小田彦三郎(東京都墨田区・回向院)
水戸藩士。天保十一(1840)年藩主徳川斉昭にまみえた。安政五(1858)年勅書問題が起きるや勅旨回達に奔走し、ついで返納不可を唱えて長岡駅に屯集した。文久元(1861)年宇都宮の人児島強介が安藤信正要撃の同志を求めて来藩するや、平山平介らと謀議に加わり、1月15日安藤閣老を坂下門外に襲って闘死した。享年30歳。
河野顕三(東京都墨田区・回向院)
医者。下野国河内郡(足利藩領)の医の系。河野伊右衛門の外孫にして、父を早く失い、母によって養育された関係上、伊右衛門の思想的影響を受けることが多かった。一旦、兄と共に江戸に上り家業の医術を学んだが、これを好まず伊右衛門に経史を学び、また小山鼎吉をはじめ、真岡の草莽志士との交友が厚く、時事を憂うることが深かった。また外国奉行堀利煕の邸に寄寓して寵をうけたが、利煕が老中安藤信正に辱められて万延(1860)元年11月屠腹したので、信正を憎むことが甚だしく、ついに文久二(1862)年正月の坂下門事件には斬奸の死士として三島三郎と変名し参加、闘死した。享年25歳。
河本杜太郎(東京都墨田区・回向院)
医者。代々越後国十日町(会津藩飛地)の医者の系。安政二(1855)年江戸に出て初め妹の夫の屋台良作について医を学び正安と称したが、憂国の志をもって芳野金陵の門に入り、久坂玄瑞らと交わった。万延(1860)元年いったん帰郷ののち京都に上り、本間精一郎らと会ったが、文久元(1861)年再び江戸に戻った。金陵の門を飛び出したところを久坂に助けられ、村山介庵らと和宮降嫁阻止・攘夷決行を謀議し、京都・長州に赴いたが志を得ず、江戸に帰り、老中安藤信正を除こうとして、文久二(1862)年正月水戸の浪士平山平介らと坂下門外にこれを襲撃したが、失敗して討たれた。享年23歳。
黒沢五郎(東京都墨田区・回向院)
常陸国多賀郡(松岡藩領)の医、黒澤緩平の子。文久元(1861)年5月28日夜、浪人有賀半弥らと高輪東禅寺の英国仮公使館を襲って果たさず、脱して姓名を吉野政介と変じて郷里に潜伏した。ついで老中安藤信正の要撃者に選ばれ、安政二(1855)年正月15日平山平介らと坂下門に襲って闘死した。享年30歳。
高畑房次郎(東京都墨田区・回向院)
水戸藩農民。性任侠に富み、尊攘の心厚かったという。文久元(1861)年5月28日同士と共に江戸高輪の東禅寺英国仮公使館を襲い、負傷したが囲みを脱して藩内に隠れた。のち安藤信正要撃の人選に入り、文久二(1862)年正月15日坂下門に戦って闘死した。享年35歳。
平山兵介(東京都墨田区・回向院/茨城県水戸市・酒門共同墓地)
水戸藩士。一刀流の達人をもって聞こえ、万延元(1860)年12月徳川斉昭亡き後住谷悌之介らと藩を脱して上国へ志したが、住谷ら堺にて捕らえられ、探索厳なるため旅僧に変じて東下し、文久元(1861)年5月帰国して領内に潜伏した。この間、宇都宮の児島強介来藩し、老中安藤信正要撃の同志を求めて兵介らと謀議した。以降、江水宇の間を奔走し、同志の提携に周旋した。同年末、丙辰丸の盟約により挙に応ぜんことを求め、兵介はこの書を帯びて長州の桂小五郎に達した。しかし長州側の参加に難があることを知り、要撃は常野の同志をもって当たることになり、期を正月28日と定めたが、同月12日大橋訥菴捕えられるに及び、決行を早めて15日坂下門に安藤信正を要撃して闘死した。享年22歳。
川辺左次衛門(東京都墨田区・回向院/茨城県水戸市・常磐共有墓地)
水戸藩士。父の職を継いで小普請組に列した。文久元(1861)年9月下野の人児島強介が来藩して安藤信正要撃を計り、同志を求めた。よって平山兵介らと協議し、参画するところがあった。文久二(1862)年正月15日の期に遅れ、ために長州藩邸に桂小五郎を訪ね事情を告げて遺書を託し、その場で自刃を遂げた。享年31歳。
中野方蔵(東京都墨田区・回向院)
佐賀藩士。藩校弘道館別段寮に学ぶ。嘉永三(1850)年義祭同盟に加盟して尊王論を唱えた。江藤新平・大木喬任と堅く結んで画策するところがあった。万延元(1860)年藩命により江戸に赴いて昌平黌に学び、久坂玄瑞らの志士と交わる。また大橋訥菴の門に入り、同門の多賀谷勇らと日光輪王寺宮擁立運動を謀った(未遂)。水戸藩急進派と通じ、大橋訥菴らの坂下事変に関係ありと疑われて文久二(1862)年3月捕われ、伝馬町の獄に投ぜられ獄中で5月25日幽死した。毒殺の噂もあった。享年28歳。
横田藤太郎(東京都墨田区・回向院)
商人。安政二(1855)年故郷下野国真岡を出で、伊勢・長崎など西国を回遊して京師に入る。この間、諸国志士と交遊することが多かった。文久元(1861)年国事に尽さんと父藤四郎出奔するや、藤太郎も後を追い、常・総・武三国を遍歴して父に会うことを得た。父は彼を大橋訥菴に託し、文武の修練を積ましめた。坂下門事件に際しては、藤太郎は選ばれて一旦「死士」となることになったが、訥菴の反対のため中止となった。坂下門事件後、堀の探索するところとなり、ついに茂木で捕われ、文久二(1862)年6月11日江戸伝馬町獄屋で病死した。享年23歳。

