広瀬政敏(石川県金沢市・法船寺)
加賀藩士。安政元(1854)年代小将組となり世子前田慶寧付となる。文久三(1863)年6月から幕府から加賀藩に出府勧告があった時、尊攘派と共に阻止運動に尽力し、同年9月禁裏守護の朝命が出ると保守的藩論を親長的尊攘路線に乗せることに成功し慶寧の上洛を実現した。このころから病状が悪化し、外出不能に陥ったため、自宅を勤王派の連絡場所として密議した。しかし元治元(1864)年の禁門の変によって藩論は征長・佐幕と決定し勤王派は一斉弾圧を受けた。政敏は禁固に処せられ9月3日獄死した。享年29歳。

もへい様寄贈
千秋順之助(東京都府中市・多磨霊園)
加賀藩士。秀才の誉れ高く、藩校明倫堂より出でて江戸昌平黌に遊び舎長となる。弘化二(1845)年帰藩、明倫堂助教、世子前田慶寧の侍読を兼ねた。その所論は尊王の大儀に基づき、よく時務の得失を論じたが、ついには幕府の衰退を洞察し、藩の進退を明らかに決するよう主張した。彼の書いた「治穢多之議」は、わが国における部落解放論の先駆をなすものとして高く評価されており、その識見が凡庸でなかったことを示している。元治元(1864)年禁門の変には慶寧の側近にあって参謀を勤めたが、ともに帰藩するや小松で逮捕され、10月18日自刃を命ぜられた。享年51歳。

もへい様寄贈
青木新三郎(石川県金沢市・野田山)
加賀藩料理人。国学を深く信奉し、江戸では橘守部、国では田中兵庫の教えを受けた。勤王の志厚く、早くから志士と交わったが、元治元(1864)年4月藩主父子に上書して尊王の大義を論じた。翌月世子前田慶寧に供奉して上洛、大いに同志と七卿および長州藩の雪冤のために奔走した7月19日禁門の変当日、慶寧に従って帰藩の途次小松で逮捕され、堂上方に立入り、また長州藩士と交わり、主命を矯めて長州藩士小島弥十郎を助けたかどにより10月19日自刃を命ぜられた。享年32歳。
大野木仲三郎(石川県金沢市・宝集寺)
加賀藩士。藩校明倫堂で高木有制に国学を学び、徹底した国粋主義的尊攘論を唱える。元治元(1864)年世子前田慶寧に先立って3月上京、長州藩士桂小五郎(木戸孝允)らと提携し、征長が強行された場合、鳥取・対馬両藩と薩摩・会津・桑名藩を挟撃し、天皇は藩領の今津に遷座させようと謀議したが挫折。同年7月禁門の変が起こり、庇護を求めてきた長州藩士小島弥十郎を津田正邦に託して長州に送り帰藩した。以後、苦境に陥った慶寧を助けて退京理由を釈明したが効なく、慶寧は謹慎、側近の勤王党は一斉弾圧され、仲三郎は切腹を命ぜられ、10月19日没。享年22歳。
元治元(1864)年7月19日、長州藩は禁門の変を引き起こしましたが、長州藩が京へ出兵した際に加賀藩の尊攘派は世子前田慶寧侯を擁して上洛し、これに呼応しようとしました。しかし長州軍が敗退したために慶寧侯は帰国帰国、幕府から譴責された加賀藩は慶寧侯を謹慎させ、関係した藩士を厳刑に処したのです。
元治元年 加賀藩尊攘派弾圧