宮部鼎蔵(京都市左京区・三縁寺〔1〕〔2〕/京都・霊山墓地〔3〕/熊本県熊本市・小峰墓地〔4〕/熊本県熊本市・桜山神社〔5〕)
肥後藩士。父は医者であったが山鹿流軍学師範である叔父丈左衛門増美の養子となり、嘉永二(1849)年家を継ぎ師範となる。安政二(1855)年2月実弟春蔵や門人丸山らが水前寺で同藩の士分永原と喧嘩Lて、軽輩丸山は死刑、実弟春蔵は3年の懲役となり、監督不行届の廉で彼も免職とたった。帰省して七滝で弟子を養っていたとき、文久元(1861)年12月玉名の松村大成の家に清河八郎らが来訪し、これ以後彼は京洛の地に活躍し始めた。彼は山鹿流の兵学のほかに嘉永五、六年ごろ林桜園に師事して国学・神道の思想を身につけ、強く攘夷思想をもっていた。吉田松陰は彼に兄事していたが、松陰ほど外国に対する知識はもち合せていなかった。文久年間三条実美の信任をえて諸国遊訪連絡の任に当り、長州藩士らとも親交があり、在洛志士中重きをなしていた。元治元(1864)年6月5日、古高俊太郎が捕われたため、その善後策を京都三条の池田屋で協議中新撰組の襲撃を受け自刃した。享年45歳。
肥後もっこすとは宮部さんみたいな人かな、って勝手に思っていますが、維新時にはその人材を多く失ったために肥後は藩閥に入れませんでした。その上西南戦争で激戦地となったり・・・なんか踏んだり蹴ったりって印象があるんです。
 
 
松田重助(京都市左京区・三縁寺〔1〕〔2〕/熊本県熊本市・桜山神社〔3〕/京都・霊山墓地〔4〕)
肥後藩士。兵学師範宮部鼎蔵と国学者林桜園の影響で勤王思想に傾倒、嘉永六(1853)年のペリー来航に当たり江戸に出て攘夷運動に投じ、その後も宮部・永鳥三平らと画策。安政二(1855)年、熊本・水戸・長州の3藩に手を握らせて尊王攘夷を決行しようとしたが、熊本藩では反論不一致のため失敗した。安政の大獄前に脱藩し梅田雲濱らと交流を持つ。安政の大獄以降は各地を転々とし、やがて長州藩に身を寄せる。元治元(1864)年六月五日、池田屋にて沖田総司と一騎打ちの末重傷を負い屋内を脱出するも会津藩士数人の槍の前に力尽きた。享年35歳。
広岡浪秀(京都市左京区・三縁寺〔4〕/京都・霊山墓地〔5〕)
美禰郡大嶺八幡宮神官。安政三(1856)年周防国徳山に行き黒神直民に皇典を学び、尊王攘夷論者となる。文久二(1862)年春に上京、長州藩河原町邸に寓して時事偵察に奔走した。同三(1863)年八月十八日の政変によって広分彦也と変名して近江に潜伏、同志と連絡し公卿家に出入りして藩主毛利敬親の冤罪を解かんと努力した。元治元(1864)年6月、池田屋で会合中新撰組の襲撃を受け、斬殺された。享年24歳
北添佶摩(京都市左京区・三縁寺〔4〕/京都・霊山墓地〔5〕)
土佐藩郷士。代々高岡郡岩目地村の庄屋で、幼少時より学間を好み問崎哲馬に学んだ。嘉永六年父の死後庄屋職を継ぎ、同郡大内村に移転した。剛勇の士で尊王論の起るや、決起して志土の同盟に加わり、文久三年二月、同志の能勢達太郎と脱藩し、五月には京都をたって敦賀から海路北海道視察をとげ、北方の海防策を考えると共に、大陸に雄飛せんとの遠大た志望をいだいた。これは後に、坂本龍馬の志士を北海道に移住させる計画に影響を与えたという。元治元年京都に上り本山七郎と変名し、尊撰志士と交わって討幕の謀をめぐらし、池田屋で会合中を新撰組に襲われて闘死した。享年30歳
望月亀弥太(京都市左京区・三縁寺〔4〕)
土佐藩郷士。家は土佐藩の新留守居組で、慷慨気節の士であった。文久二(1862)年山内容堂護衛のため五十人組の一人として江戸に上った。のち藩主豊範に従い江戸に滞留し、文久三(1863)年正月大監察小南五郎右衛門の命で勝海舟について測量・航海術等を学んだ。のち日本各地を航行し、大坂に至るごとに上京して動静を偵察した。元治元(1864)年神戸海軍操練所を脱して京に上り、同士と倒幕の計を進めたが、6月5日池田家の変で新撰組に襲われて闘死した。享年27歳。
池田屋事件の方々の御墓は、龍馬さんの御墓の裏手にあります。霊山の参道途中にある掲示板にはここに土佐藩の北添佶磨さんの御墓がこの松田さんの隣に書かれていますが、実際にはありません。だからご存知無い方は不審に思うことでしょう。実際はなぜか変名の「本山七郎」の名になっているのです。それにしても望月さんの御墓が霊山に無いのはなぜなんでしょう?。
 
