梁川星巌(京都市左京区・南禅寺天授庵〔右〕)
詩人・志士。19歳のとき志を立て、家産を挙げて弟仲達に譲り、文化四(1807)年笈を負うて江戸へ出た。古賀精里・山本北山らを師として、経史・詩文を研究、その際諸子を驚かせた。一時郷里に帰り、京都に遊び、文化七(1810)年再度上京、諸名士と交わりを結んだが、事志と違い、落魄薄幸望郷の念に堪えず、文化十一(1814)年江戸を出で関東各地を遊歴して文化十四(1817)年秋郷里曽根に帰った。ここで数年梨花村草舎に閑居して詩学を講じ、文政三(1820)年紅蘭と結婚。文政五(1822)年紅蘭と共に西遊し、広島に赴き、頼杏坪を訪ねた。また長崎・諫早・久留米・耶馬溪にも遊び、郷里曽根村の草堂に帰った。在郷一年、その間村瀬藤城・神田柳渓・江馬佃香ら白鴎社の諸詩人と往来した。文政十(1827)年3月京に上り銅駝坊に寓し、頼山陽・日野大納言資愛と交わった。天保三(1832)年秋江戸に下り、10月江戸に到着。巻菱湖宅に寓し、また八丁堀にも住居した。同年2月江戸の大火により星巌の寓居は災に遭い、しばらく水戸藩邸に仮寓した。同年11月神田柳原お玉が池の傍らに新居を開き、玉池吟社と称した。佐久間象山もお玉が池に寓し、常に星巌と国事を論じた。常に天下の名士と往来し、在ること10余年弘化二(1845)年にわかに玉池吟社を閉じ、西帰を決意し、帰郷して歳を送り、弘化三(1846)年京都に入り、鴨川に臨む地に住した。嘉永元(1848)年12月居を華頂山の北に移し、黄葉山房と名づけた。嘉永二(1849)年9月また鴨涯に移り、鴨折小隠と称し、諸勤王の士常に出入りして時局を論じた。安政五(1858)年、幕府が条約調印を決行すると星巌はこれに慷慨し、同志の梅田雲浜らと謀り親王・公卿の間に建言して、ついに攘夷の密勅を水戸藩に降下させた。同年8月閣老間部詮勝が幕命を奉じて京都に入ると星巌は慨然して詩25首を賦して間部に上り、これを諫止せんとした。捕縛命令が出され身柄を拘束される直前の9月2日コレラで死去した。その死に様から世間から「死(詩)に上手」と評された。享年70歳。

梁川紅蘭(京都市左京区・南禅寺天授庵〔左〕)
幼にして美濃国曽根村華渓寺の太随和尚に学び、文化十四(1817)年、従兄の梁川星巌の梨花村草舎に学び、文政三(1820)年3月星巌に嫁した。文政五(1822)年9月星巌に伴われて中国・九州・四国に及び、至るところの名山勝区の間に吟詠して文人墨客と会った。文政十(1827)年3月京に上り、数年流寓し、天保三(1832)年12月江戸に出て、天保五(1834)年には星巌とお玉が池畔に居を定め、玉池吟社を開いた。詩名はようやく天下に高く、名士も来って刺を通じた。依然貧窮ではあったが星巌は晏如としてその楽を改めず、紅蘭もよくこれを助けた。弘化三(1846)年京に上り、鴨折小隠に住し、天下の勤王志士と交わり、西郷隆盛来訪の時は歓待する資もなく、頭上の銀釵を抜き、これを質に入れて応待したと伝えられている。安政五(1858)年9月大老井伊直弼は、星巌を逮捕しようとしたが、すでに数日前に病死していたので、紅蘭を捕らえ同志の姓名、謀議の内容を詰問したが、毅然として答えなかった。獄窓に在ること半年、安政六(1859)年2月16日赦されて自由のみとなった。明治維新の際朝廷は星巌の忠勤を嘉し、祭祀の典を挙げ、紅蘭が夫星巌の勤王を補佐した功を賞して特に二人扶持を賜った。紅蘭はまた画法を中村竹洞に学び、山水花卉に巧みで、筆力勁健、気韻清高、奇才麗筆、よく男子を凌ぐものがあった。明治十二(1879)年3月29日没。享年76歳。
信海(東京都荒川区・回向院〔上〕/京都市東山区・清水寺〔下〕)
勤王僧。兄月照と共に僧となって名を信海と改め、天保元(1830)年光乗院の住職となる。のち高野山で修業し、万勝院の住職兼勧学院の庶務を担当した。安政元(1854)年2月兄職を辞するに及び、清水寺成就院に移り紫衣を許された。安政五(1858)年尊攘の議論沸騰するや、悲憤のあまり護摩法を修して攘夷を祈願し、特に青蓮院宮のために円通寺において祈祷を行った。幕吏これを聞き、江戸に護送し尋問したが、口を割らずついに安政六(1859)年3月18日伝馬町の獄に病死した。享年39歳。
