赤井重兵衛(京都市・黒谷金戒光明寺会津藩墓地
会津藩士。番頭山内蔵人隊。元治元(1864)年7月19日蛤門で戦死。享年40歳。
有賀権左衛門(京都市・黒谷金戒光明寺会津藩墓地
会津藩士。一瀬伝五郎隊目付、内藤近之助隊外様士。元治元(1864)年7月19日蛤門で戦死。享年46歳。
音次郎(京都市・黒谷金戒光明寺会津藩墓地
会津塩川村の人で、会津藩士日向藤九郎の僕。元治元(1864)年7月19日御所唐門で戦死。享年41歳。
小野田午太夫(京都市・黒谷金戒光明寺会津藩墓地
会津藩士。一瀬伝五郎隊甲士雇。大砲方。元治元(1864)年7月19日蛤門で戦死。享年46歳。
小原治八(京都市・黒谷金戒光明寺会津藩墓地
会津藩士。神保内蔵助隊外様士。元治元(1864)年7月19日御所唐門前で負傷、9月16日死去。享年38歳。
勝右衛門(京都市・黒谷金戒光明寺会津藩墓地
会津勝常村の人で、会津藩士町野(丹野、野とも)伊左衛門重元の僕。元治元(1864)年7月19日御所唐門前で戦死。享年45歳。
窪田伴治(京都市・黒谷金戒光明寺会津藩墓地
会津藩士。家老付寄合。槍術の達人。元治元(1864)年7月19日御所唐門で戦死。享年39歳。
栗村藤四郎(京都市・黒谷金戒光明寺会津藩墓地
会津藩士。元治元(1864)年7月19日禁門で戦死。享年不明。
佐藤九右衛門(京都市・黒谷金戒光明寺会津藩墓地
会津藩士大熊貞治の僕。元治元(1864)年7月19日御所唐門前で戦死。享年不明。
佐藤清之助(京都市・黒谷金戒光明寺会津藩墓地
会津藩士。内藤近之助隊。三宅八五郎組足軽。元治元(1864)年7月19日御所唐門前で長州兵と戦い戦死。享年45歳。
篠田岩五郎(京都市・黒谷金戒光明寺会津藩墓地
会津藩士。内藤近之助隊外様士。元治元(1864)年7月19日唐門前で戦死。享年35歳。
柴辰之助(京都市・黒谷金戒光明寺会津藩墓地
会津藩士。内藤近之助隊外様士。元治元(1864)年7月19日御所唐門前で負傷、9月8日死去。享年40歳。
菅源吾(京都市・黒谷金戒光明寺会津藩墓地
会津藩士。内藤介右衛門家来。元治元(1864)年7月19日禁門で戦死。享年不明。
鈴木粂助(京都市・黒谷金戒光明寺会津藩墓地
会津藩士。元治元(1864)年7月19日禁門で戦死。享年不明。
鈴木武司(京都市・黒谷金戒光明寺会津藩墓地
会津藩士。物頭竹本登組足軽。元治元(1864)年7月19日蛤門で戦死。享年不明。。
善治(京都市・黒谷金戒光明寺会津藩墓地
会津針生村の人。会津藩士安藤新次郎の僕。元治元(1864)年7月19日唐門前で戦死。享年不明。
仙太郎(京都市・黒谷金戒光明寺会津藩墓地
会津藩士内藤介右衛門家来。元治元(1864)年7月19日御所唐門前で戦死。享年24歳。
千里市之助(京都市・黒谷金戒光明寺会津藩墓地
会津藩士。一瀬伝五郎隊。元治元(1864)年7月19日蛤門で負傷、8月3日死去。享年28歳。
高橋猪三郎(京都市・黒谷金戒光明寺会津藩墓地
会津藩士。足軽。物頭片峰保助組。元治元(1864)年7月19日堺町門で長州兵と戦い戦死。享年22歳。
徳四郎(京都市・黒谷金戒光明寺会津藩墓地
会津勝常村の人。会津藩側用人飯田兵左衛門家来。元治元(1864)年7月19日禁門で戦死。享年不明。
中沢鉄之助(京都市・黒谷金戒光明寺会津藩墓地
会津藩士。内藤近之助隊外様士。元治元(1864)年7月19日唐門前で戦死。享年26歳。
西村久之助(京都市・黒谷金戒光明寺会津藩墓地
会津藩士。番頭山内蔵人隊。元治元(1864)年7月19日蛤門で戦死。享年25(27とも)歳。
