大鳥居理兵衛(福岡県久留米市・山川招魂社)
久留米藩士。真木和泉の弟で大鳥居八兵衛の養子。天保五(1834)年2月大鳥居家の家督を継いだ。嘉永五(1852)年実兄の真木和泉が罪を久留米藩に得、理兵衛の家に幽閉を命ぜられてから、理兵衛の家に西国諸藩の志士が密かに来訪して時事を談ずることが多く、融資の密議所となった。文久二(1862)年2月に薩摩の島津久光の上京を聞き、二男菅吉と甥の宮崎槌太郎を従えて脱藩し、上国の義挙に加わろうとして下関に至ったが、ここで久留米藩士に追いつかれ、説得されて藩地へ引き返すことになった。理兵衛は逃れ難きを知って、帰途、2月20日筑前黒崎で自刃した。享年46歳。
もへい様寄贈
塙次郎(東京都新宿区・愛染院)
国学者・幕臣。父総検校の箕裘を継いで和学講談所の御用を勤め、国学に精しくまた和歌を能くした。老中安藤信正の邸にしばしば召されて、寛永以前幕府の外人待遇式例などを取り調べたことのあったのを、時人誤解して、前田夏蔭と共に信正の命によって廃帝の典故を按ずるのであると称した。ために長州藩志士の憎悪を受け、文久二(1862)年2月21日中防広伴の歌会に行きての帰途、九段坂付近で加藤一周と共に暗殺された。下手人は伊藤俊輔(博文)と山尾庸三の両人という。享年56歳。
広木松之介(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩属吏。桜田十八士。評定所の吏員となり、常に大関和七郎と交わった。万延(1860)元年3月3日大老井伊直弼襲撃後身を脱して加賀に潜居し、のち鎌倉の上行寺に寓した。一挙の三周忌の日、自ら刃に伏して死んだ。享年25歳。
二宮敬作(長崎県長崎市・皓台寺)
宇和島藩医。文政二(1819)年蘭学を志し長崎へ遊学した。文政六(1823)年シーボルトの鳴滝塾に入門、師に信愛され、師が国外に追放された際、その妻子の世話を委託されるほどであった。シーボルト事件に連座して一時投獄されたが、天保元(1829)年帰郷後、卯之町で開業、診療の傍ら洋学者として令名が高くなったため、天保四(1833)年伊達宗紀に登用され、蘭書の翻訳や軍艦建造に関係し、宇和島藩の強兵策に貢献することが多大であった。嘉永元(1848)年高野長英が宇和島に潜行したとき、長崎遊学中、同門の故をもって敬作の家に寓した。文久二(1862)年3月12日没。享年59歳
月形深蔵(福岡市・少林寺)
17歳のとき父に従い江戸へ出て古賀精里に学び、文政二(1819)年藩地へ帰り学校加勢小役となり、累進して赤間駅町奉行に転じた。嘉永三(1850)年致仕し、子洗蔵に跡を譲って家居した。早くより勤王憂国の志あり、外人の幕府に迫って通商貿易の許可を求めるや、「辺防之策」を草して海防の重要なることを説き、また尊王を唱えて藩風の振起を期し、洗蔵と共に密かに同志をかたらい、藩論の転換を試みたが果さず、文久元(1861)年父子とも藩政を紊すとの罪名をもって秩禄を奪われて家に禁固され、孫の恒にわずかた扶持が与えられた。蟄居中4月5日病死した。享年65歳。
墓地にあるかと思いきや、まさか山門の脇にいきなり親子三代で御登場されるとは想像だにしませんでした。ただまるで石碑のような感じに何か吹っ切れないものを感じました。改装のための仮置きでしょうか?
