安岡嘉助(京都市東山区・霊山墓地)
土佐郷士。漢学・砲術を学んだが、義侠の人で時勢を憂え、土佐勤王党に参加した。文久二(1862)年4月、那須信吾・大石団蔵の同志と参政吉田東洋を斬って長州に脱走し、のち上京して長州・薩摩の藩邸に潜伏した。文久三(1863)年8月天誅組の挙兵に参加し、9月7日下市の戦いで戦傷を受け、奮戦したが破れ、芝村藩兵に捕らえられて京都六角の獄に送られ、元治元(1864)年2月16日に斬られた。享年29歳。
森下儀之助(京都市東山区・霊山墓地〔上〕/奈良県吉野郡東吉野村鷲家・湯の谷墓地〔下〕)
土佐郷士。長岡郡本山村に生まれ、のち土佐郡秦泉寺村に居住した。孝心深く、貧窮の中で武技を修め、勤王の志が厚く国事に奔走した。文久三(1863)年山内家の支流豊積の供奉人となって上京し、在京の志士と交わった。同年8月天誅組の挙兵に弟幾馬と共に加わり、9月9日の夜、同志と共に下市の彦根兵営を夜襲して戦果を挙げたが、鷲家口の戦いに敗れ、津藩の藩兵に捕らえられて京都六角の獄に送られ、元治元(1864)年2月16日斬首された。享年34歳
安岡斧太郎(京都市東山区・霊山墓地)
土佐藩庄屋。田所左右次に砲術を、樋口真吉に剣術を学び、諸所を遊歴して技を磨いた。土佐勤王党に加盟し、文久二(1862)年10月五十人組の一人として江戸に赴いて山内容堂を護衛し、文久三(1863)年正月京に入った。藩命で勝海舟に入門して海軍術を学んだが、5月修行に託して北添佶磨らと北国・蝦夷地を探索した。同年8月天誅組の挙兵に加わり砲隊伍長として勇戦したが、鷲家口で戦傷を負い、津藩兵に捕われて京都の六角獄送られ、元治元(1864)年2月16日斬首された。享年26歳。
田所騰次郎(京都市東山区・霊山墓地)
土佐郷士。徒士格に列し、持筒役となった。剛毅の質で勤王心が厚く、文久元(1861)年江戸にいるとき脱藩して志士と交わった。文久三(1863)年8月天誅組の挙兵に加わり、ようやく脱して三味田権現社内に入り、疲労のため昏睡して津藩兵に捕えられ、元治元(1864)年2月16日京都六角の獄で斬られた。享年24歳。
土居佐之助(京都市東山区・霊山墓地)
土佐郷士。幼少のころより田内菜園・徳永千規に和漢の書を学び、武術の修行も行った。慷慨の質で、土佐勤王党に加盟し、文久三(1863)年脱藩して上京し、諸藩の志士と交わった。同年6月吉村寅太郎と共に長州に赴き、7月再び上京した。その間高杉晋作・久坂玄瑞の諸士と国事を論じ、8月天誅組の挙兵に加わり、各所に転戦したが敗れ、9月28日多武峰鹿路において津藩兵に捕われ、京都六角の獄に送られ、元治元(1864)年2月16日に斬られた。享年24歳。
伴林六郎(京都市東山区・霊山墓地)
僧侶。河内国志貴郡林村尊光寺に生まれ天保のころ攝津国川辺郡下市場道場に住み仏道を修す。傍ら伊丹にて中村良臣・無盖に歌学を習い、また因幡の飯田秀雄、紀伊の加納諸平について和学を学んだ。その後江戸に下って伴信友門下に入り、一時父兄の乞により仏門に戻ったが、再び蓄髪し文久二(1862)年大和国中宮寺御内人として奉仕、この間皇陵の復興を願い、微衷を朝廷に通じている。文久三(1863)年8月五条に天誅組の変起るや、直ちに参じて主将の中山忠光にまみえ、軍参謀兼記録方となり、十津川郷兵その他に檄文を発して人数を集め、また白銀峯・和田峯の戦には寡兵よく追討の藩兵に抗して奮戦したが戦利無く、幹部も多く討死し、自身も遁走の途中捕えられた。獄中にあっても自若として同志に学を講じ、また「南山踏雲録」を著した。元治元(1864)年2月16日京都六角獄にて斬死。享年52歳。
島村省吾(京都市東山区・霊山墓地)
土佐郷士。少壮のころ、京・江戸に遊学して文武を修め、特に砲術に優れていた。安政六(1859)年脱藩して諸藩の志士と交わったが、のち藩吏に登用され国事の周旋を行った。文久三(1863)年8月天誅組の挙兵に参加し、9月24日鷲家口の戦いに敗れ、逃れて民家に投宿したが、翌日大庄屋辻四郎三郎らの兵に包囲されて捕われ、京に護送の後投獄され、元治元(1864)年2月16日六角獄中で斬られた。享年20歳。
沢村幸吉(京都市東山区・霊山墓地)
土佐郷士。資質温厚、気概の人で、文久三(1863)年上京して宮闕護衛の任にあったが、8月天誅組の挙兵に応じてこれに参加し、各所を転戦したが敗れ、9月24日鷲家口の激闘でようやく囲みを突破することができた。しかし芝村藩兵の追跡にあい、捕縛の後京都に送られ、元治元(1864)年2月16日六角獄中で斬られた。享年22歳。