もへい様寄贈
児島強介(栃木県宇都宮市・八幡山墓地/東京都墨田区・回向院)
商人。宇都宮寺町手塚家の長女操子の婿となるも児島の姓を改めなかった。幼少山本蕉逸に学び、のちに水戸に出入りして藤田東湖と茅根伊予之介に師事し、尊攘の志を練った。歳19で江戸に出て国学を平田某に学び、武術を金子武四郎に修め、いよいよ志気卓絶、その生活と信条とは全く武人のようであったが、県信緝・菊池教中・大橋訥庵に師事する頃から、深く国事を憂えて多くの志士と交わることになった。坂下門外の変に先立ち、文久元(1861)年の冬、訥庵の指令を受けて宇都宮を代表し、水戸の平山兵介と共に一切の準備に当ったが、壮挙の頃は病にかかって郷里に帰り、後に捕えられて江戸の獄に投ぜられ、文久二(1862)年6月25日獄死した。享年26歳。

もへい様寄贈
菊池教中(東京都台東区・天龍寺)
宇都宮藩士。父大橋淡雅は商人名を佐野屋孝兵衛(長四郎)と称し、江戸に出店して一代にして巨富をなした。教中は父の後を受けて、嘉永六(1853)年26歳のとき佐孝の経営責任者となった。守成の主として運命付けられた彼の前には、異国船渡来による営業不振が立ち塞がった。さらに商人は不都合として姉巻子の婿とした大橋訥庵の存在は、教中を熱烈な攘夷論者とするとともに賤商思想にとりつかれたのである。教中は外夷との戦争は必至と考え、その資材を守るため、宇都宮藩権力に食入り、岡本・桑島の両新田を開発した。そしてこの大土地所有を媒介として士分の地位を獲得し、地主というより領主的心意を有した。このような彼は、文久元(1861)年10月になると政治的実践に乗出し、尾高長七郎・多賀谷勇の両人が唱えた輪王寺宮擁立挙兵運動に最も熱意を示した。しかしこれが失敗に終わると、草莽志士らによる老中安藤信行暗殺作を援助した。しかるに宇都宮藩士岡田真吾らによる一橋慶喜擁立挙兵計画が、文久二(1862)年正月訥庵の軽挙により暴露するや、逮捕投獄され、7月一旦出獄したが、8月8日病のため没した。享年35歳。
桜田門外の変で井伊大老亡き後、政務を引き継いだ老中安藤信正侯は、幕府と朝廷の結びつきを強めて幕権を強化し、激化する尊攘派を抑えるべく公武合体政策を推進していきます。
一方で万延(1860)元年7月19日、長州藩の桂小五郎さんや水戸藩の西丸帯刀さんらの間で水長同盟が結ばれ、協力して攘夷運動を行うことが約されました。その役割は水戸藩が破壊活動、長州藩が事後収集というものだったのです。
しかし両者とも藩内の実力者というわけでもありませんでしたから、同盟に実効性を与える根回しが必要だったのです。

