井伊直弼(東京都世田谷区・豪徳寺〔1〕/滋賀県彦根市・天寧寺〔2〕)/栃木県佐野市・天応寺〔3〕/茨城県水戸市・妙雲寺〔4〕
大老、彦根藩主。天保二(1831)年父の死により三〇〇俵を給せられて北の御屋敷に移り、ここを埋木舎と名付け、禅・槍術・居合術・茶道などの修行に励み、天保十三(1842)年長野義言と師弟の契を結んで国学の研究に没頭した。たまたま長兄で藩主直亮の世子となっていた直元が死んだため、32歳で世子にあげられ、弘化三(1846)年2月江戸に出て、12月従四位下侍従に叙任、玄蕃頭と称した。世士時代、直亮と意あわず、弘化四(1847)年2月彦根藩が彦根藩が相模警備を命じられてからは藩政・公務の面でも心を悩ますことが多かった。直亮の死により嘉永三(1850)年11月遺領35万石を継ぎ、掃部頭と改め、領内士民に養父の遺志と称して金15万両を分配した。嘉永六(1853)年6月ペリーの浦賀渡来の際国許にいたが、彦根藩は相模警備の重任をはたし、ついで出府、鎖国の祖法は墨守すべきでなく、交易を行い、海外へ進出すべき方略を幕府に答申した。同年11月羽田・大森の警備に転じ、安政元(1854)年4月宿願の京都守護を命ぜられた。藩主となってから次第に溜間詰大名中で重きをなし、同年正月溜間詰大名とともに徳川斉昭の攘夷説に反対して以来、斉昭との対立を深め、安政二(1855)年10月には斉昭の反対する溜間詰の堀田正睦を老中に就任させた。安政四(1857)年4月出府し、ハリスの上府に反対していた溜間詰大名の意見を覆し、12月米国の要求を容れるべき溜間詰大名連署の意見書を幕府に提出した。このころより将軍継嗣問題が表面化するや、血統論から紀州慶福を推し、南紀派の重鎮として一橋派と対立した。安政五(1858)年2月条約勅許奏請のために堀田閣老が上京するや、謀臣長野義言を京都に派遣して廷臣間に入説させたが、勅許を得るに至らなかった。同年4月大老に任じ、6月日米修好通商条約の無断調印を強行、ついで慶福を将軍継嗣とする旨を公表し、無断調印に反対した一橋派の徳川斉昭・徳川慶恕・松平慶永らを処罰した。外交事情奏聞に上京する老中間部詮勝を援護するため、8月長野を再び入京させたが、水戸藩に密勅の降下があり、ついに長野の意見を容れて志士の逮捕を決意し、安政六(1859)年にかけて安政の大獄を起し、さらに水戸藩には勅諚の返納を迫った。このために万延元(1860)年3月3日、桜田門外で水戸浪士らに襲われて暗殺された。享年46歳。
彦根市のはずれにある天寧寺は五百羅漢が有名な所らしいですが、その羅漢堂の裏手に井伊大老と長野主膳の御墓があります。ゼルビス初の遠征ということで張り切っていったのですが、途中の道で初の立ちゴケ…天寧寺の砂利敷きの駐車場ではディスクロックかけっ放しで発進しようとして2度目の立ちゴケ…帰りに事故死するんじゃないかなぁって思うほどへこみました…。何の話だっけ…

ペリー来航以来の混迷をする政局をまとめ上げるには強烈な指導力が絶対不可欠でしょう。勅許も無しに日米修好通商条約を結べば国内反発を受けることは間違いないでしょうが、欧米列強に対して強硬姿勢を取れるだけの国力も外交力も徳川日本にはありません。単なる役人ならそのことすら気付かず、ひょっとしたら気付いていても「朝廷の許しがないと…」と責任を朝廷に押し付けかねないだけに井伊大老の存在が奇跡だったのかもしれません。
いずれは本墓がある東京の豪徳寺にも行かなきゃ行けないんですよね。

などとほざいたのが2004年の夏でした…。まさかその一年後にその豪徳寺の境内で立ってるなんて…まったく想像もできてました♪。ホントにいい加減なものです。でもある意味有言実行??