荒巻羊三郎(京都市東山区・霊山墓地/福岡県久留米市・山川招魂社)
久留米藩士。安政・万延の間、側足軽・穿鑿下役・足軽目付などを歴任した。文久二(1862)年2月江戸藩邸祗役を命ぜられたが脱藩して下関に赴き、島津久光の状況を聞き、その行列に従って伏見に至ったが、寺田屋の変が起り、大坂の久留米藩邸へ幽囚され、藩地へ送還されて謹慎を命ぜられた。文久三(1863)年2月解かれ、4月親兵として上京を命ぜられたが、再び幽閉され、5月許されて6月に状況、三条実美の護衛兵となった。同年8月中山忠光に従って大和挙兵に参加したが、敗れて捕らえられ、2月16日京都六角の獄で処刑された。享年24歳。
江頭種八(京都市東山区・霊山墓地/福岡県久留米市・山川招魂社)
安政年中、先手足軽町方新組の職を勤めた。文久三(1863)年4月親兵として京都に上るとき、反論が佐幕派の占めるところとなり、自宅に幽閉されたが5月内勅により幽閉を解かれ、6月上京を命ぜられて三条実美の護衛兵となった。8月中山忠光の天誅組挙兵に参加したが、敗れて捕えられ、元治元(1864)年2月16日京都六角の獄で処刑された。享年25歳。
酒井伝次郎(京都市東山区・霊山墓地/福岡県久留米市・山川招魂社)
久留米藩士。江戸に出て大橋訥菴の門に学ぶこと3年、帰藩して真木和泉らと交わり、尊攘のことを議した。文久二(1862)年2月同志と共に脱藩、下関の白石正一郎の家に寓した。たまたま島津久光の上京を聞き、久光を擁して義兵を上げようと伏見に至ったが、寺田屋の変で計画が挫折し、藩地へ護送された。一年間禁固を命ぜられた、文久三(1863)年3月許され、親兵を命ぜられて上京したが、再び幽閉された。5月幽囚を解かれ、6月周旋方として上京、8月中山忠光が兵を大和に挙げるのを聞いて参加、高取城の攻撃に勇名を轟かせたが、敗れて追討の幕兵に捕えられ、翌年2月16日京都六角の獄で斬られた。享年27歳。
鶴田陶司(京都市東山区・霊山墓地/福岡県久留米市・山川招魂社)
久留米藩士。文久二(1862)年2月同志と脱藩して大坂に至り、島津久光を迎えて京都に入ったが、寺田屋の変にあって藩吏に捕えられ、藩地に護送、禁固された。文久三(1863)年2月許され、親兵として上京を命ぜられたが、はん論一変して4月再び幽囚された。同年5月許され、6月禁裏守衛の任を受けて上京したが、8月中山忠光が大和に義兵を挙げるのを聞いてこれに参加、各地に転戦したが敗れて捕えられ、2月16日京都六角の獄で斬られた。享年25歳。
中垣健太郎(京都市東山区・霊山墓地/福岡県久留米市・山川招魂社)
久留米藩士。真木和泉の教えを受け、国事に奔走することを誓い、同志の糾合に尽力した。文久二(1862)年2月同志と脱藩して京都に赴いたが、伏見で寺田屋の変に遭い、幕吏に捕えられて藩地に送還、幽閉された。文久三(1863)年2月幽囚を解かれ、4月親兵として上京を命ぜられたが、藩論一変して再び幽閉された。5月許され、6月京都守衛の任を受けて再び上京、時に朝議一変、都下紛擾はなはだしく、8月中山忠光が大和で兵を挙げるのを聞き、これに参加し、率先五条代官鈴木源内を倒し、ついで40日にわたり各地で転戦したが、9月の末、鷲家口の戦いに敗れて捕えられ、2月16日京都六角の獄で処刑された。享年24歳。
安積五郎(京都市東山区・霊山墓地)
卜占家。幼時痘瘡を病み右目を失明、11歳のとき商家に奉公したが、間もなく家に帰って売卜を学び、のち剣術をも志す。15歳の時、幕府医官塩田順庵に従って勉学、同時に千葉周作について剣術を学び、ついに売卜業の家業を捨てて、江畑五郎なるものと共に下谷御徒町に漢学塾を開いた。安政六(1859)年清河八郎と会してから尊王に志し、楠公の人となりを慕って尊攘を唱えていたが、幕吏の探知するところとなり、その捜索厳重を極めたので、ついに逃れて京都に移り、ついで九州に遊説して志士の糾合に奔走した。文久三(1863)年8月中山忠光が大和で義兵を挙げるや、これが鎮撫を命ぜられた平の国臣に随行したが、同志と共に義挙に参加、旗奉行として十津川・坂本に戦い、藤本鉄石らとしばしば奇策をもって敵を破ったが、9月25日丹波で津藩兵に捕えられ、翌年京都の六角の獄中で斬られた。享年37歳。
