金子孫二郎(東京都荒川区・回向院〔上〕/茨城県水戸市・常盤共有墓地〔下〕)
水戸藩士。文政十二(1829)年年徳川斉昭継嗣の際、同志と江戸藩邸に至って擁立に尽力した。歩行目付・吟味役をj経て天保九(1838)年奥右筆に転じ、ついで郡奉行に挙げられた。弘化元(1844)年斉昭が幕譴を蒙った時に藩政回復を計って職を免ぜられ、閉居に処せられた。嘉永二(1849)年許され、嘉永六(1853)年郡奉行に復職した。前後15年在職して斉昭の藩政改革を補佐した。この間安政元(1854)年に反射炉建造掛を命ぜられ、海防事業に鋭意力を用いた。安政五(1858)年斉昭再び罪せられ、ついで勅書問題発生するや、極力奉勅を唱え、高橋多一郎と計って西国に四壮士を派遣し、諸藩協力して佐幕攘夷の実行を期した。安政六(1859)年3月薩摩藩の高崎猪太郎提携の使命を帯びて水戸に来た際、多一郎らとい共に会見したが、挙兵の議はなお自重するところがあった。同年8月に至って斉昭父子謹慎・閉居となり、家老安島帯刀らも処刑されるに及んで急速に薩水提携の機運が高まり、長岡勢をして勅書の江戸移送を阻止せしめる一方、大老井伊直弼襲撃の方策を進め、万延元(1860)年2月下旬脱藩出府して江戸における要撃一切を指揮した。同年3月3日事件当日薩摩の有村雄助と品川にて報を待ち、直ちに西上して9日に四日市に着いたが、薩摩藩捕吏に捕らえられて伏見奉行所に引き渡された。24日江戸に護送され、文久元(1861)年7月26日斬に処せられた。享年58歳。
岡部三十郎(東京都荒川区・回向院〔上〕/茨城県水戸市・光台寺〔下〕)
万延元(1860)年3月3日の井伊大老襲撃に参画し、江戸にあって諸方に立入り、事前の探索に任じた。直接襲撃に参加せず、見張り役を勤め、次いで上国に向った。しかし探索急なるため、去って行方をくらましたが、文久元(1861)年2月江戸で捕らえられて、岡藩邸に預けられ、同年7月26日斬罪に処せられた。享年44歳。
杉山弥一郎(東京都荒川区・回向院〔上〕/茨城県水戸市・常盤共有墓地〔下〕)
水戸藩士。鉄砲師をもって出仕し、早く諸藩の士と交わった。安政六(1859)年勅書返納の議起るや、長岡に屯集してこれが阻止を計り、次いで大老井伊直弼襲撃の計画に参与し、井伊家の動静の探索に当たった。万延元(1860)年3月3日桜田門外に大老を要撃し、負傷して江戸熊本藩邸に自首、文久元(1861)年7月26日金子孫二郎らと伝馬町の獄に斬られた。享年38歳。
森山繁之介(東京都荒川区・回向院〔上〕/茨城県水戸市・祇園寺〔下〕)
水戸藩属吏。桜田十八士の一人。剣を金子健四郎に学び、かつて矢倉奉行高橋多一郎の配下に属した。安政六(1859)年勅書返納の議起るや、不可を唱えて長岡駅に屯集し、藩庁の圧力の加わるに及んで解散して脱藩した。万延元(1860)年3月3日大老井伊直弼を桜田門外に襲い、負傷して熊本藩邸に自訴し、文久元(1861)年7月26日斬に処せられた。享年27歳。
蓮田市五郎(東京都荒川区・回向院〔上〕/茨城県水戸市・常盤共有墓地〔下〕)
水戸藩属吏。寺社方の手代として梶清次衛門に属した。少より篤学、文筆に巧みであったという。斎藤監物の国事に奔走中行動を共にした。安政六(1859)年同藩に勅書返納論起こり、これを阻止すべく監物と江戸へ潜行して画策するところがあった。万延元(1860)年3月3日大老井伊直弼を桜田門外に要撃し、負傷して脇坂邸に自首し、翌文久元(1861)年7月26日斬処された。享年29歳。
大関和七郎(東京都荒川区・回向院〔上〕/茨城県水戸市・常盤共有墓地〔下〕)
水戸藩士。弘化三(1846)年叔父大関増賀の養子となり家督を継ぐ。安政二(1855)年馬廻組、安政五(1858)年大番組となる。同年8月勅書降下に際して、同志と共に奉勅を唱え、安政六(1859)年11月に至り、幕府その返納を迫るに及び、長岡に屯集して返納防止を計った。やがて藩庁の圧力が加わるに及んで脱藩し、万延元(1860)年3月3日桜田門外に大老井伊直弼を襲った。事件後江戸熊本藩邸に自訴し、のち富山藩邸に拘留され、文久元(1861)年7月26日死罪に処せられた。享年26歳。
森五六郎(東京都荒川区・回向院)
水戸藩士。桜田十八士の一人。幼時より気性の鋭い人であったという。安政六(1859)年勅書返納の議起るや長岡に屯集して阻止を計った。万延元(1860)年3月3日同志と共に桜田門外に大老井伊直弼を襲い、傷を負って大関和七郎と共に熊本藩邸に自訴し、文久元(1861)年7月27日死罪に処せられた。享年24歳。
井伊大老を襲撃した水戸藩十八士のうち、事変後も生き残り自訴したり捕縛された方々も7月26日に処刑されてしまいました。不審なのは森五六郎さんだけが27日になっている点で、手元の資料では27日になっているので今は敢えて27日を採っていますがどうも釈然としてません。この辺の真相を御存知の方いらっしゃいませんか?
ついでに言うと、「桜田十八士の最期」なんて銘打ちましたが、本当の意味での最期は文久二(1862)年の関鉄之介さんの刑死がそれにあたるのかもせん。また実際には18人のうち2人は生き残ってるんですよね。増子金八さんは明治十四(1881)年に、海後磋磯之介さんは明治三十六(1903)年に、それぞれ亡くなっています。

文久元年 桜田十八士の最期