長州藩を動かすには、影響力を持つ周布政之助さんと長井雅楽さんを説得するのが一番だということで、水戸藩の重臣との会見を桂さんらは画策します。
そこで水戸藩では、徳川斉昭侯没後失脚中ながら藤田東湖亡き後水戸激派の執政の重鎮だった武田耕雲斎さんを説得するのですが、逆に時期尚早と拒絶されます。さらに側用人美濃部又五郎さんも拒絶し、いきなり暗礁に乗り上げたのです。
だから西丸さんらは、美濃部さんの書簡を偽造して桂さんに渡し、それが長井さんの元へ渡ったのです。
長井さんは偽造と知りませんから、会見を快諾する旨返書を送り、西丸さんらは事の真相を美濃部さんに打ち明けて謝罪します。美濃部さんも今さら断るわけにもいかず、会見を持ちました。
しかし長井さんといえば長州藩内の開国派筆頭で、公武合体推進派で同盟に否定的立場であった上、会見に同席した周布さんは久坂玄瑞・高杉晋作といった過激藩士の庇護者的存在で、水長同盟に賛意を持っていたために長州藩内の意見も一本化できず、具体的な方針も立たないまま交渉は終わったようです。

そして10月18日、孝明天皇の妹の和宮様を十四代将軍徳川家茂公に降嫁させる勅許が出たもんですから、安政の大獄以来燻ぶる水戸藩や長州藩の尊攘激派の怒りの火に、再び油を注ぐ結果となったのです。

結果として水長両藩攘夷派の間で安藤信正侯暗殺計画が進行していくのですが、桂さんは同盟が具現化していない上、同盟推進派の周布さんが萩で謹慎中であったため計画実行の延期を申し出ます。
ところがもはや止まることができなくなった水戸藩士らは、暗殺計画を儒学者大橋訥庵を中心とする宇都宮藩の一派と手を組むことで進めていったのです。
当初襲撃を12月15日としましたが、議論が分かれて翌年1月15日と定めました。襲撃は平山平介さんの人選で、水戸藩から平山平介・小田彦三郎・黒沢五郎・高畑総次郎の諸士と、宇都宮派から河野顕三さん、そしてたまたま大橋さん宅に宿泊していて志願してきた越後の河本杜太郎さんの6名とし、老中暗殺後は全員自刃すると取り決めたのでした。
しかし12月26日、宇都宮藩の岡田真吾さんが一橋慶喜擁立の上日光で義兵を起こし、攘夷を朝廷に建白しようという全く別の計画を大橋さんに相談し、しかも大橋さんがそれならと、一橋家近習の山木繁三郎を紹介すべく文久二(1862)年1月8日に自ら山木さんに面会して計画を打ち明けました。
相談された山木さんは、あまりの内容から老中久世広周侯に訴え出たため、1月12日に大橋さんは捕縛されたのです。
それでも襲撃は実行に移されたのです。

文久二(1862)年1月15日、式日の途上坂下門から入ろうとする安藤信正侯の行列に、河本さんが短銃を撃ち込んだのを合図に全員斬りこんだのです。しかし桜田門外の変以来警護体制も強化されており、隙を突いて平山さんが放った駕籠への一撃も、安藤公の背中にかすり傷を負わせた程度であり、6人は全員その場で返り討ちにされました。

しかし幕府はこの一件を桜田門外の変と同様に処理しました。つまり、老中が暗殺されたという噂がすぐにたったのに、真実は月末くらいまで公表されず、安藤侯は生きているのにあたかも死んだような体になってしまったのです。
そのため安藤侯は老中を罷免の上磐城平藩主を隠居する羽目になったのです。結果として政治的な暗殺には成功したといえるのでしょうかね…。
文久二年 坂下門外の変