岡見留次郎(京都市東山区・霊山墓地)
水戸藩士。文久元(1861)年5月浪人有賀半弥らと謀議して28日夜高輪東禅寺の英国仮公使館を襲い、囲いを脱して西国に走り、長州・土佐の有志と交わった。ついで文久三(1863)年8月大和の挙兵に加わったが戦い敗れ、離散するに及んで津藩兵に捕えられ、元治元(1864)年2月16日京都六角の獄で斬られた。享年23歳。
尾崎健蔵(京都市東山区・霊山墓地)
鳥取藩老臣池田式部家人。17歳のとき建三と改め、藩儒景山竜造に学んだ。19歳のとき、京都に上り藤本鉄石ら諸藩の志士と交わる。文久三(1863)年6月堀庄次郎・横田友次郎・秋田豊成・神戸瑞男ら同志と藩内佐幕派の主導者達を襲わんとしたが失敗。のち天誅組に入り、同年8月藤本鉄石の大和十津川挙兵に参加、岩船山において津藩兵に捕われ、京都六角の獄舎に幽せられた。元治元(1864)年2月16日同所において殺害された。享年24歳。
尾崎鋳五郎(京都市東山区・霊山墓地)
島原藩士。父が江戸深川辺で大砲鋳造中に生まれたので鋳五郎と命名され、安政五(1858)年徒士役となる。江戸藩邸勤役中に藤森天山・斎藤弥九郎らに学・剣を学び、文久二(1862)年10月江戸より上洛、勤王の士と交わる。島原に帰り尊攘を唱えてたが、文久三(1863)年6月脱藩して下関に赴き、長州藩の外国船打払いに参加、上洛して8月同藩保母景光らと共に中山忠光の天誅組義挙に参加し、五条・天の川で戦い、再挙を図ったが捕えられ、京都六角の獄に?がれ、2月16日同士19人と共に斬首された。享年22歳。
渋谷伊予作(京都市東山区・霊山墓地)
下館藩士。早くから尊攘論に傾倒し、文久二(1862)年12月郷里を出奔して京都に赴いた。文久三(1863)年5月長州藩が、下関海峡を通る外国艦船を砲撃したのを聞き、奮然奇兵隊に投じた。のち京師に帰り、中山忠光に従い大和天誅組の四天王の一人として挙兵した。近畿諸藩がこれを包囲し賊徒討伐軍と呼号したのに憤激し、津藩藤堂氏に賊名を除かんと謁したが、欺かれて京師の獄に投ぜられた。翌元治元(1864)年2月16日刑に処せられた。享年23歳。
天誅組は大和で全滅したわけではなく、脱出したり捕縛されたりした者たちがいました。しかし捕縛されたものは運命の2月16日、六角獄で刑死しています。そして主将の中山忠光卿は長州で保守派によって暗殺されました。ですから本当の意味での天誅組の終焉はその瞬間だったと思います
中山忠光(山口県下関市・中山神社)
公家。安政四(1857)年従五位下に叙し、安政五(1858)年侍従に任ぜられ、万延元(1860)年に儲君(睦仁親王、後の明治天皇)祗候を命ぜられた。幼少より奔放な言動が多かったが、早くより尊攘派の志士と交わり、文久二(1862)年和宮の降嫁に尽力した延臣らの排斥運動が起るや、その急先鋒となって画策した。文久三(1863)年2月調停に国事寄人が新設されるに及び、19歳の若さでこれに加えられた。当時朝廷は尊攘派の延臣によって占められていたが、それにも満足できず、同志と共に関白鷹司輔?邸におしかけて攘夷期日の裁断を迫り、更に同年3月には密かに都を脱して長州藩に身を投じ、官位を返上して森俊斎と称し、諸方の志士と往来した。また下関における外国船砲撃に率先してこれに参加し、さらに長州藩士を従えて久留米藩に赴き、当時投獄されていた真木和泉以下尊攘派の藩士を釈放させるなど、その活躍は著しかった。しかし京都の情勢が尊攘派に不利な方向に進むのを見て、6月京都に帰り、真木和泉・久坂玄瑞・吉村寅太郎らの志士と交わり、攘夷親政を目指して奔走した。8月13日大和行幸の詔が下されるや、親政行幸を迎えてその先鋒たらんことを欲し、吉村寅太郎らの同志を率いて京都を出奔し、大和五条代官鈴木源内を誅戮して倒幕の兵を挙げた。世にこれを天誅組という。しかし八月十八日の政変によって大和行幸は中止され、天誅組は幕軍の討伐を受けて壊滅した。忠光は血路を開いてようやく長州に逃れたが、禁門の変後の長州藩の情勢も変わり、刺客に襲われて豊浦郡田耕村に没した。享年20歳。
綾羅木の海水浴場に近いこの神社の中には愛親覚羅社もあり、溥傑さんらが祀られています。訪問したこの日は終戦記念日で、暑い中阪九フェリーのキャンセル待ちの身でもあり、慌しく壇ノ浦へと移動しましたが、時間があればのんびりしたい風情の所でした。できたらついでに泳ぎたかった・・・
元治元年 天誅組壊滅