松浦亀太郎(京都市東山区・霊山墓地)
萩藩士根来主馬家来。幼少のころ羽様西崖に画法を学び、のち小田海僊に師事した。安政三(1856)年吉田松陰の松下村塾に入り、安政五(1858)年上京後江戸に行き、芳野金陵の塾に入り、翌年帰国、5月松陰自賛の肖像画を描いた。文久二(1862)年久坂玄瑞らの同志と上京、藩老長井雅楽の開港論に反対して暗殺しようとしたが、人の諫止に服し果たさなかった。しかし一事寸功の見るべきものなく、いたずらに時の推移するを思い、何の面目か故郷の人に逢わんと、粟田宮(青蓮院宮尊融法親王)の正義を慕って4月13日粟田山中で切腹した。享年26歳。
関鉄之助(東京都荒川区・回向院〔上〕/茨城県水戸市・常盤共有墓地〔中〕)
水戸藩士。安政二(1855)年家督を継ぎ、郡宰金子孫二郎配下の与力となった。安政五(1858)年5月蝦夷開拓の用を命ぜられ、新潟にあって乗船準備中の9月8日江戸藩邸の鮎沢伊太夫より7月5日の変の飛書に接して急遽帰国した。同年10月金子・高橋多一郎の内意を受け、奉勅挙義の同盟を求めて西遊、矢野長道と長州・因州を遊説し、安政六(1859)年2月帰藩した。同年8月大獄起るに及んで、薩摩藩の高崎五六らと会合して挙兵除奸の義を計り、かつ趣旨を上奏するため五六と上京したが、京都の事情一変して空しく帰藩した。同年11月勅書伝達の事により閉居を命ぜられたが、万延元(1860)年2月18日にひそかに藩を脱し、3月3日桜田門外に大老井伊直弼を要撃した。事後薩摩藩同士との約により野村彝之介らと共に上国に向かい、同月26日大阪に着いたが、薩摩側の出兵なく、追跡急なるため単身西下し、薩摩に入ろうとして拒絶され、潜行を重ねて江戸に戻り、さらに越後へ去って雲母温泉に滞在中、捕吏に探知され、文久二(1862)年5月11日伝馬町の獄において死罪に処せられた。享年39歳。
滝本いの(東京都荒川区・回向院〔下〕)
元吉原谷本楼の妓滝本。万延元(1860)年3月桜田門事件のあと鉄之介を追う幕吏に捕えられ、伝馬町牢で拷問のため死す。享年23歳。
伊藤軍兵衛(東京都荒川区・回向院)
松本藩士。文久年中初めて徒士に召出され、間もなく精勤の廉をもって禄を加えられた。天性剛毅で文武の道に志厚く、ことに剣槍の術に達した。文久元(1861)年水戸浪士が英国仮公使館に充てられていた江戸高輪の東禅寺を襲撃して以来、松本藩は幕命により幕士および大垣・岸和田ニ藩と共に警備していたが、軍兵衛は予てから外人の横暴な態度に憤慨し、また松本藩が外人警固に多大の出費を余儀なくされているのに悲憤の念を禁じ得ず、加うるに当時再び水戸浪士の襲撃の風聞があり、外人のために同胞相殺の悲劇を見ることを憂慮し、むしろ一身を犠牲にして外人を殺害し、もって自藩の東禅寺警衛の任務を解こうと決心した。かくて先の東禅寺事件後、満一ヶ年を経過した文久二(1862)年5月29日の夜、仮公使館に忍び入り、英人2人を殺し、呉服橋の藩邸に帰り、その始末を同僚に語って6月1日自刃した。享年23歳。
井村簡二(福岡県久留米市・山川招魂社)
久留米藩郷士。早くより尊王の志を抱き、久留米藩士大鳥居理兵衛に学び、幽居中の真木和泉と親交を結び、王政復古の計画を議した。文久二(1862)年2月同志の原道太と共に脱藩して京に赴き、ついで和泉の入京に会し、密かに義挙の謀議に加わった。たまたま寺田屋騒動の際会して捕吏に捕えられ、大坂の藩邸へ幽閉され、麻疹に罹って6月18日没した。享年23歳。
楢崎将作(京都市左京区・西林寺)
京都柳馬場三条下ル東側の町医。元青蓮院侍医。頼三樹三郎らと親交。安政の大獄に連座し、文久二(1862)年6月20日六角牢で獄死。享年50歳。長女お竜は坂本龍馬妻。
