清岡治之助(高知県安芸郡田野町・福田寺)
土佐郷士。胆力があり沈着の人で、岡本寧甫に学んだ。江戸に出て安積艮斎に入門し、また平田派の学問を修めた。文久二(1862)年6月藩命で上京し、勤王運動に参加してしばしば斬奸を行った。勅使三条実美の東下に当たって扈従し、帰国後尊攘論を主張して画策したが、文久三(1863)年9月武市瑞山の下獄するや、同族清岡道之助と共に首謀者となり、元治元(1864)年7月反論の転化を企てて野根山に屯集したが、藩吏に追われて捕えられ、9月5日同志と共に奈半利河原で斬られた。享年39歳。
清岡道之進(高知県安芸郡田野町・福田寺)
土佐郷士。幼少のころより文武の業を修め、長じて岡本寧甫に経史を学んだ。21歳のとき江戸に出て佐藤一斎・安積艮斎・若山勿堂に学び、安政元(1854)年帰国した。その後一度江戸に出たが、父の死後郷国で勉学した。斜視のために独眼龍の綽名があり、文久元(1861)年大坂住吉陣営の警備を命ぜられた時、すがめのため学問を希望したが許されず帰国した。武市瑞山の土佐勤王党結成に当たり、その趣旨に賛成しつつも、別に一党をたてる意図か、参加しなかったが、文久三(1863)年正月瑞山に会い、同志として行動することを誓った。勤王党の獄が起こるや、元治元(1864)年6月抗議の建白書を提出したが、藩の黙殺にあったため、7月同志と共に野根山に屯集し、武力によって藩に強請しようとして討伐をうけ、阿波に逃れたが捕えられ、同志と共に奈半利河原で斬られ、首謀の罪をもって梟首に処せられた。享年32歳。
寺尾権平(高知県安芸郡田野町・福田寺)
土佐郷士。少壮のころ文武に志し、高知に出て剣術・槍術を谷台八に、学問を島村有慶に学んだ。元治元(1864)年7月清岡道之助らの謀議に加わり野根山に屯集したが、藩吏の追及を受けて捕えられ、同志と共に奈半利河原で斬られた。享年24歳。
柏原禎吉(高知県安芸郡田野町・福田寺)
土佐郷士。少壮時高知に出て剣術・砲術・馬術を修めた。文久二(1862)年6月藩主山内藩主山内豊範に扈従して上京し、10月勅使三条実美を護衛して東下した文久三(1863)年2月藩主に従い帰国、民兵小頭となり農兵を組織した。元治元(1864)年7月清岡道之助を首領とする野根山屯集に加わったが、藩吏の追捕にあい、阿波に逃れた後捕えられ、同志と共に奈半利河原で斬られた。享年27歳。
柏原省三(高知県安芸郡田野町・福田寺)
土佐藩医師。性質温順で風貌は女のようであったという。医学研究のため上坂して諸方郁蔵の塾で学び、安政六(1859)年郡の傭医となったが、さらに文久元(1861)年長崎に赴き、二宮恕山や蘭医のボードインについて修行し、帰郷して業を営んだ。元治元(1864)年清岡道之助らと国事に奔走し、7月野根山に屯集したが捕われ、同志と共に奈半利河原で斬られた。享年30歳。
木下嘉久次(高知県安芸郡田野町・福田寺)
土佐藩関所番頭。家は代々野根山岩佐関の番頭を勤めた。安政三(1856)年父の後を継いで岩佐関を守り、よく父の遺訓を奉じ、弟慎之助と共に文武の練磨に努め国事に奔走した。元治元(1864)年7月清岡道之助らが藩への建言書を提出しようとしてこの地に屯集した際、義挙に加わり書面提出の任に当たった。同年9月藩吏の追及を受けて捕えられ、同志と共に奈半利河原で斬られた。享年21歳。
木下慎之助(高知県安芸郡田野町・福田寺)
土佐藩関所番頭。兄嘉久次と共に国事に奔走したが、元治元(1864)年7月清岡道之助らの野根山屯集の謀議があるや、兄の避難を勧めるのも聞き入れずに同盟に加わり、藩兵のために阿波で捕縛され、土佐に送られた後、奈半利河原で斬られた。同志23人のうち最年少の16歳であった。
近藤次郎太郎(高知県安芸郡田野町・福田寺)
土佐郷士。幼児より武術を好み、剣術を谷台八に、砲術を田所左右次に学んだ。:安政二(1855)年西島村の庄屋近藤恒太の養子となり、養父に代わってその職を勤めていたが、尊攘の論が起きるに及び、武市瑞山に傾倒し、文久二(1862)年10月五十人組の一人として江戸に上り、山内容堂の護衛に当った。元治元(1864)年7月清岡道之助らの野根山屯集に加わったが、藩吏の追及を受けて阿波で捕えられ、同志と共に奈半利河原で斬られた。享年25歳。