それはともかく松陰神社から豪徳寺まで…歩いたら結構な時間かかりましたよ。8日間の行程の最後を飾る場所となったのですが、最後だけに疲れはMAX…。元々世田谷あたりは井伊家領だったので井伊大老はじめ彦根藩士の御墓が多数ありました。おかげで捜査がなかなか大変でしたよ♪。

さらに2年ののち…。今度は下野の地で井伊大老と感動の?再会を果たすことになりました。たまたま佐野の辺りに彦根藩飛び地の領地があったためで、井伊大老も視察にこられたことがあります。その縁でこの地にも遺髪墓が建てられたというわけです。しかしのんびりしたところでしたねぇ。

さらにさらにその5日後、今度は井伊大老にとっては怨敵ともいえる所でまたまたまたまた再会です。意外なことに水戸でも井伊大老を祀っているのですね。きっと公人としての井伊大老は政敵と見做していたとしても、私人としての直弼候に恨みはないということでしょうか?。
日下部三郎(東京都世田谷区・豪徳寺)
彦根藩士。代々彦根藩物頭役を勤め、嘉永六(1853)年から備頭役となった。万延元(1860)年3月3日桜田の変にも供頭として輿前に在ったが、桜田門外において訴状を謀持する者があり、供頭の役目上訴者に近づいて訴状を受け取らんとしたとき突然相手が立上って三郎右衛門に斬りつけた。雨衣を着して刀に柄袋を被せていたので、柄袋のまま二太刀三太刀防いだが頭を割られて人事不省に陥り、帰邸後六十余日を経た7月28日藩邸で死んだ。享年39歳。
加田九郎太(世田谷区・豪徳寺)
彦根藩騎馬徒士。騎馬徒士とは平士の嗣子で父勤務中に成人した者を父の禄高とは別に四〇俵4人扶持を給した勤務せしめた。養父加田孫兵衛は代々二〇〇石取りの藩士であった。桜田門の変の日、九郎太は槍付の士として輿前の中程に在ったが、水戸浪士は真先に槍を奪い取る擬勢を示して九郎太に一挙に襲いかかってきたこれを倒した。享年31歳。
河西忠左衛門(世田谷区・豪徳寺)
彦根藩士。豪酒で剣豪。万延元(1860)年3月3日桜田門外で主の輿を守り奮戦、闘死。享年30歳。
沢村軍六(世田谷区・豪徳寺)
彦根藩士。当日供目付。万延元(1860)年3月3日桜田門外で闘死。享年不明。
小河原秀之丞(世田谷区・豪徳寺)
彦根藩士。側小姓。当日御供目付。万延元(1860)年3月3日桜田門外で闘死。享年30歳。
越石源次郎(世田谷区・豪徳寺)
彦根藩士。万延元(1860)年3月3日桜田門外で負傷、帰邸後死す。享年不明。
永田太郎兵衛(世田谷区・豪徳寺)
彦根藩士。当日駕付。万延元(1860)年3月3日桜田門外で両刀を振い善戦、闘死。享年不明。
岩崎徳之進(世田谷区・豪徳寺)
彦根藩士。伊賀奉行。当日平供助。万延元(1860)年3月3日桜田門外で傷つき、帰邸後死す。享年不明。
豪徳寺の井伊大老の御墓の裏手に「櫻田殉難八士之碑」は立ってました。調査中数名参詣の方もおられましたが、見た限り誰もその碑に気付く方はいませんでしたね。やはりこれが現実なんでしょう。ちなみに桜田門外の変で無傷のまま藩邸に戻った彦根藩士7名は4月に投獄させられ、文久二(1862)年10月に斬刑に処せられました。

もへい様寄贈
有村次左衛門(東京都荒川区・回向院〔上〕/東京都港区・青山墓地〔下〕)
