兵庫県朝来市
山口護国神社
井関英太郎(山口県下関市・桜山招魂場)
長州藩士。奇兵隊士。井関仁三郎の養子となり、文久三(1863)年5月の下関攘夷戦に参加し、6月幕府老中格小笠原長行を大坂に要撃しようとして果たさず、下関に帰り奇兵隊に入隊した。8月七卿を三田尻に守衛し、10月沢宣嘉を擁して河上弥市らと但馬に走り、生野で義兵を挙げたが、やがて追兵に破られ、密かに沢を避難させて同志と共に14日山口村妙見山で切腹した。享年18歳。
伊藤百合五郎(山口県下関市・桜山招魂場)
長州藩士。文久二(1862)年10月江戸へ行き、藩世子に扈従し、文久三(1863)年1月帰国した。ついで中山忠光の長門潜在に宮城彦助らと近侍し、奇兵隊に入隊し、同年8月三田尻で七卿を守衛した。10月河上弥市らと沢宣嘉を擁して但馬に行き、生野で義兵を挙げたが、こと破れて14日山口村妙見堂に同志の姓名を記し、その山麓で切腹した。享年19歳。かつて高杉晋作の信愛を受け、、晋作その死を聞くや、痛嘆してやまなかったという。
小河吉三郎(茨城県水戸市・常磐共有墓地)
水戸藩士。万延元(1860)年8月江戸藩邸へ投じ禁固刑文久三(1863)年2月長州へ入り、生野一挙に加わって10月14日但馬山口村で戦死。享年27歳。
小田村信之進(山口県下関市・桜山招魂場)
長州藩中船頭。奇兵隊士。17歳の時、三田尻の小田村真吾の養子となり、ついで藩校明倫館に入学した。文久三(1863)年外艦砲撃に志願して兵列に加わって勇戦し、奇兵隊に入隊した。同年8月七卿を三田尻に守衛し10月沢宣嘉を擁して河上弥市らと但馬に走り、生野で義兵を挙げたが、こと敗れて宣嘉を批難させ、14日同志と山口村妙見道の麓で喉を突いて死んだ。享年26歳。
 
河上弥市(山口県萩市・長寿寺〔上〕/山口県下関市・桜山招魂場〔下〕)
長州藩士。高杉晋作と最も親しく、文久三(1863)年6月高杉の奇兵隊編成に参加し、下関の外艦砲撃に小倉藩の態度を怒り、門司田ノ浦を占領して堡塁を築き守備した。同年8月上京したが、政変のため帰国した。同年9月奇兵隊は吉敷郡秋穂村に転陣し、高杉が政務役となったため代って滝弥太郎と共に総管を勤めた。同年10月に先の天誅組義挙に内応するため、西下七卿の一人沢宣嘉を擁して東上し、変名して但馬の生野に拠り義兵を挙げ、別隊を率いて朝来郡山口村西念寺に陣し、ついで妙見山に篭ったが、生野本陣は敗れ、土兵も幕府側の軍を援けたため、事の成らないことを知り、10月14日沢卿に別れを告げ。各々姓名を妙見堂の壁に書き、山麓の山伏岩で切腹した。享年21歳。
奇兵隊第二代総督です。でもとっとと脱走して生野の変を起こしてしまいます。高杉さんは親交の深かった河上さんの死と同時期に戦死した吉村寅太郎をことのほか悼んでいます。そんな河上さんですが長寿寺の御墓はどういうわけか墓地の外に石碑と共にぽつんと立ってました。墓地には入江さんの御墓もあるのに、何で外?って疑問が。石碑の撰文は二従兄弟の山田顕義(市之丞)ですが、この石碑が立った3年後の明治二十五(1892)年に生野銀山を視察した山田さんは同地で不審な急死を遂げました…。 
草我部某
文久三(1863)年10月14日農民の襲撃を氷田左衛門と共に撃退したのち、2人で刺し違えた。享年不明。
 靖国の祭神にもなってる草我部さん。なぜか殉難者名鑑に出てきませんし、その名前も出自も不明…た山田さんは同地で不審な急死を遂げました…。 。謎の多い方です。