安島帯刀(茨城県水戸市・酒門共有墓地)
水戸藩家老。天保七(1836)年家督を継ぎ、同年山陵修営のことを上書した。天保十一(1840)年勘定奉行に挙げられ、ついで小姓頭取となった。弘化元(1844)年藩主斉昭が処罰されると雪冤に奔走して役禄を召上げられ、謹慎に処せられた。安政三(1856)年には再び登用されて側用人となり、藩政の改革、斉昭の幕政参与に与って力があった。安政四(1857)年12月同藩建造の軍艦旭日丸完成して幕府より恩賞を受けた。安政五(1858)年7月家老に進み、一橋慶喜の擁立運動には福井藩士中根雪江、一橋家の平岡円四郎らと策動した。同年8月降勅問題が起り、たまたま同藩士鵜飼吉左衛門の帯刀に送る密書が幕吏に押さえられ、除く奸計画が露見して大獄の端緒となり、帯刀も安政六(1859)年4月24日に至って評定所に召喚され、ついで拘禁されて九鬼家に預けられ、同年8月27日切腹に処せられた。享年48歳。

東京都荒川区・回向院

茨城県水戸市
常盤共有墓地
鵜飼吉左衛門(京都市東山区・長楽寺)
水戸藩士。文政七(1824)年7月鄰姫付となり、歩行士列に班して取次役見習となる。天保元(1830)年末小十人列、天保四(1833)年7月京都留守居役手添となり、天保十四(1843)年3月馬廻役に進み京都留守居役となる。弘化元(1844)年藩主徳川斉昭が幕譴を蒙るや、公卿の間に斉昭の無実を訴えて職を奪われ、水戸に移った。嘉永六(1853)年3月復職して上京し、安政三(1856)年8月勝手掛を兼ねた。在京中の斉昭の内意を受け、公卿の間に出入して攘夷の義を唱え、また藩命により楠木氏の遺蹟をもとめて河内・和泉の諸寺を歴訪した。安政五(1858)年正月老中堀田正睦入京して外国互市を開くべく朝裁を迫るや、子幸吉と共にこれが阻止に努め、将軍継嗣問題には一橋慶喜擁立に奔走した。同年8月8日武家伝奏より勅書を拝受したが病のため幸吉を代理として江戸に行かせた。同年9月18日に至り、ついに吉左衛門父子は町奉行所出頭を命ぜられ、また吉左衛門より日下部伊三治・安藤帯刀に送る密書が同月20日幕吏に押収されて禁固され、ついで江戸に檻送され、安政六(1859)年3月五手掛の糾問を受け、8月27日死罪に処せられた。享年62歳。
鵜飼幸吉(京都市東山区・長楽寺)
水戸藩士。年少にして砲術師範福地政次郎について神発流砲術を学び、安政二(1855)年と翌年の両度武芸出精により賞せられた。安政三(1856)年2月小十人組に列して京都留守居役手添となった。安政四(1857)年京都留守居助役となり、父と共に在京した。有志と交わって攘夷の議に加わり、しばしば意見を公卿の間に陳述した。安政五(1858)年8月同藩に勅書が降下するや、姓名を小瀬伝左衛門と変え、父に代わってこれを江戸小石川邸に届けた。老中間部詮勝の京都に入るに及び、父と共に捕えられ、江戸に檻送されて高田藩邸に禁固となり、安政六(1859)年8月27日死罪梟首に処せられた。享年32歳。
茅根伊予之介(東京都荒川区・回向院〔上〕/茨城県水戸市・常盤共有墓地〔下〕)
水戸藩士。藤田東湖・会沢正志斎に学び、天保十三(1842)年床机廻に選ばれ、翌年弘道館舎長となった。弘化元(1844)年徳川斉昭の致仕とともに藩内党争が表面化し、正志斎の罷免と進退を共に死手辞職し、家塾を開いて後進の教育に任じた。苦節10年、斉昭の国政参与の安政元(1854)年弘道館訓導に挙げられ、翌年郡奉行、ついで奥右筆頭取、安政四(1857)年小姓頭取に累進して枢機に与って功労があった。安政五(1858)年池内大学を介して一橋慶喜の将軍継嗣問題に奔走し、同年6月大老井伊の日米条約調印に対して善後策を諸藩の有志と計った。安政六(1859)年4月家老安島帯刀と共に評定所に呼出され、5月竹中邸に拘束されて審問を重ね、同年8月27日死罪に処せられた。享年36歳。