薩摩藩士。海江田信義・有村雄助の弟。安政五(1858)年江戸に出で江戸藩邸で中小姓役を勤め、剣を千葉周作に学んだ。安政の大獄によって井伊大老の弾圧が行われると、在府の伊地知貞馨・有村兄弟は水戸藩の有志と結んで大老襲撃計画を進めた。伊地知はその後藩命によって帰藩し、有村兄弟が主としてこの計画に参加した。次左衛門は万延元(1860)年3月3日水戸藩の関鉄之助ら17名と、桜田門外において大老の登営を襲撃。大老の輿に迫って大老の首級を挙げた。大老の首級を提げて去らんとする次左衛門を見て、井伊の従士小河原秀之丞が追いかけて後から斬りつけた。次左衛門は秀之丞を倒したが、この時の重傷のため歩行困難となって若年寄遠藤胤統の辻番所付近で大老の首を前にして自決した。享年23歳。
広岡子之次郎(東京都荒川区・回向院〔上〕/茨城県水戸市・常盤共有墓地〔下〕)
水戸藩士。嘉永三(1850)年広岡則孝の養子となり家督を継いだ。原市之進に学び、剣を渡辺清左衛門・大胡鍼聿蔵に就き修業した。安政六(1859)年勅書返納の議起るや、長岡駅に屯集して阻止を計った。万延元(1860)年3月3日桜田門外に大老井伊直弼を襲い、重傷のため和田倉門に至って自刃した。享年21歳。
斎藤監物(東京都荒川区・回向院)
水戸藩神職。常陸国静神社の神官、藤田東湖に師事し、また剣術を能くした。弘化元(1844)年の国難には藩主徳川斉昭の無実を訴えて阿部老中の官邸に至り、越訴の罪で四年間の禁固に処せられた。安政五(1858)年8月勅書問題が起り、高橋多一郎と計って部下の神官を上京せしめ、伊勢神宮より京都・大阪を経歴させて諸国の同職について画策するところがあった。安政六(1859)年3月薩摩藩士高崎猪太郎が来藩し、監物らと会合して挙兵のことを協議した。同年8月多一郎らと出府して再びこの議を重ねた。この間、士民が大挙して神職61人と江戸へ向かい、連署して藩政回復を建議した。万延元(1860)年3月朔日一旗亭に会して大老襲撃の細部の打ち合わせを行い、3日同僚海後磋磯之介・鯉淵要人と脱藩届を済ませ、桜田門外に大老を襲って重傷を負い脇坂邸へ自訴して斬奸状を提出した。同月8日傷のために吟味中に死んだ。享年39歳。
黒沢忠三郎(東京都荒川区・回向院〔上〕/茨城県水戸市・常盤共有墓地〔下〕)
水戸藩士。嘉永六(1853)年床机廻に選ばれ、安政二(1855)年家督を継ぎ、安政五(1858)年大番組に列した。同年9月の勅書回達、ついで安政六(1859)年8月の雪冤運動に奔走して閉居処分を受けた。万延元(1860)年3月3日兄大関和七郎と共に大老井伊直弼要撃に加わり、重傷を負って老中脇坂安宅邸に自訴し、同年7月11日三田藩邸で死んだ。享年31歳。
山口辰之助(東京都荒川区・回向院)
水戸藩士。郡奉行目付等の職を勤め、武術にすぐれ、歌道を能くした。安政四(1857)年学問出精により賞せられた。安政六(1859)年5月大挙して江戸に向い、勅使回達並びに藩主の雪冤運動に加わり、ついで勅書返納を阻止して長岡駅に屯集した。万延元(1860)年2月藩庁の圧力加わるに及んで解散して藩を脱し、万延元(1860)年3月3日桜田門外に大老井伊直弼を襲って重傷を負い、引上げ途上自刃した。享年29歳。
鯉淵要人(東京都荒川区・回向院)