久富豊(山口県下関市・桜山招魂場)
長州藩士。奇兵隊士。万延(1860)元年17歳の時、藩主毛利敬親に随従して江戸邸に寓した。文久三(1863)年下関外戦砲撃の決行を聞き、6月江戸を辞し、行程6日で伏見に着き、海路を経て帰国した。敬親はその誠忠を褒じ賞金を賜った。ついで下関に行き奇兵隊に入隊した。同年10月河上弥市らと沢宣嘉を擁して但馬に行き、生野で義兵を挙げたが、利あらず、同志と共に14日山口村妙見山麓で切腹した。享年20歳。
下瀬熊之進(山口県下関市・桜山招魂場)
長州藩士。奇兵隊士。初め藩校明倫館に入り、長野熊之丞・寺島忠三郎らと深く交わり、また博習堂で洋学を学んだ。文久三(1863)年奇兵隊に入隊して下関攘夷戦に戦い、8月七卿を三田尻に守衛し、10月沢宣嘉を擁して河上弥市らと但馬に奔り、生野で義兵を挙げたが、敗れて密かに沢卿を避難させた後、山口村妙見山で同志と共に14日切腹した。享年21歳。
白石廉作(山口県下関市・桜山神社)
長州藩商人。奇兵隊士。天保十二(1841)年14歳のとき豊前に行き恒遠頼母の門に入り、安政元(1854)年秋に京都へ遊学、安政二(1855)年一旦帰国の後安芸に行き、吉村十介に師事し、業成って帰り家事に励んだが、安政三(1856)年正月商事のため薩摩に赴いた。以後幾度も下関・鹿児島間を往復、文久元(1861)年には薩摩藩主に時勢の策を論述して感賞を受け、用達を命ぜられ、また東上の時の本陣に指定され、文久二(1862)年の藩主の父島津久光に家産を挙げて援助した。文久三(1863)年4月中山忠光の下関滞在の寓所として保護に尽力し、5月攘夷決行に家衆を督して砲撃戦に参加し、6月高杉晋作が来寓して奇兵隊を編成した時は、進んで兄の正一郎と共に入隊し、家産を傾けて援助した。7月攘夷監察の勅使正親町公董の下関巡視の宿舎にあてられた時、兄と共に藩主から賞されて士籍に加えられた。9月に奇兵隊は吉敷郡秋穂、さらに佐波郡三田尻へと転陣し、10月対に河上弥市らと七卿の一人沢宣嘉を擁して但馬に行き、生野で義兵を挙げたが、こと敗れて14日同志と山口村妙見山で自殺した。享年36歳。
中條右京(兵庫県朝来市・戦没地墓碑)
姉小路家用人格。幼時より棒術を習い、国史・和歌をたしなんだ。文久元(1861)年一書を家に遺して上京、初め押小路家に仕え、ついで姉小路公知に仕えて中條右京と改名、尊王攘夷を唱え国事に奔走した。文久三(1863)年5月20日姉小路卿刺客の襲撃を受けたが、右京は防戦の功により用人格となり、二人扶持を給せられ、また朝廷より白銀五枚を下賜された。同年8月沢宣嘉に従って長州に下り、ついで10月生野義挙に参加したが敗れ、長州に逃れる途中、播磨国猪篠村で土民の銃丸にあたり自決した。享年21歳。
長曽我部太七郎
徳島藩士。生野一挙に参加。文久三(1863)年10月14日但馬山口村妙見堂で自決。享年不明。
戸原卯橘(京都市東山区・霊山墓地)
秋月藩士。20歳のとき熊本の儒者木下業広の門に入り、また江戸に出て塩谷世弘に学んだ。同藩士海賀宮門と交際して尊王論を唱え、文久二(1862)年島津久光の上京するや、これを海賀と福岡の平野国臣に報じ、東声声息を通じようとしたが、これがため嫌疑を受けて国許で幽閉された。文久三(1863)年6月許され、8月脱藩して長州に赴いて七卿に謁した。たまたま中山忠光の大和義挙あるや、これに応ずるため、10月平野とともに七卿沢宣嘉を擁して但馬に赴き、生野代官所を襲撃して兵を挙げたが、幕府の反撃に破れ、10月14日岩須賀山妙見道で自刃した。享年29歳。
