もへい様寄贈
ヒュースケン(東京都港区・光林寺)
駐日米国公使館通弁官。オランダのアムステルダムに生まれ、ニューヨークに渡り米国に帰化。安政二(1855)年志望してハリスの書記兼通弁官となり、ペナンでハリスと落ち合った後、彼に随いシャムを経て来日、下田玉泉寺を居所とした。以後暗殺されるまでのほとんど全期間、通弁官としてハリスを助け、安政五(1858)年12月以降は米公使館初代書記官として開国書記の日米外交に尽した。安政四(1857)年10月ハリスの要求が容れられ、出府を許可されるや彼に同行、江戸城において将軍家定に謁見した。同年12月より日米修好通商条約談判が開始され、安政五(1858)年正月までに13回審議討論が重ねられたが、この間ヒュースケンは通弁として参加するだけでなく、ハリスが重病に倒れたときは、彼の代理として幕府委員と直接交渉も行った。他方、エルギン・オイレンブルクの対日交渉において、その支援に当った。文久元(1861)年1月16日芝赤羽のオイレンブルク居館より米公館への帰途、攘夷浪士により殺され、幕府は老母扶助料・慰労金計1万ドルを支払った。享年28歳。

もへい様寄贈
荒尾成允(東京都港区・東禅寺)
幕臣(小普請奉行)。文政三(1820)年12月新たに召出されて小納戸となり、文政十二(1829)年小姓に転じ、嘉永四(1851)年12月小姓頭取に進んだ。嘉永五(1852)年5月目付に転じ、海防掛を兼ねた。嘉永六(1853)年8月ロシア使節応接掛に任命され、プチャーチンと会談した。安政元(1854)年5月長崎奉行に進み、安政二(1855)年4月来航の英使スターリングと会談、また9月オランダ商館長キュルチュスと日蘭予備約定に調印した。安政三(1856)年9月アロー号事件が起るや、成允は事の重大性を見抜き、キュルチュスより事件の詳細を聴取して、安政四(1857)年2月これを幕府に報告した。これらの功績により、閏5月特に勘定奉行次席を命ぜられた。さらに同年8月水野忠徳・岩瀬忠震らと日蘭追加条約の調印と、日蘭和親条約批准書の交換に参加した。一方、同じ8月ロシアのプチャーチンと日露追加条約の商議を重ね、翌9月条約の調印を終えた。このように成允は幕末外交の第一線に活躍を続けたが、安政六(1859)年9月小普請奉行に転じて外交界を離れ、11月本丸普請掛を勤めたりしたが、万延元(1860)年12月田安家の家老に転じ、文久元(1861)年8月25日在職中卒した。享年不明。
江馬細香(岐阜県大垣市・禅桂寺)
画家・詩人。幼より画を好み、文化十(1813)年頼山陽が来遊したとき、山陽34、細香27歳。山陽は細香の才情を愛し、求婚の意志があったが、父の蘭斎は一生婚せずとの細香の意を知って断ったようである。文化十一(1814)年京都に出て山陽の指導を受け、山陽・僧雲華・山陽の母梅?らと交遊した。天保三(1832)年山陽が病没し、細香は慟哭して挽詩三律を賦した。また文政年中に、梁川星巌・村瀬藤城・神田柳渓らと白鴎社を結びのち大垣咬菜社を結び、小原鉄心・宇野南村・松倉瓦鶏らと交遊して、鉄心は細香を推して盟主とした。細香の才藻・筆力は歳とともに進み、藩主戸田氏正・老侯氏庸は殊遇し、城中に招いて書を作らせ、酒饌・章服を下した。細香は妙齢より紛華を事とせず、綺羅を用いず、人となりは従順温雅で卓識あり、父母に仕えて終身結婚せず、藩老小原鉄心もよく藩政を諮詢した。常に慷慨憂国の志があり、城下に遊郭を設けるとの議があった時も、封内の風俗を乱すことを怖れ、建議して設置を中止させた。文久元(1861)年9月4日没。享年75歳。
 
万延二年/文久元年