田中収吉(高知県安芸郡田野町・福田寺)
土佐藩庄屋。幼時より学問を好み、藩士の岩崎秋溟に学び、のち江戸に留学して塩谷宕陰のもとで数年を送り、その間諸藩の志士と交わった。元治元(1864)年帰国、7月清岡道之助の野根山屯集に参加し、藩吏の追求を受けて阿波に逃れたが捕縛され、同志と共に奈半利河原で斬られた。享年22歳。
吉本培助(高知県安芸郡田野町・福田寺)
土佐藩庄屋。文久元(1861)年以来、父に代わって吏務を勤めた。その間武市瑞山に従って文武に励み、勤王の志を養った。元治元(1864)年7月清岡道之助らの野根山屯集に加わったが、藩吏の追及を受けて捕えられ、同志と共に奈半利河原で斬られた。享年21歳。
安岡哲馬(高知県安芸郡田野町・福田寺)
土佐郷士。文武を学んだが、学才があったので田野の安芸郡郡奉行所の学館に入って教授役となった。元治元(1864)年7月清岡道之助らの野根山屯集に加わったが、藩吏の追及を受けて捕縛され、同志と共に奈半利河原で斬られた。享年19歳。
川島総次(高知県安芸郡田野町・福田寺)
土佐藩関所番卒。安芸郡野根山の岩佐関を守る関所番卒の子として生まれ、元治元(1864)年父の職を継いだ。性質は闊達明朗で常に国事を憂い勤王の志を抱いていた。7月清岡道之助を首領とする野根山の屯集に参加し、藩兵に追及されて阿波に逃れたが、捕縛後同志と共に奈半利河原で斬られた。享年40歳。
檜垣繁太郎(高知県安芸郡田野町・福田寺)
土佐藩庄屋。元治元(1864)年7月の清岡道之助らの野根山屯集に参加し、土佐藩吏の追求を受け阿波に逃れたが捕えられ、同志と共に奈半利河原で斬られた。享年16歳。木下慎之助と共に同志中の最年少者であった。
千屋熊太郎(高知県安芸郡田野町・福田寺)
土佐藩庄屋・医師。医学を志し、万延元(1860)年大坂に出て緒方郁蔵に学び、文久二(1862)年帰国後開業するや、患者が殺到したという。勤王の志が厚く、国事に奔走し、元治元(1864)年7月清岡道之助の野根山屯集に加わったが、藩吏に追求されて捕えられ、同志と共に奈半利河原で斬られた。享年21歳。
宮田頼吉(高知県安芸郡田野町・福田寺)
土佐郷士。少壮のころ高知に出て武市瑞山のもとで剣を学んだ。瑞山よりその才を愛され、文久二(1862)年3月参政吉田東洋暗殺の謀議に与り、4月8日の夜ついに殺害したことを同志に知らせた。同年6月藩主山内豊範東上の折、瑞山と共に従って江戸に出て諸藩の有志と交わった。文久三(1863)年4月瑞山と共に帰国したが、藩論一変して勤王党の獄が起こった。元治元(1864)年7月、瑞山救援のため清岡道之助らの野根山屯集に参加し、藩吏に捕縛され、同志と共に奈半利河原で斬られた。享年30歳。
横山英吉(高知県安芸郡田野町・福田寺)
土佐郷士。幼少時より武術を好み、ことに砲術は田所左右次に学んで最も練達した。あるとき執政五藤主計が郡中の若者を安芸の東浜に集めてその技を試みさせた。英吉は強薬を装し、火箭を連発したが姿勢が少しも乱れず、人々を驚嘆させたという。安政年中足軽に登用された。慷慨の士で、国事を痛憤し、元治元年7月清岡道之助らの野根山屯集に加わり、藩吏の追及を受け捕縛され、同志と共に奈半利河原で斬られた。享年24歳。
宮地孫市(高知県安芸郡田野町・福田寺)
土佐郷士。家は本高岡郡須崎の郷士で、土佐郡江ノ口村に移った。幼時より文武を修め、ことに砲術に優れていた。文久二(1862)年足軽となり安芸郡府に勤務し、田野に居住した。元治元(1864)年7月清岡道之助らの野根山屯集に加わったが、藩吏に追われて捕えられ、同志と共に奈半利河原で斬られた。享年19歳。
小川官次(高知県安芸郡田野町・福田寺)
