島津斉彬(鹿児島県鹿児島市・旧福昌寺)
薩摩藩主。曽祖父重豪と母賢章院の教育により早くから英明の聞え高く、またヨーロッパ文明を輸入し洋学者を招き、蘭書を翻訳させて西洋科学の研究・実用化に積極的であった。弘化三(1846)年世子であった時に琉球問題に当るために藩地に帰った。父斉興の重臣および側室由羅らがその子久光を継嗣にしようとの動きから、斉彬を推すものたちが大量に処刑された高崎崩れが起ったが、かえって幕府の老中阿部正弘らの後援をうけ、嘉永四(1851)年斉彬は43歳でようやく襲封した。斉彬は西郷隆盛らの下級革新派を用い、まず養女篤姫を将軍家定夫人として幕府に対する発言力を強めた。また水戸の徳川斉昭、越前の松平春嶽、宇和島の伊達宗城および幕府の主席老中阿部正弘らと早くから親交があった。ペリーの来航により外交問題が重要問題となり、また将軍継嗣問題が起ると春嶽らと共に斉昭の子一橋慶喜擁立の運動をした。西郷らをして越前の橋本左内と緊密な連絡を取らせ、近衛家を通じて朝廷に強力な運動を行った。しかし井伊直弼が大老に就任し米国と安政条約を結び、紀州の徳川慶福を将軍世子に決定したので斉彬らの運動は功を奏さなかった。斉彬は世子としての期間が長く藩主として彼自身の経綸を行ったのは僅か7年に過ぎなかったが、藩政を改革し藩の富国強兵策を率先して強力に実行した。すなわち鹿児島城下の磯邸内に大反射炉を築くとともに熔鉱炉・鑽開台・硝子製造所(薩摩ガラス)・電信機・電気・地雷等からガス燈・写真術をはじめ諸種の設備を設けこれらを総称して集成館と称したが、盛時には使用職工人足が1200人に及ぶ一大軍事工場地帯を造り上げた。このほか斉彬は外国型帆前船・西洋型軍艦・蒸気船等の洋式造船事業を行った。また教育と士風の改革にも力を用いしばしば論達を発したが、安政四(1857)年に造士館および演武館に関して下した十箇条の訓諭は斉彬の教育に対する根本理念を示したもので、教育者としての斉彬の偉大さを示している。安政五(1858)年、斉彬は他日を期して天保山調練場に銃砲隊の操練を閲し、その帰途病を得て7月16日不幸にして急逝した。享年50歳。
斉彬公はある意味親近感を感じますねぇ。失礼ながらあの好奇心と探究心と行動力は当時の人、特に殿様としては桁外れですからね。自分もそうありたいって一種あこがれますよ。ただねぇ…決定的な違いは生まれと育ちと統制力と経済力!要するに私には自分以外何もないってことか…
野宮定祥(京都市上京区・廬山寺)
堂上公家。文政七(1824)年閏8月左近衛権少将に任じ、天保元(1830)年12月左近衛権中将に進み、天保六(1835)年12月参議となり、従三位に叙せられた。天保十一(1840)年7月東宮(孝明天皇)三卿に補され、その践祚に至るまで側近に仕えた。弘化三(1846)年石清水八幡宮臨時祭に際し、孝明天皇とくに外患を祈禳するや、その勅旨を奉仕した。その後嘉永元(1848)年2月権中納言正二位に進み、その間、弘化三(1846)年2月議奏加勢に補され、嘉永元(1848)年2月議奏に進んで朝政にあずかったが、嘉永四(1851)年5月これを辞し、安政元(1854)年6月祐宮(明治天皇)非常付となり、権大納言に進んだ。安政五(1858)年9月2日没。享年59歳。
安政五年