馬場八郎(京都市・黒谷金戒光明寺会津藩墓地
会津藩士。元治元(1864)年京都に勤仕して中川宮守衛。7月19日新在家辺で戦死。享年32歳。
平兵衛(京都市・黒谷金戒光明寺会津藩墓地
河内国松村の人。内藤介右衛門家来。元治元(1864)年7月19日御所唐門辺りで戦死。享年31歳。
山際久太夫(京都市・黒谷金戒光明寺会津藩墓地
会津藩士。元治元(1864)年7月19日蛤門で戦死。享年47歳。
吉田鶴太郎(京都市・黒谷金戒光明寺会津藩墓地
会津藩士。外様組付。一瀬伝五郎隊。元治元(1864)年7月19日蛤門内で負傷、21日死去。享年38歳。
若林源八(京都市・黒谷金戒光明寺会津藩墓地
会津藩士。公用方付き人。元治元(1864)年7月19日鷹司邸外で負傷、20日に戦死。享年26歳。
赤井兵之助(京都市上京区・薩藩戦死者墓墓地
薩摩藩士。元治元(1864)年7月19日禁門で戦死。享年22歳。
来田源四郎(京都市上京区・薩藩戦死者墓墓地
薩摩藩士。元治元(1864)年7月19日禁門で戦死。享年不明。
野村勘兵衛(京都市上京区・薩藩戦死者墓墓地
薩摩藩士。隈之城部長。元治元(1864)年7月19日禁門で戦死。享年不明。
野村藤七郎(京都市上京区・薩藩戦死者墓墓地
薩摩藩士。隈之城郷士。元治元(1864)年7月19日御所公卿門で戦死。享年20歳。
浜田藤太郎(京都市上京区・薩藩戦死者墓墓地
薩摩藩士。出水郡阿久根郷士。元治元(1864)年7月19日烏丸中立売で負傷、29日死去。享年18歳。
松平矢七郎(京都市上京区・薩藩戦死者墓墓地
薩摩藩士。出水郡阿久根郷士。元治元(1864)年7月19日蛤門で負傷、30日に死去。享年26歳。
宮内彦二(京都市上京区・薩藩戦死者墓墓地
薩摩藩士。江戸昌平黌学頭、帰藩して造士館教授。文久二(1862)年上京。元治元(1864)年7月19日中立売門で戦死。享年26歳。
森喜藤太(京都市上京区・薩藩戦死者墓墓地
薩摩藩士。元治元(1864)年7月19日禁門で負傷、8月9日死去。享年不明。
会津藩墓地は金戒光明寺の墓所の奥にあります。ここを最初に訪れたのは池田屋事件のとばっちりを受けた柴司さんの御墓を探しに来たときです。そのときから墓碑の状態についてはひどいものだと報告いたしました。第二次調査は無差別飽和撮影で、誰のものかはわからないけどとりあえず片っ端から撮っていったのです。しかしながら誰のものかわからない以上廟所に納めることもできず1年が過ぎました。その間に資料も集まり、たまたま今年が禁門の変140年という節目ということもあって本格調査に着手しました。資料によれば禁門の変で亡くなったとされる会津藩士は58名、そのうち12名が第二次調査の際の写真から判明しました。しかしながらその他については墓碑銘を写真から読み取ることが困難であったため第三次調査に踏み切ったのです。その結果会津藩墓地の中央部に10基の禁門の変戦死者の御墓が、さらにその南側に従者身分の御墓が6基、また周辺部に12基の御墓が散在していることが確認されました。日曜日の昼日中から資料片手に御墓を1つ1つチェックしている様はさぞ不気味だったんじゃないかと思いますよ。ただ想像以上に参詣者は来ませんでしたね。

薩摩藩については相国寺の側にあるこの御墓の敷地に入れないので、本当のところ今回納めた8名の名が記されているのかどうか確認は取れていません。ただ殉難者を埋葬したという建前が正しければ入っているはずという前提でその名をここに記しました。
元治元年 禁門の変 幕府軍