鈴木源内(奈良県五条市・極楽寺)
大和国五条代官。大和国吉野・宇智両郡の幕府直領を支配する五条代官。文久二(1862)年4月着任以来、その吏務にも見るべきものがあり長寿者を表彰するなどの善政を施すが、たまたま文久三(1863)年8月17日天誅組の五条代官所襲撃を被って元締の長谷川岱助ら配下と共に斬られた。翌18日源内ら5名の違勅の罪が称せられ天誅組本陣の須恵村桜井寺近くの路傍に晒し首にされ、後住民の手によって極楽寺に墓地を設けられた。享年不詳。
長谷川泰助(奈良県五条市・極楽寺)
大和五条代官元締手代。文久三(1863)年8月17日天誅組に殺され、首を桜井寺に晒された。
高橋勇蔵(奈良県五条市・極楽寺)
大和五条代官所手代。文久三(1863)年8月17日天誅組襲来のとき脱出。のち討伐軍に加わり9月4日大和賀名生大日川で戦死。
木村祐次郎(奈良県五条市・極楽寺)
大和五条代官所手代。文久三(1863)年8月17日天誅組に襲われ傷を負い、翌日隣村大島村で死亡した
黒崎儀助(奈良県五条市・極楽寺)
大和五条代官所用人。文久三(1863)年8月17日天誅組に殺され、首を桜井寺に晒された。
鈴木源内さんは天誅組によって殺害されたのですが、その理由は「朝廷の命に従わない幕府の官吏だから」ということでした。鈴木さん自身は決して悪代官というわけではなく、むしろ領民から慕われるとても思慮深い方だったようです。皮肉だったのは殺害された翌日に八月十八日の政変が起こり、尊皇攘夷の旗頭であった長州藩も七卿も都落ちするまでに風向きが変わったことでしょう。
黒崎さんの御墓にはもう一人の戒名が刻まれています。この方は伊東敬吾さんのものということがわかっています。しかし略歴が不明のため記載はしていません。
藤本鉄石(奈良県吉野郡東吉野村鷲家・湯の谷墓地〔上・中〕/京都・霊山墓地)
岡山藩士。天保元(1830)年15歳で叔父藤本彦右衛門の養子となり、岡山藩農事掛(用水番)の手代役を勤め、故あって天保十一(1840)年脱藩して京都に入り、軍学を学び遍く天下の志士と交わった。同十四(1843)年より諸国漫遊の途に上り、史蹟・名勝を探り各地の豪俊奇傑と交際した。安政元年伏見奉行内藤正縄に招かれてその部下を教え、伏見京町の言志塾(碧梅寒店)で学問(国典)・武道を教授す。当時すでに書画をよくし、和歌・漢詩に通じ、兵法は甲州流さらに長沼流の免許を得、思想信仰の中心をなすものは天照大神で、勤王の志深く、とくに国典に通じていた。文久三(1863)年8月、土佐の吉村寅太郎、三河の松本謙三郎らと謀り、中山忠光を奉じて義兵を大和に挙げ、天誅組と称して鉄石は総裁となり、五条代官鈴木源内を殺して勤王の士を招いた。慕府は和歌山・津・彦根の諸藩に命じてこれを討たしめ、数日の激戦の後、頼みとする十津川郷士にも離反され、血路を紀伊尾鷲の方面に開こうと西に向い、鷲家口で和歌山藩兵に囲まれて戦死した。
鷲家の湯の谷墓地が本墓だと思うのですが、実際に見て悩んでしまいました。「藤本津之助」という御墓と「藤本真金」という御墓と、2つあるのです。なぜ悩んだかというと、いったいどっちが鉄石さんの御墓なんだろう・・・ということではなく、「津之助」は通称、「真金」は諱であり、どっちも鉄石さん(ちなみに「鉄石」は雅号)の御墓だったからです。しかしよく考えたらどっちかが旧墓なんだということに気付き、あっさりこの問題は解決しました。霊山では長州墓地の一段上にある軍人墓地の更に一番奥にあるのでちょっとわかりにくいかもしれません。初めての方でお参りしようというのであれば、「高杉さんの上」と思ってください。それにしても3つとも名義が違うというのは結構珍しいかも。