もへい様寄贈
藤井尚弼(京都市左京区・霊山墓地/東京都台東区・海禅寺〔左〕)
西園寺家諸大夫。天保十三(1842)年11月従六位下但馬守に叙任され翌年但馬守に進み、家職を継いで諸太夫となり、ついで弘化三(1846)年6月治部大丞に任じ、安政四(1857)年正月従五位に叙せられた。生来勤王の志厚く、尊攘派志士と交わって国事に奔走、そのため幕府の忌嫌に触れ、安政の大獄に際し、安政五(1858)年9月捕縛され、安政六(1859)年正月江戸に檻送、小倉藩邸に預けられていたが、八月初旬より重傷の脚気に罹り、9月1日全身衰弱で没。享年35歳。

もへい様寄贈
梅田雲浜(福井県小浜市・松源寺/東京都荒川区・回向院/東京都台東区・海禅寺〔右〕/京都市東山区・安祥院)
小浜藩士。天保元(1830)年江戸に出て崎門学派の藩儒山口菅山に学び、業成って帰国するや、祖父の本姓梅田氏を冒した。ついで大津に寓して上原立斎に学び、その女信子を配せられ、同地に湖南塾を開いて子弟を教授した。天保十四(1843)年29歳の時に京都に移り、望楠軒の講主となった。学派の総帥としての名は高かったが収入は伴わず、その妻信子をして「樵りおきし軒のつま木も焚きはてて、拾ふ木の葉のつもる間ぞなき」と詠わしめた。雲浜の講学の目的は専ら経世済民にあり、しばしば藩政および外寇防御の問題を藩主酒井忠義に建言し、かえってその忌諱に触れ、嘉永五(1852)年32歳で士籍を除かれた。嘉永六(1853)年米艦来航するや、江戸に馳せて同志と対策を協議し、さらに水戸・福井に遊説を試み、露艦が大坂湾に進入するや、その撃攘策を講じた。「妻ハ病牀ニ臥シ児ハ飢ニ叫ク」云々の有名な詩はこの時の作である。ついで長州に赴いてその藩士の奮起を促し、安政五(1858)年条約問題が起るや門人の青蓮院宮家臣伊丹蔵人・山田勘解由の斡旋によって宮に謁し、その諮問に応えて、条約不可、時に臨んでは攘夷親征に及ぶべしとの幕府への勅答案に擬した意見書を上った。また梁川星巌と共に在京志士の牛耳をとり、一橋慶喜を将軍継嗣とすることに尽力し、あるいは大老井伊直弼を斥けて幕府の改造を図ろうとし、この間、大義名分を説いて志士を指導した。同年8月水戸藩に降下した戊午の密勅も、青蓮院宮に上った雲浜の意見書が朝議の参考になったものである。これが大老の謀臣長野義言の知るところとなり、9月7日烏丸の寓居で伏見奉行の手によって捕えられ、12月江戸に檻送、小倉藩主小笠原忠嘉邸に預けられたが、幽囚中病にかかり、安政六(1859)年9月14日病死した。享年45歳。
2004年8月の調査に向けてタンクバッグなどを実装したゼルビスの練習航海を兼ねて小浜・敦賀に行きました。朽木経由だったのですが意外にも2時間ほどで現着しました。さてそれじゃ梅田さんの御墓はどこかいな?と準備した『全国幕末維新殉難者墓所総覧』を見たら…載ってない!何と登録し忘れてたんですねぇ。だからといってしょうがないかって帰るわけにも行きませんから、まずは近くのコンビニへ入って情報収集・・・。しかしいくら幕末の名士とは言っても観光客を集められるほどのものではないのか、どの観光誌を見ても載ってませんでした。それでも「梅田雲浜像」があるということだけは判明したのでそこに行けば何かわかるかな?と早速移動しました。小浜中央公園に着くと梅田さんの銅像のほか杉田玄白の石碑(近くに銅像もありました)、C58ー171号機(トップナンバーは梅小路に…ってそんな話はここでは関係ないか)が置かれていました。しかし肝心な御墓の手がかりを?むことはできず、やむなく駅の観光掲示板を探ってみることに。途中大きな本屋があったのでちょっと探ってみましたが…駄目でした。そして駅前での観光案内地図で松源寺にあることが判明!やっとの思いで御墓にたどり着くことができました。しかし本墓は東京…いつ行けるのかなぁ?