土佐郷士・庄屋。家は代々安芸郡島村の庄屋で、幼少のころ田野郡衙の学校に学び、また中村某について砲術を研究し、安政六(1859)年の末ころ足軽に列せられ下士となった。元治元(1864)年7月清岡道之助を首領とする勤王運動に参加して野根山に屯集したが捕えられ、同志と共に奈半利河原で斬られた。享年21歳。
岡松恵之助(高知県安芸郡田野町・福田寺)
土佐郷士。剣道・砲術を学び、学問では史書を好んで読み、文武に優れていた。清岡道之助を首領とする勤王運動に与し、元治元(1864)年7月25日安芸郡田野の佐渡屋に会合したのち、野根山屯集に参加したが、幕吏に追われ阿波に逃れた。8月に入り阿波藩のため捕らえられ、土佐藩に引渡された後、同志と共に奈半利河原で斬られた。享年30歳。
新井竹次郎(高知県安芸郡田野町・福田寺)
土佐藩村役人。幼少時より学問を好み、貧窮のため藩士の従僕となって上京し、労役しつつ勉学し、帰郷して森田梅?に詩文を学んだ。文久二(1862)年伯父林左衛門の死後、後を継いで北川郷総老となった。解職遊学を請うたが許されず、自宅で読書、元治元(1864)年7月清岡道之助と意気投合して野根山屯集に参加した。はじめ不動浜の会合で、決起の冒険を危ぶんだが、結局道之助の意見に従った。捕縛後、同志と共に奈半利河原で斬られた。享年26歳。
宮田節斎(高知県安芸郡田野町・福田寺)
土佐藩医者。幼時より学問を好み、医学を学んだが、のち仏教を修め、嘉永二(1849)年高岡郡蓮池村正覚寺の住職となり、大円と号した。安政三(1856)年故あって寺を去り、安芸郡伊尾木村に追放され、同郡安田村の医者宮田謙次について医学を修めた。安政六(1859)年罪を許され、長岡郡大津村で開業したが、元治元(1864)年7月清岡道之助らの野根山屯集に加わり、藩吏に追求されて捕えられ、同志と共に奈半利河原で斬られた。。享年29歳。
豊永斧馬(高知県安芸郡田野町・福田寺)
土佐藩農民。初め父母を助けて農業に励んだが、安政年間高知に出て武市瑞山に剣を学び、また田所左右次に砲術を学んだ。万延元(1860)年民兵に挙げられ、文久二(1862)年五十人組に加わって江戸に赴き、山内容堂の護衛に当たり、江戸・大坂を往復して国事に尽くした。元治元(1864)年7月清岡道之助の計画に加わり、野根山に屯集したが藩吏の追及をうけて捕縛され、同志と共に奈半利河原で斬られた。享年27歳。
須賀恒次(高知県安芸郡田野町・福田寺)
土佐藩農民。幼少時より文武を好み、特に詩に巧みであった。砲術を田所左右次について修め、高知に出て致道館に入ったが、このとき抜擢されて民兵となった。中岡慎太郎の信任を受け、文久三(1863)年9月その脱藩をとどめたが成功しなかった。国に残って同志の糾合に努め、武市瑞山を頼り、進退を共にしようとした。元治元(1864)年7月清岡道之助らの野根山屯集に参加して藩吏に捕われ、同志と共に奈半利河原で斬られた。享年30歳。
前日檮原で時間を食いすぎて行けなかった田野町にいよいよ進撃!瑞山神社から一気に向かうつもりでしたが・・・とにかく暑い!死ぬほど暑い!!ってことで2・3度休憩しつつ昼過ぎに現着。とりあえず駅でデジカメのデータをダウンロード、スマートメディアを空にして来るべき撮影に備えました。それから二十三士公園、清岡道之助生家、浜口雄幸生家を周ってる途中に途中中岡慎太郎資料館の案内掲示があったので時間次第で考えようと一路福田寺へ。高知市内の里山を周った後だっただけにすばらしく整った墓地に感動してしまいました(一般的にはフツーだと思うのですが・・・)。さすがに23人連続撮影は時間がかかりましたが(かつて天王山で撮影した十七烈士の映像に一枚だけピンボケがあったために再登山を余儀なくされた苦い経験がありましたので、今では1つの御墓に対して2・3枚は撮ることにしてます。だからここだけで50枚以上撮ってました。数珠持って・・・)幸い誰もいなかったので気持ち的には何の重圧も無く撮影できました。で、時間も十分できたので、急遽中岡さんの所に行くことにしました。
元治元年 野根山殉難二十三烈士