吉村寅太郎(奈良県吉野郡東吉野村鷲家〔上3枚〕/京都・霊山墓地〔中〕/高知県高岡郡梼原町・六志士の墓〔下〕)
土佐郷士。弘化四(1847)年、12歳で父の職を継いで高岡郡北川村庄屋となり、安政元(1853)年須崎浦下分庄屋、六(1859)年檮原村番人大庄屋に転じ、それぞれの任地で治績を挙げた。その間高知城下に出て楠山庄助の塾で学び、また間崎哲馬に師事して修学に努め武市瑞山の門に出入りした。文久元(1861)年土佐勤王党に加盟、翌二(1862)年2月瑞山の密旨を含んで長州萩に久坂玄瑞を訪ね、伏見挙兵計画の情報を得て土佐に帰ったが、情勢の切迫に激して3月6日同志宮地宜蔵と約して脱藩、長州を経て大阪に待機し、4月23日同志と伏見に集結した。同日寺田や事件のため計画が破れて土佐に送還され、12月まで獄囚生活を送った。翌三(1863)年2月再び上京、国事に奔走を続け、8月前侍従中山忠光を擁して大和に挙兵、五条代官所を襲撃したが、8月18日の政変のために形勢逆転、諸藩連合軍の追討に苦しめられた。9月27日鷲家谷に潜伏していたのを包囲され、津藩兵の一斉射撃によって壮烈な戦死を遂げた。享年27歳。
はっきりいって、吉村さん御墓多すぎです…。鷲家だけでも吉村さん戦死の地、すなわち「天誅組終焉の地」に1つ。明治谷墓地には旧墓と共に2つの御墓と3つもあるのですから。それだけ遺徳が偲ばれるということでしょうか。ところで吉村さんの辞世の句といえば有名な「吉野山 風に乱るるもみじ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ」ですが、文久三年9月27日は新暦にすると1863年11月8日となり、もみじの紅葉も鮮やかなものだったのではと思ってました。しかし、7月28日に明治谷墓地に実際に行ってみると一部すでに紅葉していました。これも山間ゆえのことでしょうか。そこですでに散っていた紅葉を3枚ばかり拾って吉村さんの御墓に添えました。それにしてもどれが一体本墓なのか…。ちなみに3枚目のお墓が旧墓です。霊山墓地では他の土佐のお仲間と離れていますが、古地図をみると元々土佐藩招魂社は墓地の最南端だったようです。移転されたときに引き離され、今や休憩所の隅に置かれているのに無常感を覚えました。檮原の御墓は「六志士の墓」として維新の道・脱藩の道の名所となっています。もし檮原に行かれるならば、ぜひ梼原町役場へお立ち寄り下さることをお勧めいたします。ここで封筒入りの豪華観光案内(無料!感激!!)をもらえば梼原の名所は一目瞭然です(もっとも地図はかなり大雑把なので、正確な場所は地元の方に伺ったほうがよいでしょう。私のためにいろいろ聞いて下さったスーパーのお姉さま方〔多分に敬意を表して!〕お世話になりました、この場にて改めて御礼申し上げます)。
松本奎堂(奈良県吉野郡東吉野村鷲家・湯の谷墓地〔上〕/京都・霊山墓地〔下〕)
刈谷藩士。父が刈谷藩用人兼漢学甲州流軍学師範という環境から、11歳で尾張藩儒臣奥田桐園に入門。若くして父を助げて門弟を教授し、18歳のとき槍術稽古で左眼を失明。尾張国愛知郡沓掛中島村庄屋で昌平黌に学んだ伊藤両村の勧めで嘉永五(1852)年昌平黌に学び、翌年江戸藩邸に帰って教授兼侍読となったが、議論激直のため忌まれて一年禁固。安政二(1855)年再び昌平黌に学び、六(1859)年名古屋域下石町で開塾。文久元(1861)年大坂で昌平黌の同学松林廉之助・岡千仞と双松岡学舎を開塾し、翌年京都に移り藤本鉄石・吉村寅太郎ら尊攘激派の志士と交わる。島津久光の率兵東上を利用して倒幕を計ったが急変し淡路へ逃れた。同三(1863)年8月天皇大和行幸の詔が出たのを機に藤本・吉村らと天誅組を組織して総裁となり、侍従中山忠光を奉じて出京。大和五条の幕府代官所を襲撃し、租税を半減して人心を収めたが、政変によって形勢急変し、十津川郷に南下し郷土の参加をみた。しかし諸藩兵の攻撃をうけ、吉野郡鷲家口で自刃した。享年33歳。