中島太郎兵衛兵庫県(宍粟市・美国神社)
但馬養父郡大蔵村大庄屋。家は代々大庄屋を務め、嘉永末年家督を継ぐ。伊勢の足代弘訓に国学を学び、文久三(1863)年正月事に託して妻を離縁し、国事に身を挺した。同年8月大和十津川に天誅組が挙兵するや、これを援助しようとしたが果さず、平野国臣・美玉三平らを自宅にかくまった。ついで10月生野義挙に参画したが敗れ、再挙を期して逃れる途次、播磨国宍粟郡木之谷で土民に襲撃されたため、弟黒田与一郎の介錯で自刃した。享年39歳。
長野熊之丞(山口県下関市・桜山神社)
藩校明倫館に入り、寺島忠三郎・下瀬熊之進らと深く交わった。文久二(1862)年冬同志と京都に上り、文久三(1863)年4月帰国し、6月奇兵隊に入隊して下関攘夷戦に参加した。8月七卿を三田尻に守衛し、10月河上弥市らと沢宣嘉を擁して但馬に奔り、生野で義兵を挙げたが、追討諸軍との戦いに敗れ、同志と共に14日山口村妙見山麓で切腹した。享年22歳。
西村清太郎
長州藩士。奇兵隊士。文久二(1862)年江戸に行き、ついで京都に上り、文久三(1863)年藩世子に従って帰国した。ついで奇兵隊に入隊し、下関攘夷戦に参加した。8月三田尻に赴いて七卿を守衛し、10月河上弥市らと沢宣嘉を擁して但馬の生野で義兵を挙げたが、敗れて同志と共に14日山口村妙見山麓で切腹した。享年18歳。
 西村さんは生野義士の一人として下関の桜山神社に墓碑があるといくつかの史料に示されており、またそれが当然だと思っていました。しかし…ないんです…。桜山神社発行の墓碑一覧にも載ってませんし…。現在追跡調査中です。 
氷田左衛門
阿波の人。肥田とも。文久三(1863)年10月14年生野残党を襲撃しようとした村田元三郎を斬ったのち、草加部某とともに山口村妙見山で自刃。享年不明。
美玉三平(兵庫県宍粟市・美国神社/鹿児島県鹿児島市・南洲寺)
薩摩藩士。兵学に達し、安政末年から京坂に出て、国事に奔走した。文久二(1862)年春寺田屋事件に連座して藩邸に囚われたが逃れて長州に行き、河上弥市らと交わり、尊攘の義兵を挙げようとして東西に奔走した。周防国三田尻で平野国臣に会い、文久三(1863)年10月平野と謀って七卿の一人沢宣嘉を首領に仰いで但馬生野に義兵を挙げた。敗れて中島太郎兵衛らと播磨木之谷に逃れ、10月14日同地で農兵に囲まれ、脱出することを得ず銃弾に当って没した。享年42歳。
和田小伝次(山口県下関市・桜山神社)
長州藩士。奇兵隊士。安政六(1859)年5月吉田松陰が江戸に護送された時、藩中から選ばれてその任に当たり、心を尽くして遇した。文久三(1863)年6月山徳権之允らに従って下関に行き、奇兵隊に入隊した。同年10月河上弥市らと沢宣嘉を擁して但馬の生野で義兵を挙げたが、たまたま近郷募民の反対にあって敗れ、14日山口村妙見山麓で同志と共に切腹した。享年29歳。
徳蔵(京都市東山区・霊山墓地)
長州藩士河上弥市の僕。文久三(1863)年10月14日但馬朝来郡山口村で戦死。負傷して慶応二(1866)年3月死とも。享年不詳。
  
文久三年 生野の変