追記…2005年に東京行きました…でも…諸々あって行けませんでした♪ 雲浜先生ごめんなさい…。

そしてさらに2006年、もへ様が東京の写真を送ってくださいました!それに刺激を受けていきなり安祥院まで撮りに行ってしまったんですねぇ。これで全部かな?もへい様ありがとうございました。
三条実万(京都市右京区・二尊院)
堂上公家。光格・仁孝・孝明の三天皇に歴仕し、人格円満にして才識の誉高く、今天神の世評を得た。文化二(1805)年2月叙爵、累進して文化十一(1814)年12月従三位に叙せられ、文政七(1824)年6月権大納言に進む。ついで天保二(1831)年9月議奏に挙げられ、嘉永元(1848)年2月武家伝奏に転じ、安政四(1857)年4月これを辞し、翌月内大臣に任ぜられ、安政五(1858)年3月辞任したが、特旨をもってなお朝議に参与せしめられた。議奏・武伝在職の間、外警の発生に伴って暫時緊切になった朝幕関係に処すると共に朝権の回復に努めるところあり、また学習所の創設・堂上子弟の風紀の粛清、貧窮公家の救済などにも力を労した。安政五(1858)年日米通商条約勅許の問題が起るや、勅許反対の立場に立って朝議の推進に当り、また将軍継嗣問題については一橋慶喜の擁立に賛成し、廟堂内の一橋派の中心人物として大いに周旋に努めた。ついで条約の違勅調印が強行され、国内の紛糾が甚だしくなるに至り、近衛忠?・鷹司政通・輔?父子らと共に幕府及び水戸藩に時局匡救に関する勅諚を下すことに尽力し、また佐幕派の関白九条尚忠の排斥運動を行った。このため安政の大獄の起るや、幕府の追及するところとなり、安政五(1858)年10月外交事件の廷議に参与するのを辞し、12月洛外上津屋村の別邸に隠棲したが、天皇の庇護も力及ばず、幕府の強請により、安政六(1859)年4月落飾・慎を命ぜられた。よって澹空と号して洛北一乗寺村に幽居し、10月病気危篤に際し、謹慎を解き、従一位に推叙せらる。10月6日死去。享年58歳。文久二(1862)年贈右大臣、明治三十二(1899)年贈正一位。なお明治十八(1885)年京都にその祠を建て、梨木神社と号し、別格官幣社に列せられた。
飯泉喜内(東京都荒川区・回向院)
三条家家士。京都より江戸に出て浅草蔵前の豪商某の手代となり、のちに一戸を構え、かたわら読書を能くし名士と交わった。のち旗本曽我権右衛門の抱医師飯泉春堂を迎えておのが娘に配し、これより飯泉姓を名乗り士分に列した。勤王の志を抱き広く志士と通じ、京都に上って三条家家臣となり、鷹司家家司小林良典・蔵人所衆村井正礼らと交誼を結び、帰府後も江戸・京都の間にあって情報連絡の任に当たった。また将軍家定の継嗣問題について、一橋派に与して橋本左内・丹羽正庸らと画策し、「折の一言」を著わして幕府の失政を批判するなど国事に奔走した。安政五(1858)年9月下田奉行手付書役大沼又三郎の手引で下田の露人陣営を探索した疑いによって捕えられた。家宅捜査によって多数の書類が押収され、志士との往復が判明し、これが手掛かりとなって安政の大獄に発展した。そのときの調書に喜内の名が第一番にあるので、世人はこれを飯泉喜内初筆一件と称した。安政六(1859)年10月7日、厳しい糾問の末橋本左内・頼三樹三郎・吉田松陰らと共に死刑に処せられた。享年55歳。
橋本左内(東京都荒川区・回向院)