霊山では天誅組墓地の一番端に位置しています。まだ勉強不足故に語れるほど知らないのが正直なところです。まだまだ私自身やることが多いなぁ…と反省しきりです。というわけできっちり調べつつもおそらく本墓であろう吉野の御墓に御参り致しました。調査によると故郷の愛知県にも御墓があるらしく、行かなきゃ…と思う気持ちがあります。「明治維新人名辞典」には略歴中の伊藤両村さんが「沓掛新田村庄屋」となっていましたが、柘植様より「沓掛中島村」だとのご指摘を受けまして修正いたしました。柘植様には改めて御礼申し上げます。
那須信吾(奈良県鷲家・明治谷墓地〔上3枚〕/京都・霊山〔4〕/高知県檮原・那須父子の墓〔5〕・六志士の墓〔6〕)
土佐郷士。幼少のときに父を失い、兄の金治に養われた。憤慨の質で、膂力衆にこえ、健脚馬に過ぐと噂され、剣・槍・法の武術に優れていた。はじめ医学を志し、剃髪して信甫といったが、安政二(1854)年檮原村の那須俊平の養子となり、信吾と改めた。高知に出て槍を岩崎甚左衛門、剣を日根野弁次に学び、皆伝を受けた。坂本龍馬と交わり、武市瑞山に従って、土佐勤王党に加盟し、文久二(1862)年4月8日同志の安岡嘉助・大石団蔵と共に吉田東洋を暗殺して長州に脱出した。のち上京して長州藩邸・薩摩藩邸に隠れ、京阪の間にあって国事に奔走した。同三(1863)年8月天誅組の挙兵にあたり、薩摩藩邸を脱してこの挙に加わって軍監となり、高取藩に使して武器・兵糧の寄贈を得ることに成功し、各所で勇戦した。同年9月24日鷲家口の戦いで彦根藩の隊将大館孫右衛門を刺殺したが、敵兵に狙撃されて戦死した。享年35歳。
吉村さんに負けず劣らず、御墓の多い方です。もう彼らに対抗できる方はいないでしょう。奈良の鷲家にある御墓はその後ろに「那須真吾」銘の旧墓が2つ置かれています。普通なら古い分は残さないものでしょうが、それがちゃんと保存されているというのは嬉しい限りです。高知市にも見習ってほしい処置でした。京都霊山の御墓は天誅組の墓所にあるのですが、龍馬さん目当ての普通の観光客方は素通りしているようです。東洋さんを暗殺して土佐勤王党の黄金期を築いた功績を考えるともっと高い評価を得てもよいと思うのですが・・・。高知の檮原にある御墓は例の六志士の墓に置かれているのですが、そこの案内掲示板に那須父子の墓が別にあることが示されていました。実はこのあと一気に田野町の二十三烈士のある福田寺へ行くつもりでしたので、帰りのバスの時間(11:50発)を気にしつつもここで諦めてはこの企画を続ける資格は無いと思い行ってみました。舗装された山道を上へ歩くこと15分くらいだったでしょうか、那須一族の御墓にたどり着きました。お参りと撮影を終え帰路につくのですが、バスの通る道路が草木に覆われた山の急な斜面の下15mくらいの所にあるのです。このままこの急斜面を降下すれば運賃と時間が稼げると思い、早速降下を始めたのですが、樹木がことのほか多く、しかも柔らかい腐葉土に草履履きでは足を取られるような状況に陥ったため、やむなく降下を断念しました。しかし登ろうとしたらしたで、掴んだ木がすっぽ抜けて転落したり、棘のある木を力いっぱい握ったりで、山道に這い上がったときはすっかり生傷だらけになってしまいました。結局バスには乗れず(もっともそれは覚悟してましが)、次のバスの出発(14:20発)まで檮原を散策することになりました(おかげで歴史民族資料館と三嶋神社に行くことができ、また檮原川で汚れを落とすことができました)。