お龍さんのお父君ですが、現在御墓は無縁墓として三界塔に埋もれています。何とか「楢」の文字の一部が見えている程度です。
しかしこの西林寺、ただでさえ普通の観光ルートからは大きく外れた比叡山の麓辺りにある上、坂がきつい…。相当の想いが無いと行ける所ではないでしょうねぇ。
島田左近(京都市東山区・西大谷墓地)
九条家家士。出自および生い立ちは詳らかではないが、あるいは石見の農家に生まれ、京都商賈の手代となり、公家の青侍奉公より次第に九条家に取り入ったともいい、あるいは美濃の山伏の子とも神官の子とも伝え、初め烏丸家に仕え、のちに九条家の老女沙田の娘の婿になり、同家に勢力を得たともいう。ともかく文久二(1862)年正月には九条家の侍として従六位下左兵衛権大尉に叙任されている、これより先、安政五(1858)年彦根藩主井伊直弼の謀臣長野主膳と通謀して幕府の条約勅許奏請に反対する関白九条尚忠に入説し、尚忠をしてにわかに幕府に左袒させることに成功した。以後親幕府の立場を取る尚忠の腹心となり、主膳と策応して紀州慶福を将軍継嗣に擁立することに奔走し、あるいは安政の大獄に際して朝臣志士らの行動を逐一探索摘発して幕府に報知し、あるいは皇妹和宮の関東降嫁の議が起きた際には幕府のために大いに斡旋につとめた。このため尊攘派志士の憎むところとなって、文久二(1862)年7月20日京都木屋町の別寓において薩摩藩士田中新兵衛らのために暗殺され、23日四条河原に梟首せられ、幕末京都におけるいわゆる天誅の発端となった。享年34(35、38とも)歳。
いわゆる京都の文久テロの犠牲者第一号です。このあと京都は何十人という人々の血の雨が降ることとなり、治安維持のため文久二(1862)年には京都守護職が置かれる原因となりました。
船越清蔵(京都市東山区・霊山墓地)
清末藩士。初め藩校育英館に学び、文政五(1822)年豊後の帆足万里の門に入り、数年して広瀬淡窓に従学した。ついで長崎に行き蘭学と医術を修業、その後諸州を遊歴して蝦夷地を視察し、京都に開塾して尊攘を唱えた。万延元(1860)年桜田門外の変後帰国し、長府藩の儒臣となり、また周防右田に塾を開き、ついで萩明倫館の教官になった。文久二(1862)年長州藩主毛利敬親に講義の時、大江広元の鎌倉幕府を輔けて朝廷衰微の因となる論に及んだため、俗儒曲学の者これを不敬となし、密かに毒をもり、帰途美禰郡絵堂で発病して8月8日死去した。享年58歳。
枝吉神陽(佐賀県佐賀市・高伝寺)
佐賀藩士・国学者。はじめ父の教えを受け、のとに江戸に出て昌平黌に学び、舎長となり、帰藩してからは藩校弘道館の国学教諭となる。経学に通じ、国学の造詣深く、雅麗な文を作った。容貌魁偉、健脚で知られ、また父の「日本一君論」を唱えて嘉永三(1850)年義祭同盟を作り、その門下に弟副島種臣・江藤新兵・大木喬任・大隈重信らの尊王論者を育成した。安政五(1858)年幕権の抑制と朝権の回復を策し、弟種臣を京都に遣わして大原重徳に入説させたが、発覚して行われなかった。文久二(1862)年8月15日没。享年41歳。
佐賀藩尊攘派の育ての親とでも言うのでしょうか。副島種臣の実兄ということもあって副島さんの墓所の一角を形成している格好になっていますが、長命であったならばきっと佐賀「八賢人」の筆頭として活躍されたかもしれません。
長野主膳(滋賀県彦根市・天寧寺〔上〕/滋賀県彦根市・清涼寺〔下〕)
