結城寅寿(茨城県水戸市・清巌寺)
水戸藩士。文政六(1823)年近藤儀大夫について手習読書を始め、勤学の聞え高かった。天保四(1833)年江戸藩邸に召されて小姓となり、天保十一(1840)年小姓頭を経て若年寄に進んだ。天保十二(1841)年、側用人藤田東湖と勝手改正掛に任じ、財政整理に当った。天保十三(1842)年3月執政となり、不和の旧家世臣を招慰して勢力を扶植し、藤田東湖・戸田銀次郎の一派と隠然相対するようになった。天保十四(1843)年藤田派の今井金衛門を寺社奉行に任じて寺院破却の主任とした。弘化元(1844)年4月幕府は斉昭を江戸に召し、5月藤田東湖らと随従して出府したが、同月6日斉昭は致仕謹慎を命ぜられ、戸田・藤田・今井らは禁固に処せられた。同年8月に至って寅寿は執政を免ぜられ、表勤となる。弘化四(1847)年9月老中阿部正弘は寅寿の処罰を命じ、藩庁は10月24日隠居を命じ、家禄五百石を召し上げた。嘉永六(1853)年10月16日松平松之丞の陣屋に幽閉され、安政三(1856)年4月25日死罪に処せられた。享年39歳。
広瀬淡窓(大分県日田市・長生園)
儒者。広瀬氏は武田信玄に仕え、のち日田に移り、府内・岡・黒田などの諸藩の用達を勤めた。淡窓は寛政九(1797)年筑前の亀井南冥・昭陽に学んだが、寛政十一(1799)年病を得て帰省、文化二(1805)年家業を弟久兵衛に譲り儒を業とし、長福寺の学寮を借りて講学の基を開き、文化三(1806)年成章舎で子弟を教え、文化四(1807)年桂林園を開いて塾生は激増、同園に収容困難となり、文化十四(1817)年堀田村に咸宜園を開き教育に専心した。淡窓一代における門弟合せて4000人に及んだ。その教育は厳しく敬天を主とし古今和漢を折衷した。弟子に高野長英・大村益次郎・谷口藍田らがある。安政三(1856)年11月1日没。享年75歳。
日本近代教育発祥の地される咸宜園。そのためか教育関係で訪れる方も多いようです。説明してくださる方もユニークで、どこから来たのか聞いておいて「相模国からですか」と旧国名に直してくださいました。ただ私が「京都から」と言ったときに、「京都…どこの国ですかね?」と問い返されたのはびっくり。考えてみたら京都は京都で昔から通用してますからね。いちいち山城国っていうのは宇治とか郊外の方でしょうか?。
安政三年