もへい様寄贈
阿部正弘(東京都台東区・谷中霊園)
福山藩主、老中。天保七(1836)年12月兄正寧隠居の後をうけて福山藩主となる。天保九(1838)年奏者番となり、天保十一(1840)年11月寺社奉行となる。天保十二(1841)年中山法華経寺僧侶の女犯事件を処断した。天保十四(1843)年閏9月わずかに25歳で老中に昇進し、弘化元(1844)年7月勝手掛を命ぜられ、この月海防掛がおかれたとき、その一員に列した。弘化二(1845)年2月水野忠邦罷免後、老中首席の地位に就いた。彼はまた、諸藩の改革派にも理解を示した。薩摩藩の改革派に擁せられた島津斉彬を危機から救い、嘉永四(1851)年2月無事藩主たらしめたのも、正弘の尽力によるところが大きい。米国使節ペリーが渡米して開国を要求すると、彼は攘夷を排して開国の政策をとり、安政元(1854)年3月日米和親条約が締結された。さらに彼はペリーのもたらした米国の国書を諸大名や幕臣に示して、忌憚のない意見を提示させた。これは天下の大政は幕府の独裁である事を建前とする政治のやり方に変革を導入する始まりとなった。米艦の渡来後、彼は有力な大名との協調に努めた。まず嘉永六(1853)年7月前水戸藩主徳川斉昭を海防参与にあげた。また薩摩藩主として令名があり、かつ外様の大広間詰大名の中心人物である島津斉彬との接近には特に意を用いた。そのため安政三(1856)年12月斉彬の養女篤姫を将軍家定の夫人にいれている。また徳川一門での有力者越前藩主松平慶永とも緊密な接触を保った。しかし親藩・外様諸侯との接近は、井伊直弼を指導者とする溜間詰大名との関係を悪化させたので、安政二(1855)年10月溜間詰の堀田正睦を老中に再起用し、しかも老中首席をも堀田に譲って、溜間詰との摩擦回避をはかった。彼は黒船渡来後の時勢の変化に応じて、永井尚志・岩瀬忠震をはじめ少壮有為の人材をしきりに要職に登用した。安政二(1855)年2月講武場(のちの講武所)を、7月長崎に海軍伝習所を設けたのをはじめ、洋式兵術の導入に努めた。また同年6月洋学所(のち蕃書調所・開成所と改称)を創設し、西洋文化の吸収を企てた。彼は幕政全般に改革を加えようとしたが、安政四(1857)年6月17日業半ばにして病死した。享年39歳。
安政四年