自らは伊勢が出自と語るのみで謎が多い。天保十(1839)年伊勢国飯高郡滝野村の滝野次郎祐知雄を訪れ本居学を研究するうちに、天保十二(1841)年その妹多紀と結婚、二人は国学を講じつつ尾張・三河・美濃を遊歴して近江国坂田郡志賀谷村に止まり、高尚館を開いた。翌年11月埋木舎の井伊直弼は彼の高名を聞いて入門し、古学に眼を開き深く私淑、やがて彦根藩主となるや嘉永五(1852)年4月弘道館国学方二〇人扶持で召抱え。彼の国学及び言語学・歌学に及ぶ識見は深く、門人録に名を連ねる者277名、著述また膨大であったが、やがて一転直弼の懐刀として京都公卿方を中心の裏面工作に敏腕を振るい、義言大老と恐れられた。桜田の変後も藩政の実力者であったが、文久二(1862)年の政変で8月27日斬罪に処せられた。享年48歳。
井伊大老の懐刀として君臨した長井さんに会うため彦根まで!そんなわけで全国各地が記録的猛暑になった2004年7月20日に天寧寺に行きました。ところが寺へ続く唯一の道が工事で通行止めになっており、いきなり門前払いか?って焦ってしまいました。幸いバイクは通してくれましたけど…。五百羅漢もそこそこに(一応拝見いたしましたし、お姿も頂きましたが)井伊大老の供養碑と長野さんの御墓へ御参りに行きました。そこで慄然としたんですよね。なぜなら長野さんの御墓が木の枝に覆われてほとんど正面からの撮影が不可能な状態になってるんです。まさか勝手に折ったり伐ったりできるわけありません…そんなわけで片手で枝を持ってフレームから除き、残る片手でシャッターを切りました。長野の御墓を接写しているのはそんな事情があったからなんですよ。
後藤哲之介(東京都荒川区・回向院)
水戸藩郷士。安政五(1858)年の藩難、ついで勅書問題に東奔西走して雪冤罪奉勅を計ったが志を達せ得ずして越後に去り、新潟に隠れた。文久元(1861)年冬幕吏の審問を受けるや、偽って桜田要撃者である広木松之介と名乗ったため、江戸に送られて投獄されたが、食を絶って文久二(1862)年9月13日死去。享年32歳。
広木松之介さんは実際に桜田門外に参加し、逃亡後文久二(1862)年3月3日、つまり襲撃一年後に自刃しています。後藤さんがなぜ広木さんの名を騙ったのかについてはどうもよくわかりません。今後の調査が必要ですね。
宇津木六之丞(滋賀県彦根市・清涼寺)
彦根藩士。井伊直弼の信任を得て城使・側役を歴任、安政五(1858)年4月直弼が大老となるや公用人となり、常に直弼の側近にあり、長野主膳と結んで安政の大獄の采配を振るった。その日記「公用方秘録」は、日米通商条約調印の経緯や将軍継嗣問題の事情を知る上においての貴重史料である。直弼が桜田門外で非命に斃れた後、直憲を助けてなお権勢を振るったが、文久二(1862)年8月藩の情勢は一変し、直弼時代に用いられた人材は斥けられた。長野が斬首の刑に処せられた二ヵ月後、すなわち文久二(1862)年10月27日刑死した。享年54歳。
 
堤松左衛門(京都・霊山墓地〔上〕/京都・霊山墓地〔下:南木四郎銘〕/熊本県熊本市・桜山神社)
肥後藩士。文を轟木武兵衛、武を宮部鼎蔵に学び永鳥三平に私淑し、河上彦斎・大野鉄兵衛らと親交があった。同志と共に海外渡航を企て長崎へ行き失敗して帰国、さらに仏門に入り雲水とたらんとしてまた失敗、文久二(1862)年また脱藩して長州・京都に上り宮部・轟木から横井小楠暗殺の内命をうけ、江戸で黒瀬一郎助・安里暑劫の両名とかたらい襲撃したが失敗した。当時坂本龍馬が土佐藩老吉田東洋を殺して長州に逃れた(事実は龍馬ではない)のを噴り、己れは小楠刺殺に失敗しても責任だけはとるといい自刃した。享年25歳。
肥後藩にも海外渡航を企てた方がいらっしゃったとは思いもよりませんでした。それにしても流転の人生を歩んでおられますが、最期は肥後の志士らしい一途なものに思います。その純粋な一途さには深く感銘を受けました。
文久二年