江坂栄次郎(兵庫県姫路市・善導寺/兵庫県姫路市・船場本徳寺)
姫路藩士。元之助の弟。砲術に長じ、尊攘論を唱えて藩の上士と意見が合わず、文久三(1863)年正月同志と共に、佐幕派の家老高須隼人に阿諛してその庇護を受け米の買占めなど私曲の多かった用達紅粉屋又左衛門に天誅を加え尊王討幕の血祭りに挙げた。のち河合伝十郎と共に脱藩して神戸海軍操練所に入った。長州に走らんとして大坂の土佐藩邸に潜伏中、藩吏の追捕を受けて投獄され、河合と共に12月26日斬に処せられた。享年22歳。
江坂元之助(兵庫県姫路市・船場本徳寺)
姫路藩士。荻野流の砲術に長じた。尊攘の志を抱き一族を挙げて国事に尽瘁した。文久三(1863)年の春河合総兵衛と共に上洛し、禁闕護衛の任に当り、諸藩の志士と交わった。同年八月十八日の政変で七卿の長州落ちとなるや、随行しようとしたが果たさず、帰国した。元治元(1864)年千種家家臣賀川肇・処士家里新太郎殺害の嫌疑で投獄され、自決を命ぜられた。12月26日没。享年27歳。
河合総兵衛(兵庫県姫路市・善導寺/兵庫県姫路市・船場本徳寺)
姫路藩士。和漢の学に通じ武芸に練達していた。勘定奉行・宗門奉行・物頭持筒頭などを歴任した。同志秋元安民と共に尊王を唱え、文久二(1862)年藩主酒井忠績に随従して上洛し、国事に奔走、藩主に尊攘の大義を説いて諫言したが、かえって忌避され、国許に帰された。文久三(1863)年の春、江坂元之助・伊舟城源一郎・市川豊次らを伴って再び上洛し、久坂玄瑞・宮部鼎蔵らと尊攘運動に尽力し、ついで姉小路公知の暗殺されるや、朝命をもって犯人の糾問に従事した。同年八月十八日の政変により七卿の西下するや、これに随従しようとしたが、三条実美に諭されて果たさなかった。次いで藩命をもって江戸に祗役し、藩主に建言して攘夷の決行を幕府に促すことを請うたが容れられず、病と称して国許へ帰った。元治元(1864)年養子伝十郎の脱藩に連座して、千種家賀川肇・処士家里新太郎惨殺事件の指導者として捕えられ入獄、自刃を命ぜられた。12月26日没。享年49歳。
河合伝十郎(兵庫県姫路市・善導寺/兵庫県姫路市・船場本徳寺)
姫路藩士。家老境野求馬の次男。槍術に達し、藩より無辺流の槍術専業生に挙げられ、萩原虎六と九州諸藩を遊歴して技を磨いた。文久二(1862)年藩主酒井忠績の洛中取締を命ぜられるや、養父総兵衛と共に上洛して禁闕を護衛し、同藩尊攘派として謀議に加わり、諸藩の間に周旋した。文久三(1863)年勤王党同志と共に姫路藩御用商人紅粉屋又左衛門を暗殺して自首し、親類預となったが、のち許され再び上洛した。ついで同年八月十八日の政変に際し、七卿落ちに随行を請うたが許されず、山と天誅組の謀議に与り、軍資金の調達に奔走した。元治元(1864)年同志の江坂栄次郎と共に脱藩、兵庫に至って勝海舟の宅に投じ、次いで大阪土佐藩邸に潜伏中、実父求馬が反論の不振を嘆じて自殺したのを知り、長州に走って力を致そうとした時、藩吏の追捕を受けて下獄し、12月26日甲子の獄で斬に処せられた。享年24歳
伊舟城源一郎(兵庫県姫路市・妙円寺/兵庫県姫路市・船場本徳寺)
姫路藩士。幼時より国学を好み武芸に長じた。文久二(1862)年の夏藩主酒井忠績に随従して京都に上り、水戸藩原市之進、長州藩佐々木男也らと交わり、藩内少壮派を率い尊攘運動に奔走した。文久三(1863)年の春河合総兵衛が上京するや、再び京都に出て共に国事に尽力した。八月十八日の政変で七卿の西下するや、河合と共に随行を願ったが抑止された。次いで藩命により河合と江戸に祗役、元治元(1864)年秋帰国したが、かつて千種有文の臣賀川肇、処士家里新太郎らを殺害したことが発覚して藩の獄に投ぜられ、12月26日斬に処せられた。享年35歳。
松下鉄馬(兵庫県姫路市・船場本徳寺)
姫路藩士。武技に長じ、文久二(1862)年藩主酒井忠績に随従して上洛し、諸国の志士と交わって国事に尽力中、藩老松平孫三郎の専横を除かんとして果さず帰国した。文久三(1863)年河合総兵衛に伴われて再び上洛し、さらに江戸に下り藩主に勤王を進言した。同年八月十八日の政変で西下の七卿に随従しようとしたが果さず元治元(1864)年藩に送り帰され、千種家家臣賀川肇・処士家里新太郎惨殺の嫌疑で投獄、次いで自刃を命ぜられた。12月26日没。享年30歳。
市川豊次(兵庫県姫路市・船場本徳寺)
姫路藩士。幼少の頃より剣術に長じ、無外流の専業生に選ばれ、諸州を遊歴して修業した。文久二(1862)年の夏同志本多意気揚と共に上京して尊攘派志士と交遊画策した。文久三(1863)年の春河合総兵衛に伴われて再び上京し八月十八日の政変で七卿の西下に河合と共に随行しようとして止められ、志を果さなかった。その後千種卿の臣賀川肇・処士家里新太郎らの殺害の旧事が露見し、元治元(1864)年の春藩の獄に投ぜられ、のち伊舟城源一郎と共に自刃を命ぜられた。12月26日没。享年24歳。
萩原虎六(兵庫県姫路市・船場本徳寺)
姫路藩士。樫原流槍術の奥義を極め、砲術・柔術にも練達していた。同藩の武井守正と兄弟の契りを結び、尊攘運動に従事。文久二(1862)年藩主酒井忠績に随従して上洛、時に国老松平孫三郎の専横を除かんとして果さず、文久三(1863)年再び河合総兵衛と上洛し諸藩の志士と交遊あり、親兵として禁闕の護衛に当る。正親町公董が勅使として長州に下向するのに随従を命ぜられ、帰京の際、八月十八日の政変に会し、七卿の西下に随従することを請うたが、諭されて大坂より帰された。元治元(1864)年夏国に帰され、佐幕派のために禁固され、千種家家臣賀川肇・処士家里新太郎殺害の嫌疑で自刃を命ぜられた。12月26日没。享年24歳。
姫路勤王党は藩を挙げて尊王攘夷運動を推進しようと、首領の姫路藩執政河合屏山が藩主酒井忠績侯へ勤王の大儀を説いたら、怒りに触れて元治元(1864)年江戸藩邸で謹慎を言い渡されてしまいました。甲子の獄の始まりです。忠績侯は元々老中首座という幕閣の中心人物で、攘夷実行は困難であると朝廷を説得していた方であり、また甲子の獄後である慶応元(1865)年2月には江戸幕府最後の大老に就任して第二次長州征伐を発令するなど、真意としては佐幕的な部分を大いに感じる方ですから、姫路藩勤王党の弾圧は元治元(1864)年6月に老中を免ぜられているとはいえ、当然といえば当然だったかもしれません。
佐幕派によって弾圧された数は70名に及んだそうです。
元治元年 姫路藩 甲子の獄