青木与三郎(京都・霊山墓地)
対馬藩士。元治元(1864)年1月脱藩して長州入り。7月忠勇隊に属して上京、19日禁門の変で戦死。享年29歳。
粟屋良之助(京都・霊山墓地)
膳所藩士。元岩国藩士彦右衛門の長男。藩校記録方。元治元(1864)年長州軍に属し、7月19日堺町門内で戦死。享年24歳。
安東鉄馬(京都・霊山墓地)
美作国英田郡庄屋。幼にして近隣の安東直範に剣を学び、ついで但馬国豊岡の池田草庵、近江国水口の豊田謙次について学問し、勤王の志気を磨いた。早く父を失い母に至孝なるも、天下多事に際して瓦全をもとめず、玉砕を期して義党と盟を交わした。文久三(1863)年生野銀山事件に関与し、元治元(1864)年6月池田屋の変に加わって危難を免れ、ついで7月禁門の変には決死の覚悟で長州藩に荷担し、鷹司邸内で奮戦の末、飛弾に当たって斃れる。享年22歳。
市蔵(京都・霊山墓地)
和泉国池上村の庄屋南繁信の僕。元江戸旗本の子。元治元(1864)年7月19日禁門で戦死。享年不明。
伊藤甲之助(京都・霊山墓地)
土佐藩士。土佐勤王党に属す。。文久二(1862)年上京、勅使護衛で江戸へ。文久三(1863)年8月七卿と西下。元治元(1864)年長州軍忠勇隊に属し上京、7月19日に負傷し21日更川辺で自決。享年21歳。
内田弥三郎(京都・霊山墓地/熊本県熊本市・桜山神社)
肥後玉名郡安楽寺村の人。文久三(1863)年京坂、長防を奔走して勤王を運動。元治元(1864)年7月19日長州軍に加わり禁門で戦死。享年24歳。
尾崎幸之進(京都・霊山墓地)
土佐藩士。銀見役から文久二(1862)年五十人組に加わり江戸へ。文久三(1863)年脱藩して長州へ。元治元(1864)年忠勇隊に属し、7月19日禁門で戦死。享年25歳。
上岡胆治(京都・霊山墓地)
土佐高岡郡津野山村庄屋。妻は吉村寅太郎の姉。土佐勤王党に属す。。文久三(1863)年9月脱藩して長州へ。元治元(1864)年7月19日鷹司邸で戦死。享年49歳。
小橋友之輔(京都・霊山墓地)
高松藩士。文久以来京坂で勤王運動。三条実美に信頼される。元治元(1864)年長州軍に加わり7月19日蛤門で戦死。享年19歳。
相良新八郎(京都市西京区樫原)
薩摩藩士。相良頼元の弟。脱藩して長州軍に属し、元治元(1864)年7月19日洛西樫原で小浜藩兵と戦い戦死。享年不明。
相良頼元(京都市西京区樫原)
薩摩藩士。脱藩して宇都宮藩に走り、のち長州軍に参加。元治元(1864)年7月19日洛西樫原で小浜藩兵と戦い戦死。享年不明。
田岡俊三郎(京都・霊山墓地)
伊予小松藩士。小姓役から槍術指南役。文久二(1862)年上京して尊攘運動。文久三(1863)年8月七卿に従って長州へ下る。10月生野挙兵に加わり敗走、伊予に潜伏する。元治元(1864)年夏長州軍に加わり上京、7月19日鷹司邸前で戦死。享年36歳。
高木元右衛門(京都・霊山墓地/熊本県熊本市・桜山神社)
熊本藩士。文久二(1862)年上京、翌年長州へ行く。元治元(1864)年6月5日、池田屋事件に遭遇し脱出。7月19日長州軍に属し蛤門で戦死。享年32歳。
武林八郎(京都・霊山墓地)
河内錦部郡長野村の人。文久三(1863)年8月天誅組に参加して武器方。捕えられ京都で入獄。元治元(1864)年1月14日釈放される。長州勢に加わり7月19日鷹司邸で戦死。享年26歳。
津田愛之助(京都・霊山墓地)
対馬藩士。元治元(1864)年1月脱藩して長州へ。6月忠勇隊に入り上京、7月19日鷹司邸前で戦死。享年18歳。
中平竜之助(京都・霊山墓地〔上〕/高知県檮原・六志士の墓〔下〕
土佐藩士。文久三(1863)年11月三田尻に走って忠勇隊に入る。元治元(1864)年7月19日鷹司邸で負傷、自決した。享年23歳。
中村恒次郎(京都・霊山墓地)
福岡藩士。元治元(1864)年3月、福岡枡木屋獄から救出した兄の円太と長州へ走り、6月忠勇隊に属して上京、7月19日中立売門で彦根兵と戦い戦死。享年24歳。
那須俊平(京都・霊山墓地〔上〕/高知県檮原・那須父子の墓〔中〕・六志士の墓〔下〕)