岡見鉄蔵(京都市東山区・霊山墓地)
大和高取藩士。文久三(1863)年夏天誅組に加わり、8月18日大和で戦死。享年不詳。
忠右衛門(京都市東山区・霊山墓地)
大和五条の農。天誅組に加わり文久三(1863)年8月18日大和で戦死。享年不詳。
元次郎(京都市東山区・霊山墓地)
大和の人。天誅組に加わり文久三(1863)年8月18日大和で戦死。享年不詳。
和田佐市(京都市東山区・霊山墓地)
河内南河内郡川西村甲田の農。文久三(1863)年8月天誅組に加わり、大和高取城、十津川に戦う。同月湯川村で戦死。享年不詳。
竹志田熊雄(京都市東山区・霊山墓地)
肥後玉名郡大浜の神職。初め松村大成に学び、のち林桜園につき国学を修め尊攘思想を抱く。文久二(1862)年薩摩藩義を京都に唱うと聞くや脱藩して京に赴いたが病のため伏見の薩摩屋敷で横臥していたとき、寺田屋騒動があった。一旦帰国したが公子細川護美の上京に追尾して入洛。文久三(1863)年6月再び帰国、真鍋寿七郎と変名し岡藩に遊説した。同志と共に中山忠光を奉じ大和五条に挙兵、敗れて吉野十津川に入ったが、9月2日病のため死亡した。享年21歳。

宍戸弥七郎(京都市東山区・霊山墓地)
刈谷藩士。駿河で子弟に兵学を教授。京都へ出て志士と交わる。文久三(1863)年8月天誅組に参加、9月14日大和鷲家口で戦死。享年31歳。
野崎主計(京都市東山区・霊山墓地)
十津川郷士。稟性慧敏稟、好学弁才あり。嘉永六(1853)年米艦渡来以後国家を憂慮し、郷友深瀬繁理らの同志と共に上京、梅田雲濱の教えを受け、あるいは諸国の志士と交わる。安政元(1854)年露艦の大坂来航の際、雲濱を謀主に仰いで膺懲の挙に出ようとしたが、その退去によって中止した。文久三(1863)年天誅組の五条代官所を襲撃するや直ちに応じ、十津川郷士の一隊長となり各所に転戦したが、朝議急変により事敗れるに及び、主計一郷に禍の罹ることを痛念し、水から咎を引き謝罪書及び時世を遺して川津の山中で自殺した。享年40歳。
林兵次郎(京都市東山区・霊山墓地)
十津川郷士。文久三(1863)年8月天誅組に参加、9月24日大和天ノ辻で戦死。
鍋島米之助(京都市東山区・霊山墓地)
土佐藩士。文久三(1863)年京都藩邸勤務。8月天誅組に加わり、転戦の末9月25日大和鷲家口に敗れ、彦根藩兵に包囲され闘死。享年24歳。
深瀬繁理(京都市東山区・霊山墓地)
十津川郷士。資性剛毅、学を好み大義を重んじた。24歳のとき諸国を遊歴し、安政五(1858)年野崎主計らと上京し、梅田雲濱に学び、萩藩士と交わる。文久三(1863)年春、十津川郷由緒復古の事を中川宮に願い出て許され、朝廷に忠勤す。同年8月天誅組の五条代官所を襲うや、急ぎこれに参じ、転戦に努めたが、事敗れ、北山村に出て、中山忠光に閲し、時期を待たんとしたが、村人の怨みをうけて津藩兵に捕われ、白川河原に斬られた。享年37歳。
関為之進(京都市東山区・霊山墓地)
大和の人。元江戸力士。文久三(1863)年8月天誅組に参加、大和で転戦。9月26日三輪の慈恩寺で大和芝村藩兵と戦い死す。享年不詳。
秦将蔵(京都市東山区・霊山墓地)
向野村の代官である北辻家に生まれたが、のち和泉国大島郡の陣屋詰代官たる小島家を継いだ。幼少より武芸に優れ、尊攘運動に心酔して供林光平・藤本鉄石らとの交わりもあった。やがて義家に累を及ぼすことを避けて家を去り、素性を名乗って尊攘運動に托身した。文久三(1863)年、天誅組の挙兵に加わり、五条・天ノ川辻などで奮戦したが、9月29日長谷寺付近で討死した。享年36歳。