大高又次郎(京都市左京区・三縁寺〔1〕/京都・霊山墓地〔2〕)
林田藩士。家系は赤穂義士大高源吾の末。幼少のころより専ら武芸を志し、特に皮具足製造の余技があり、長じて勤王の志厚く、安政五(1858)年脱藩して京に上り、梅田雲浜に師事し多くの志士達と交わった。同年9月安政の大獄により雲浜が逮捕され、12月江戸に護送されるや、京都を脱してその奪還を計ったが成功せず、一時浅草寺に入り剃髪して幕吏の追求を免がれた。のち再び京に潜入して長州藩邸にかくまわれたが、元治元(1864)年6月宮部鼎蔵らと三条の池田屋で密会中、新撰組に急襲され奮戦して闘死した。養嗣忠兵衡(贈従五位)もまた襲われて縛につき、7月4日獄死した。
江戸は本所吉良邸に討ち入った赤穂四十七士の裔が160年後に京三条池田屋で新撰組の討ち入りを受けるというのも歴史の皮肉…まさか新撰組に吉良殿の末裔がいたなんてことはないかとつい考えてしまうのは私だけでしょうか。
 
石川潤次郎(京都市左京区・三縁寺〔1〕/京都・霊山墓地〔2〕)
土佐藩郷士。文久元(1861)年土佐勤王党が結成されるや、これに加盟し国事に奔走した。元治元(1864)年藩命により上京して山内家の姻戚三条家の黒谷別邸に勤仕し、勤王の志士と交わり国事を論じた。6月5日の池田屋事件では池田屋に遅れて到着し新撰組に囲まれ奮戦するも及ばず、斬殺された。享年29歳。
霊山内のこのあたりは元治元年組と勝手に呼んでますが、池田屋事件と六角獄処刑者で構成されているエリアです。だから天誅組の森下さんの御墓が隣にあったりします。しかしお二方共も正直よく知らないんですよね。認識不足です。
 
吉田稔麿(京都市左京区・三縁寺〔1〕/京都・霊山墓地〔2〕/萩市・護国山墓所〔3〕/山口市・朝日山招魂場〔4〕/下関市・桜山招魂場〔5〕)
長州藩士。嘉永二(1849)年久保五郎左衛門に学び、六(1853)年3月江戸番手の旅籠払方手子として江戸に行き、翌年4月帰国し、安政二(1855)年9月また江戸番手御昼水仁として江戸に行き、10月江戸大地震に桜田藩邸で大活躍して賞せられ、翌年2月御供小使を勤めて帰国し、秋から吉田松陰に従学、高杉晋作・久坂玄端と共に松下村塾の三秀と称せられた。同4(1857)年8月御供小使としてまた江戸に行き、翌年帰国したが、12月松陰の訴冤に奔走した罪で謹慎組預けとなった。同六(1859)年10月御用所御内用手子となり、万延元(1860)年6月まで勤めた。8月兵庫御備場御番手として出張を命ぜられたが脱藩し、文久二(1862)年夏京都に立ち帰り、脱藩の罪を許されて11月肥後熊本へ出張を命ぜられ、翌月帰京した。同三(1863)年2月江戸へ差遣され、翌月帰京、4月下関へ出張し、7月士雇に列せられて屠勇取建方を命ぜられた。同年11月急用のため京都・江戸へ行き、翌元治元(1864)年4月帰萩した。同年5月上京して池田屋惣兵衛方で諸藩の同志と会合中を壬生浪士(新撰組)に襲われ、重囲を脱して藩邸に急を報じ、再び池田屋に赴こうとしたが、加賀藩邸前で会津藩兵と戦って討死した.。享年24歳。
池田屋事件の方々の中で一番人気の感があるのがこの方です。でも霊山では長州藩のお歴々と離れているので萩のに比べて何か寂寥感も感じます。京都の岩倉にも御墓が有りますので、行かなければと思っています。ところで吉田さんの最期にはいろんなパターンがあって、新撰組の沖田総司と一騎打ちしたとか、藩邸に知らせてからまた引きかえしたとか…ただ一説には長州藩邸に一報を入れたとき、援軍を聞いてもらえず藩邸前で自刃したとされています。実際朝日山招魂場(慶応元年に開設)の墓碑の横にははっきり「京師見殺」と記されており、その事実を示すものではないかとの意見もあります。

それにしても・・・御墓多すぎ!(ホントもう無いですよね?)