土佐郷士。天誅組の那須信吾の養父。剣道・槍術にすぐれ、高岡郡檮原村に住み師弟を教導した。安政二(1855)年浜田信吾を養子とし、共に国事に尽力した。文久二(1862)年9月松山深蔵・上岡胆治の脱藩のとき、旅費を与えたが、元治元(1864)年5月自らも脱藩して三田尻へに至り、檮山源八郎と変名して忠勇隊に加わった。禁門の変がおこるやこれに参加、7月19日堺町御門で戦闘中、誤って溝に落ち、越前藩兵堤吾市郎に殺された。享年58歳。
池田屋事件の墓所の後にあります。槍術を教えていたという武人らしく、激動の時代にその身を投じています。個人的には信吾さんや長州の方々と並べてあげたいところなのですが、泉下の俊平さんの気持ちは果たしてどうなんでしょうか。檮原の墓地での我が身に起こった悲惨な顛末を信吾さんの項で述べましたが、本当にその節はご迷惑をおかけいたしました。
那須唯一(京都・霊山墓地/山口県防府市・防府市護国神社)
壬生藩士。少壮江戸に出て斉藤弥九郎の門に入り、その技上達して勇名を関東にはせた。文久三(1863)年上京して長州藩邸に寓し、尊攘運動に挺身した。たまたま八月十八日の政変により西下、三田尻の越氏塾に寓して剣を教えた。ついで遊撃隊編成に当たり、力士隊の長となった。元治元(1864)年6月来島又兵衛らと脱藩上京、嵯峨天竜寺に屯し、7月禁門の変に蛤門で乱闘中戦死した。享年24歳
原道太(京都・霊山墓地/福岡県久留米市・山川招魂社)
久留米藩士。諸職を経て総奉行付属となった。尊攘の志が厚く、水田村幽閉中の真木和泉を尋ね、皇威挽回の策を密議した。文久三(1863)年2月同志と脱藩、下関の白石正一郎の家に潜匿中、薩摩藩の有志と交わり、相携えて大坂に至り、薩摩藩邸に仮寓、4月島津久光が到着したので、有志と上京したが、寺田屋の変が起こり、和泉らと共に藩地に送還されて幽閉された。文久三(1863)年2月赦され、3月和泉に従って薩摩に使し、4月親兵として上京を命ぜられたが、藩論一変して再び幽閉された。同年5月罪を解かれ、三条実美の護衛兵となって上京した。たまたま八月十八日の政変により、七卿に従って周防三田尻に駐まった。七卿の内意を受けて薩摩に赴き、帰途西国諸藩の有志の間に遊説した。元治元(1864)年7月長州藩兵の東上に従い、19日和泉と共に禁門の変に戦い、鷹司邸に赴く途中、敵弾に当り、清水源吾に介錯を命じて屠腹した。享年27歳。
半田門吉(京都・霊山墓地/福岡県久留米市・山川招魂社)
久留米藩士。かねてから真木和泉に私淑していた。安政元(1854)年目付役に進み、藩命を帯びて各地に遊歴した。その間、武田二郎と変名して志士と交わり、尊攘の説を主張した。文久三(1863)年4月親兵として上京を命ぜられたが、藩論は一変して自宅に幽閉された。同年5月内勅により赦され、6月上京を命ぜられて三条実美の護衛兵になった。8月中山忠光の天誅組挙兵に砲兵隊長として参加、鷲家口に負傷し、忠光を擁して大坂に潜行し、長州に赴いた。元治元(1864)年7月長州藩兵の東上に真木和泉らとこれに従い、19日禁門の変に戦って鷹司邸前で戦死した。享年31歳。
柳井健次(京都・霊山墓地)
土佐藩士。土佐勤王党に属す。文久三(1863)年脱藩して長州に走り、元治元(1864)年忠勇隊に属して東上、7月19日堺町門で重傷を負い自決した。享年23歳。
若杉弘之進(京都・霊山墓地)
豊後大分郡荏隈村の人。長州・長崎・江戸で医を修め、文久三(1863)年長州入り。元治元(1864)年福原越後隊に属し7月19日禁門で戦死。享年不明。
安田喜助(京都・霊山墓地/熊本県熊本市・桜山神社)
熊本藩士。江戸詰足軽。文久二(1862)年堤松左衛門らと横井小楠暗殺を企て失敗。文久三(1863)年下関外艦砲撃に加わる。元治元(1864)年7月19日の禁門の変にも加わるが、敗退後8月に長州で恭順派によって殺害された。享年25歳。
仙田市郎(京都・霊山墓地)
福岡藩士。藩主・藩政のあり方を論じた「三事録」を著して藩主に献じた。文久二(1862)年8月脱藩、上京して姉小路家に仕え大原重徳の知遇を得る。元治元(1864)年7月19日の禁門の変に長州軍のために大坂で軍資の調達に当たり幕吏に逮捕された。10月大坂獄中で毒を仰いで自殺した。。享年44歳。
さすがに霊山を中心とした墓石だけにほとんど西国諸藩の出ですね。この禁門の変によって日本の政情は一気に逆転、攘夷派はその後各地で弾圧され、福岡・熊本・久留米といった九州の雄藩は相次いで倒幕レースから脱落していくのでした・・・
元治元年 禁門の変 他藩殉難士