福井藩士。嘉永元(1848)年6月15歳のとき「啓発録」を著わす。嘉永二(1849)年冬上坂、緒方洪庵の適々斎塾に入門、蘭方医学を学ぶ。嘉永五(1852)年閏2月父の病気のため帰国し、11月家督相続、二十五石五人扶持の藩医となる。安政元(1854)年3月21歳で上府し、杉田成卿・戸塚静海らに蘭学を学ぶとともに、藤田東湖・西郷吉兵衛(隆盛)ら他藩士と交渉を持つ。安政二(1855)年10月医員を免ぜられて御書院番となり、宿願の政治の舞台に乗り出すが、安政三(1856)年頃には英・独語をさえ理解しうるに至ったと推察される。同年7月藩校明道館講究師同様心得、安政四(1857)年正月学監同様心得となり、政教一致・実学精神をとなえて大いに学風を改革し、洋書習学所をもうけて西洋学術の摂取を奨励した。同年8月藩主松平慶永の主唱する将軍継嗣(一橋慶喜擁立)運動の周旋を命ぜられると、英明の将軍家を中心とする封建的統一国家の構想のもと、積極的外交・外国貿易の促進を説き、ロシアとの攻守同盟の必要を論じた。安政五(1858)年2月上京、慶喜への内勅降下と老中堀田正睦に通商条約の勅許あるよう公卿の間で奔走したが、失敗に終わった。同年4月御側向頭取格・御手許御用掛、役料一五〇石となる。同月井伊直弼の大老就任後も紀州慶福に対抗して運動を継続、6月慶福決定後は井伊の失脚をはかったが、7月慶永が隠居・急度慎を命ぜられると一切の政治運動を抛棄・断念し、謹慎の生活に入る。10月幕吏の捜索を受け、福井藩士滝勘蔵方に預けとなり、以後8回の訊問を受ける。藩関係者の多くは楽観視し、取調べの幕吏も左内の真意が幕府扶翼にあったことを認めたが、将軍継嗣決定という重大事に関係したことが軽輩の身分をこえた行為とされ、同年10月7日江戸伝馬町獄舎において刑死。享年26歳。
安政の大獄といえば松陰さんと共に必ず名前の挙がる橋本さんですが、門弟の活躍した松陰さんと比べると、処刑されるほどのことをやったような印象が薄い気がします。まぁ井伊大老の匙加減という要素もあるんでしょうが、当の橋本さん自身はかなり将軍継嗣問題に深く関わっていたとはいえ、日本のため・幕府のためというスタンスだったと思いますから処刑されるとまでは考えなかったかもしれませんね。
墓碑は傷みが激しいために保護されていますが、思いっきり道路に面してるので排ガスなどでやられないものかどうかそれが心配になりました。しかし2年後、2007年に見たらすっかり表から立ち退いてました。これで一安心?。
頼三樹三郎(京都市東山区・長楽寺〔上〕/東京都荒川区・回向院〔下〕)
天保十一(1840)年大坂に下って後藤松陰の塾に寓し、かたわら篠崎小竹に学んだが、十四(1843)年来坂した羽倉簡堂に伴われて江戸に遊学、昌平坂学問所に入ったが、朝廷を蔑視する幕政に反対し、上野寛永寺の徳川氏の石燈を倒したかどで退寮を命らぜれた。弘化三(1846)年蝦夷地に渡り、江差で松浦武四郎と一日百詩・百印の雅興をたのしんだ。嘉永二(1849)年京都に帰って家塾を守り、四方の志土と交わり、尊王の大義を唱えて幕政の非を鳴らした。安政二(1855)年母を喪って以来、家を忘れて国事に奔走、父の旧友梁川星巌および梅田雲浜らと有志公卿の間に往来し、しぼしぼ意見を開陳した。同五(1858)年将軍継嗣問題には一橋派と結んで公卿間に入説した。同年8月戊午の密勅が水戸藩に降下すると間もなく幕府は安政の大獄を起し、11月これに連座して捕えられて六角の獄に下り、翌六年(1859)正月江戸に檻送され、訊間の後、10月7日小塚原にて死罪に処せられた。