 
杉山松介(京都市左京区・三縁寺〔1〕/京都・霊山墓地〔2〕)
長州藩士。初め土屋蕭海に学び、安政五(1858)年松下村塾に入って吉田松陰に学んだ。7月伊藤俊輔・山県小輔らと上京、11月松陰の閣老間部詮勝暗殺計画に加わったが果たさなかった。文久二(1862)年また上京して久坂玄瑞らと尊攘に奔走、5月国司信濃に従って久留米に行き、真木和泉の幽囚を解いた。のち真木和泉らと東上して京都に滞在、文久三(1863)年8月の政変後、同志は帰国したが、寺島忠三郎と共に留まって回復を謀り、元治元(1864)年6月池田屋で密議中に新撰組の襲撃を受けて重傷を負い、藩邸において死去した。享年27歳。
奥沢栄助(京都市・壬生寺)
新撰組隊士。文久三(1863)年6月ごろ入隊。伍長を勤める。池田屋事件では近藤勇の隊に属し、裏口の守備についていたが、戦闘の末に斬死。報奨金10両が贈られた。
新田革左衛門(京都市・壬生寺)
新撰組隊士。文久三(1863)年末ごろ入隊。元治元(1864)年6月、池田屋事件に際し、近藤隊に所属して戦闘中重傷を負い、後死亡した。死後、金10両、別段金10両の恩賞金を下賜された。
安藤早太郎(京都市・壬生寺)
挙母藩士。天保十三年に行われた奈良東大寺での通し矢で名を上げたが脱藩、知恩院の一心院に入り文久三年5月ころ新撰組に入隊し副長助勤となる。池田屋事件に参戦し、重傷を負い後死亡。報奨金10両が贈られた。享年45歳くらいとされる。
壬生寺の共同墓にその名が刻まれています。この池田屋事件の戦闘中に亡くなったのは新撰組では奥沢さんだけのようです。あとは藤堂平助さんと安東早太郎さん、新田革左衛門さんが重傷という程度で、いくら奇襲とはいえ新撰組の戦闘力の高さを物語ってます。
池田屋惣兵衛(京都市上京区・浄円寺〔上〕/京都・霊山墓地〔下〕)
勤王の志厚く、よく志士を庇護し、かねてから長州藩士はここを定宿としていた。元治元(1864)年6月5日夜、長州藩吉田稔麿ら20数名の志士が密かに会議中、新撰組の急襲を受けた。世に言う池田屋騒動で、惣兵衛は急を志士たちに知らせるとともに妻子と逃亡したが、翌日町奉行所に出頭し尋問を受け、入牢わずかにして熱病のため牢死。享年42歳
柴司(京都市・黒谷金戒光明寺会津藩墓地
会津藩士。元治元(1864)年6月10日夜、池田屋事変後の残党狩りのため人数不足の新選組に派遣され、曙亭事件で土佐の麻田時太郎に槍で傷を負わせた。松平容保は土佐藩との確執を恐れて陳謝するとともに侍医の差遣を申し出たが麻田が不面目をもって切腹したことから、土佐藩との摩擦を恐れた会津藩上層部から事態収拾のために切腹を迫られ、6月12日、兄の外三郎の介錯により白刃した。
柴さんを探そうと勇躍乗り込んだのですが…手がかりは没年の元治元年6月12日だけだったので一つ一つの墓碑の記載を確認していきました。しかし中には風雨に晒され幾星霜を経ただけに判読できない墓碑もあり、かなり難航するかと思いました。幸い柴さんの墓碑は状態もよくほっとしました。
麻田時太郎(京都市中京区・常楽寺)
土佐藩士。元治元(1864)年6月10日夜、清水産寧坂の料亭明保野の奥座敷で独酌中、長州藩士達を追って乱入した新撰組等に驚いて逃出そうとしたところを、会津藩士柴司に槍で突かれ負傷した。この報を受けた会津藩主松平容保は両藩の確執を恐れ、家臣を遣って陳謝し、侍医も差遣しようとしたが容れられず、柴に切腹を命じた。一方、時太郎も土佐武士の名誉にかけても生きられぬと覚悟し、柴の切腹前夜、自刃して両藩の平和のために犠牲となった。享年不明。
元治元年 池田屋事件