日下部裕之進(東京都荒川区・回向院)
薩摩藩士。父が水戸藩にいたときに生まれ、幼時太田学館に業を修めた。安政二(1855)年父と共に江戸薩摩藩邸に復帰した。国事多難に際会し、安政五(1858)年6月藩老鎌田出雲の内命を受けて京都に至り、勅諚の水戸藩に下ることを運動した。同年8月水戸藩に勅諚が下ると、父伊三治とその写を水戸小石川邸に届けた。安政の大獄により父伊三治と共に江戸伝馬町の獄に繋がれた。安政六(1859)年10月裕之進は遠島の刑に処せられたが、まだ配所に赴かないうちに病にかかり、万延(1860)元年閏3月3日獄中に没した。享年25歳。
高橋多一郎(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。天保十(1839)年選ばれて床机廻となり、同年家督を継いで歩行士となり、目付けを経て天保十二(1841)年奥右筆に進んだ。弘化の難に藩主の無罪を訴えて紀州候に嘆願書を呈し、ついで幕閣要路に哀訴して禁固に処せられた。嘉永五(1852)年藩政回復と共に復職、安政二(1855)年10月奥右筆頭取に進み、嘉永五(1852)年小姓頭取に挙げられた。同年7月斉昭再び罪せられ、ついで勅書問題が発生するや、金子孫次郎と計り、諸藩連合して幕府改革を遂げんとして西国諸藩に四壮士を派遣し、嘉永六(1853)年8月斉昭を水戸に幽し、家老安島帯刀の断罪が行われると、薩摩藩士と大老井伊直弼襲撃を謀議した。万延(1860)元年2月桜田事変に先立ち子庄左衛門を従えて大坂に着き、在坂の川崎孫四郎・山崎猟蔵らと薩摩藩兵の東上を待った。桜田の報至るに及んで幕吏の探索厳しく、 同志と進退を計るうちに探知され、3月23日四天王寺において子庄左衛門と自刃した。享年47歳。
高橋庄左衛門(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士高橋多一郎の長男。年少にして茅根伊予之介について学を受け、識見群を抜いて優れていた。早く藩難に際会して父多一郎と日夜奔走し、万延(1860)元年2月桜田の挙決するや、同月20日父と国を脱し、変装して3月6日大坂に達した。事件の報、京坂に伝わるに及んで幕吏の探索厳しく、3月23日父子共に島男也の家に潜んだが、探知され、出でて四天王寺にて自刃した。享年19歳。
佐久良東雄(東京都墨田区・回向院)
僧侶・国学者。9歳で下林村観音寺に入り住職康哉の弟子となり、名を良哉、字を高俊と改めた。万葉法師康哉の影響を受け、師の没後二十八代観音寺住職、ついで土浦町真鍋善応寺十八代の法灯を護持した。天保十四(1843)年夏、国学復古の理念に発意して還俗、鹿島神宮に桜樹1000株を植えて、佐久良東雄と改名した。このころ笠間藩の加藤桜老、土浦の儒商色川三中、真壁の相良任蔵と交友を深め、また早くから水戸藩会沢正志斎・藤田東湖らに学殖を認められ出仕を進められたが、固辞して受けなかった。これより江戸に出て平田篤胤に学び、国学を究め併せて書道にも精進した。弘化元(1844)年京都に上り、妙法院宮の家人となり、また大坂座間神社の社家に籍を置いた。安政の末年靱負と改め、静馬あるいは健雄と称し薑園と号した。万延元(1860)年桜田門外の変に参画した高橋多一郎父子が大坂に逃れてきたときこれをかくまい、共に策謀をめぐらしたが幕吏に捕らえられ、江戸伝馬町の獄舎に投ぜられた。獄中「吾徳川の粟を食わず」と絶食、同年6月27日絶命した。享年50歳。
もへい様寄贈
堀利?(東京都文京区・源覚寺)
幕臣・外国奉行。小姓組、ついで徒頭となり、老中阿部正弘に次第に抜擢され、嘉永六(1853)年5月目付となり、わが国防備の実状を具に見、開港地にあって世界の大勢を知るに及んで、安政三(1856)年の諮問の際は通商互市の開始を答申し、嘉永六(1853)年には貿易船海外派遣を建議するに至った。なお、箱館奉行就任の際に従五位下織部正に叙任された。任地にあって視察を怠らず、現地人に種痘を施したり、迷信打破に力を尽くした。安政五(1858)年6月日米通商条約調印の直前に露・英・仏三国使節との応接準備を命ぜられ、各通商条約締結の際は全権の一人として調印した。この間、7月新設の外国奉行兼務、安政六(1859)年6月横浜開港に当り、神奈川奉行兼務と、常に外交の一線にあって活躍した。また、一橋派として将軍継嗣問題にも動いた。万延(1860)元年7月プロシア使節が来日して、通商条約締結を要求すると、全権として使節オイレンブルクと応接し、難航しながらも条約案をほぼまとめた11月6日突如自刃した。プロシアだけと交渉しているはずが、プロシア側の出した草案にドイツ連邦各国国名が列挙され、そのことが同時期政敵の老中首座・安藤信正が進めて内諾を得たばかりの和宮降嫁が攘夷思想の孝明天皇によって白紙に戻されそうになったことから安藤と争論になり、条約締結を求めての諫死といわれる。享年43歳。
安政七年/万延元年没