長楽寺は円山公園の裏にあり(すぐ隣が東大谷廟、新撰組島田魁さんの御墓がありました)一遍上人開基のお寺で、その一角に頼家の廟があり、あの頼山陽の御墓もここにあります。
吉田松陰(東京都世田谷区・松陰神社〔1〕/東京都荒川区・回向院〔2〕/山口県萩市・護国神社〔3〕/山口県下関市・桜山招魂場〔4〕)
萩藩士。数え年5歳で伸父吉田大助の仮養子となり、翌年山鹿流兵学師範吉田家を嗣いだ松陰は、叔父玉木文之進、山田宇右衛門、長沼流兵学の藩土山田亦介らにつき、11歳の時、藩主毛利敬親に「武教全書」を講じた。嘉永二(1849)年20歳の時は長州沿岸、翌年は九州を巡遊、当時の幕藩体制の矛盾や外圧を身をもって感じた。嘉永四(1850)年兵学研究のため藩主に従って江戸へ行き、以後安積艮斎・古賀茶渓・山鹿素水・佐久間象山らに従学し、剣を藩士平岡弥三兵衛門下に学んだ。その年12月、江戸から東北へ歴遊、この藩邸亡命の罪で士籍を削られ世禄も奪われた。しかし、逆にこれによって自由となり、藩も松陰の遊学を認めた。時に嘉永六(1853)年6月ペリー来航の報をえて浦賀に赴き、黒船を眼前に見て幕藩体制の矛盾と幕府の短命を予見、佐久間象山のすすめもあって外国行を決心、当時長崎来泊中の露艦に投じようとして失敗、翌安政元年再度来航の米艦をひそかに訪れて拒否される。この罪によって江戸の獄に下り、のち萩野山獄へ、さらに実家杉家に幽閉される。以後読書三昧、安政四(1857)年11月玉木文之進がおこし外叔久保五郎左衛門がその名を襲用していた松下村塾を主宰、死までの僅かな期問に高杉晋作・久坂玄瑞・伊藤博文・山県有朋ら約80人の門人を輩出した。安政五(1858)年の幕府の違勅調印という事態に直面して直接行動を計画、老中間部詮勝の暗殺を企てたとして投獄される。折悪しく大老井伊直弼による安政の大獄が始まり江戸に護送され、遠島のところ井伊自身の手によって斬首と改められる。その絶望の中ではじめて「草葬堀起」論に到達し、変革の担い手は在野の志士であり、百姓一換のエネルギーを無視できないことを自覚した。安政六(1859)年十月二十七日、伝馬獄にて斬首された。
吉田松陰生誕の地の途中にあり、一族から松門まで多数の墓石があります。ここで偶然玉木家の御墓を管理しているという齢80くらいの古老に会い、玉木家や杉家の遠祖のことなどいろいろお話を聞かせていただきました。その古老こそ岡頼正翁で、今回の企画の趣旨を伝えると「そりゃいい」と喜んで下さったのが印象的でした。

そんな松陰さん終焉の地が江戸ということで、2005年夏、行って参りましたよ花のお江戸へ。4泊の逗留地として定めたのがたまたま南千住でした。小塚原刑場址地と言っても過言ではない場所で寝起きしてたんですねぇ。回向院では松陰さんを囲むように安政の大獄殉難者、桜田門外の変関係者、坂下門外の変関係者他の御墓がありましたが、ここは最初に松陰さんが埋葬されたところになります。文久三(1863)年正月罪が許されて、当時毛利大膳大夫(要するに毛利家)の別邸があった大夫山(世田谷)に改葬されました。その際に門弟だった高杉さんが上野にある将軍家限定の三枚橋を通ったの何のって話があります。まぁ後年作られた伝説だって話もありますが…。
宇喜多一(京都市左京区・霊山墓地)