尾仲要蔵(京都市東山区・霊山墓地)
大和の人。文久三(1863)年8月天誅組に加わり転戦、9月22日大和で戦死。享年不詳。
朝七(京都市東山区・霊山墓地)
摂津池田、南萩屋の倅。文久三(1863)年8月天誅組に加わり大和で戦死。享年不詳。
前田繁馬(京都・霊山墓地〔上〕/高知県高岡郡梼原町・六志士の墓〔下〕)
土佐国松原村庄屋。幼少時より書を好み、また長沼流の兵法と浅山流の拳法に達した。安政六(1859)年過失のために職を奪われたが、文久三(1863)年一族の前田要蔵に従って上京し、禁裏守護の任に就き、諸藩の尊攘の志士と交わった。同年8月天誅組の挙兵に加わり、吉村寅太郎のもとで小荷駄方の長となり、9月7日下市の彦根藩の陣を襲って戦果を挙げたが、苦戦40余日ののち、鷲家口の戦いに敗れ、9月24日津藩士町井八郎の郡に囲まれ戦死した。享年26歳。
森下幾馬(奈良県吉野郡東吉野村鷲家・湯の谷墓地)
土佐郷士。土佐郡秦泉寺に居住し、安政六(1859)年足軽雇となり、高岡郡与津詰となったが、のち足軽格に進んだ。土佐勤王党に加盟し、文久二(1862)年五十人組の一人として江戸に上がり、山内容堂の護衛に当たった。帰国後徒士職を勤め、三(1863)年藩主豊範に従って上京したが、8月天誅組の挙兵で兄儀之助と共に参加し、五条代官所や彦根藩兵を襲撃したが、9月26日、吉村寅太郎の命を受け、中山忠光ら本隊のその後の様子を確認するため木津川より山越えして鷲家口に下ってきたが紀州街道の赤谷口に着いた時兄儀之助と別れ、首つり峠を越して鷲家赤谷を下る途中、折から山狩り中の津藩の西荘源左衛門の隊に遭遇、その銃弾で戦死した。享年30歳。
林豹吉郎(奈良県吉野郡東吉野村鷲家・明治谷墓地)
大和国宇陀郡工人。資性沈毅、頗る絵を好む。画人中島青渕について遊歴、たまたま外人の来航を聞き大いに感ずるところあり、父の鋳物師の業を継ぎ製砲を志した。まず大阪の緒方洪庵の炊夫となり苦学、長崎に学び、さらに韮山の江川坦庵の学僕となり、転じて諸国を巡って旧式砲の改鋳を説いた。文久三(1863)年天誅組の変には参じて兵糧方となり、一方職工を集めて大砲鋳造に尽力したが、事敗れて吉野郡鷲家口村に彦根藩兵と戦って死んだ。享年44歳。
福浦元吉(奈良県吉野郡東吉野村鷲家・湯の谷墓地〔上〕/京都・霊山墓地〔下〕)
淡路国福良浦商人。早くより同国の先輩古東領左衛門に薫陶を蒙り、また剣客梶尾四方之助に付いて刻苦修練した。領左衛門が出でて京摂に奔走するや常に随伴してこれを助け同志の間に寵用された。文久三(1863)年天誅組義挙の際、元吉も参加して専ら藤本鉄石に近侍してその行動を援け、各地に奮戦して武勇を馳せたが、鷲家口に至って和歌山藩の大兵に包囲され双刀を振るって鉄石を援け、力戦数人を斬ったが群槍の中に斃れた。享年35歳。
楠目清馬(京都・霊山墓地〕)
土佐郷士。はじめ家の許可を得て京都に留学したが、慷慨の士で、文久のころ脱藩して天下の志士と交わり、国事に周旋した。文久三(1863)年8月天誅組の挙兵に当り、これに参加し、9月7日下市の彦根藩兵を夜襲して勝利を収めたが、24日鷲家口の戦いに敗れ、28日多武峯村に至り、農民の姿に変装して山路に入ったが、津藩兵の追跡を受け殺された。享年22歳。
まだまだ未収録の方の多い天誅組です。略歴を確認でき次第お入れすることにしようと思いますが、今更ながら手元にあるのがマクロな資料ばかりだと一人嘆く今日この頃です(専門書高いから・・・)。


でも結局買っちゃった(T▽T)…
 
文久三年 天誅組の義挙
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