼することはありませんでした。しかしこのことは幕府側の暴挙だと京の人々には映ることになり、京都守護職松平容保公も激怒させる結果となってしまいました。その後事件の当事者だった滝川播磨守具知(具挙)さんはさらに大きな事件・鳥羽伏見の戦いの引き金を引くことになります・・・。
元治元年 七月二十日 六角獄