画家。若年のころ絵を田中訥言に学び、大和絵の古法を習得して一機軸を出した。そのころは名を香と称し、画院生徒とも自称した。和歌・書道にも長じ、京都で活躍したが、嘉永六(1853)年には一時江戸に出て隅田川の辺に寓居を構え、昔男精舎と業平に因んで称した。江戸滞在中に米艦が浦賀に入った。このころ画を求める者には「神風夷艦を覆すの図」を描いて与え、時勢を風刺したという。安政元(1854)年皇居造営に際して「列女伝周宣姜」を西対屋に描き、公武合体を風刺して婚怪草紙を作るなど、その志を絵事に寓するとともに、また尊攘志士山本貞一郎らと交わりを結び、その入説を青蓮院宮・三条実万らに周旋し、あるいは時務策を建言するなど、国事に奔走した。そのため安政五(1858)年の大獄に連座して、子可成と共に京の獄に?がれ、12月江戸に檻送され、安政六(1859)年10月所払の刑に処せられ、出獄して京都に帰ったが獄中で得た病により11月14日没した。享年65歳。
月照(鹿児島県鹿児島市・南洲寺/京都市東山区・清水寺)
京都清水寺成就院住職。文政十(1827)年15歳にして幼名宗久として京都清水寺成就院に入室、叔父蔵海の弟子となり、天保六(1835)年23歳で師に代って住職となった。安政元(1854)年2月寺務を弟信海に譲り、以後、尊攘運動に身を投じた。すなわち、水戸藩の京都手入には、鵜飼吉左衛門・梅田雲濱らの志士と結んで、密勅降下の画策に最も努めた。ために、安政の大獄では幕府の追及を厳しく受けた。安政五(1858)年9月近衛忠?の勧説に従い、薩摩藩の西郷吉兵衛(隆盛)・有村俊斎(海江田信義)らに護られて難を大坂に避け、ついで海路九州に逃れ11月平野国臣と共に辛うじて鹿児島城下に入った。しかし、薩摩藩は難が及ぶの恐れ、、その滞在を許さず、日向に移そうとするに至った。かくして同月16日西郷隆盛と相擁して錦江湾に入水自殺を遂げた。享年46歳。
小林良典(東京都荒川区・回向院〔上〕/京都市東山区・霊山墓地〔中〕/東京都世田谷区・松陰神社〔下〕)
世々鷹司家諸大夫の家で、安政の初め正四位下に叙し、民部権大輔に任じ、筑前守を兼ねた。資性豪胆で才略に富み、関白家の家職を執って高名があり、他面時に威権を弄し、人より恐れられたともいわれる。尊王攘夷の志し深く、青蓮院宮尊融法親王・近衛忠?・三条実万らの貴紳に出入すると共に日下部伊三治・橋本左内らの志士と交わって国事を議し、公家家司中の最有力者と目された。安政五(1858)年春以降将軍継嗣の選定、日米条約の勅許、水戸賜勅等の事件をめぐって政局が紛糾した際、前関白鷹司政通を説いて開国支持より攘夷支持に転向させ、また橋本左内の入説によって一橋慶喜の将軍継嗣擁立に尽力し、政通・輔?父子をして一橋党たらしめた。同年9月幕府が安政の大獄を起すや、これに座して就縛、江戸に檻送せられ、安政六(1859)年8月水戸・福井両藩の京都入説を斡旋したことなどを罪状として遠島に処せられた。後、これを改めて肥後人吉藩に永預となったが、11月19日配所に赴くに先立ち獄中に病没した。享年52歳。
六物空満(東京都荒川区・回向院/京都市東山区・霊山墓地)
大覚寺門跡家臣。堺の人松浦南陽に就いて医術を修め、また天文暦数にも長じたという。大覚寺門跡の家臣となり、寮病院の別当に補せられた。資性壕侠でで尊王の志深く、嘉永六(1853)年米艦渡来の際に朝旨を体して掃攘の祈願を修し、また近衛家老女村岡・僧月照らと結んで公家・志士の間に出入りした。安政五(1858)年12月安政の大獄に座して就縛、江戸に檻送され、安政六(1859)年10月みだりに御命運を占察し、御祈祷を奉修したこと等を罪状として遠島に処せられたが、11月配所に出発前獄中に病死した。享年59歳。
安政六年 安政の大獄