神官。代々諏訪神社の祠官。水戸藩では神官は在郷武士としての待遇を受けたので、尊攘派の武士と交わる機会も多かった。特に水戸領神官の指導者であり、桜田事変の領袖でもあった斎藤監物の感化を受けることが多く、藩主徳川斉昭の雪冤運動、その他の尊攘運動、桜田事変にも斎藤と行動を共にしている。桜田事変の当日は、大老井伊直弼要撃後、老中脇坂安宅邸に自訴する途中、重傷のため自決した。享年51歳。
稲田重蔵(東京都荒川区・回向院)
水戸藩属吏。初め水戸に出て田丸直諒に仕えたが、のち町方同心に推され、金子孫二郎郡奉行の時、郡吏に用いられ、さらに内元取締に挙げられて軽士の列に入った。。万延元(1860)年3月3日桜田門外に井伊大老を襲って闘死した。享年47歳。
佐野竹之介(東京都荒川区・回向院〔上〕/茨城県水戸市・酒門共有墓地〔下〕)
水戸藩士。幼より気象鋭く、長じて砲術を究め、居合いの達人であった。嘉永五(1852)年父隠居して家督を継ぎ、安政三(1856)年大番組、安政四(1857)年小姓に進んだ。安政六(1859)年8月幕府上使と衝突して親類預けとなったが脱して潜伏し、大老要撃の決定と共に金子孫二郎・高橋多一郎の内意を帯びて黒沢忠次郎と出府し、万延元(1860)年正月23日薩摩藩邸に入った。同年3月3日桜田門外に大老を襲い、重傷を負って脇坂邸に自訴し、即日死んだ。享年21歳。
宮田瀬兵衛(東京都荒川区・回向院)
農民。平生国事を憂いて奔走した。万延元(1860)年3月3日大老井伊直弼襲撃後の3月11日熊本藩邸に自訴し、自ら決行の同盟者であると告げた。ために4月23日揚屋入りとなり、間もなく獄死した。享年47歳。

もへい様寄贈
有村雄助(東京都港区・青山墓地)
薩摩藩士。有村次左衛門の兄。江戸へ出て水戸藩士と交わりが深かった。同藩の有志と結んで井伊大老の襲撃計画を進め、水戸の金子孫二郎と京都に上り、勅書を受けて、これを有志の各藩に告げ、また薩摩の兵で京都守護をはかった。万延元(1860)年3月井伊大老襲撃に参画し、その成功の報に接すると、雄助は金子・佐藤鉄三郎と共に上京の途についた。雄助の出奔を知った江戸藩邸の重役は幕吏に捕えられて後難を生ずる事を恐れ、伊勢四日市で雄助を捕え、藩に護送した。帰国した雄助は藩庁により即夜自刃を命ぜられた。大久保利通ら誠忠組同志は雄助の助命を藩庁に願ったが聞かれず、雄助は兄の有村俊斎(海江田信義)や同志一同に後事を託し、3月23日盟友奈良原繁の介錯により従容として自刃した。享年28歳。
井伊大老襲撃は、元々水戸藩と薩摩藩による共同謀議でした。それこそ井伊大老を殺害後は横浜の外国人商館を襲撃し、さらに薩摩藩兵3000人を上京させて水戸藩とともに幕政改革を推進するはずだったんですが、薩摩藩が脱落したために結局水戸藩浪士を中心の計画へと変貌しました。結局水戸浪士17名と薩摩藩士1名による井伊大老の襲撃は成功したものの、そのあと行われるべき幕政改革にまで及ぶことはできませんでした。しかしその間隙をついて突如表舞台に躍り出たのが長井雅楽の航海遠略策を藩論とした「公武合体派」の長州藩でした。そしてこの辺りから薩摩と長州の朝廷に於ける主導権争いが激化してくるんですよね。
万延元年 桜田門外の変