村田清風(山口県大津郡三隅町)
長州藩士。代官の子として生まれ、寛政九(1797)年15歳で藩校明倫館に入学、成績優秀、文化三(1806)年明倫館書物方となる。翌々年嫡子雇として手廻組に加え小姓役を命ぜられた。江戸では塙保己一を問い、さらに兵学を講究し海防問題に関心を持つ。文政二(1819)年37歳で家督を継ぎ、以後御用所右筆添役・当職手之役・撫育方頭人等を歴任、天保二(1831)年表番頭格に列し、当役座用談役となり、藩政の枢機に与る。天保九(1838)年表番頭にて地江戸両仕組掛となって藩政改革に着手、天保十一(1840)年江戸当役用談役として本格的に天保の改革を実施、主導した。とくに財政・民政に手腕を振るったが、天保十五(1844)年反対派の坪井九右衛門らに主導権を譲った。しかしその後の周布政之助らの改革に大きな影響を及ぼした。藩政を退いてからは、天保十四(1843)年に落成した三隅山荘尊聖堂で子弟の教育に当り、他方「病翁寝言」「遼東の以農古」「海防糸口」等多数の海防関係の書物を著した。安政二(1855)年江戸方内用参与を命ぜられたが中風再発により5月26日死去。享年73歳。
村田さんは周布さんの師匠ですから、いわば村田さんの延長線上に正義派がいるわけです…かね?
三隅町は実は今回の2004年度の調査予定には入ってませんでした。本当は萩直行だったんですが、たまたま、た〜またま三隅町の辺りで豪雨になってしまいまして、やむなくコンビニかどっかに避難しようとしてコースを外れたんですが…田んぼと家ばっかり!(三隅町の方ゴメンナサイ)。このまま濡れながら走るのかって思ってるときに出会ったのが「村田清風記念館」でした。周りが周りだけにことさら立派な施設に感じてしまいましたが(またまたゴメンナサイ)、中も立派な上天候のせいか私一人で展示物を眺めるのは、貸切みたいで一人つかの間の悦に浸ってました。その後雨がやんでから村田さんの墓所に行ったのですが、雨降り後だったためか参道にうようよカニがいて、さながらカニの花道状態でした。しかも田んぼの多いところですし、墓所も参道があるとはいえ山の中ですからどっかでマムシにでも襲われるんじゃないかとかなりビクビクしてました。
藤田東湖(茨城県水戸市・常盤共有墓地)
水戸藩士。年少より文武の修行に出精、文政十(1827)年家督を継いで二百石を賜り、進物番となる。史館編修、同総裁代役に進み、文政十二(1829)年藩主継嗣問題で徳川斉昭を擁立して奔走した。天保元(1830)年郡奉行に挙げられるや、経世済民に留意し、しばしば藩主斉昭に封事を呈し、人心一新の要を唱え、武備充実、庶政刷新の急務を強調した。江戸通事御用役を経て天保十一(1840)年側用人となる。この間土地改正掛、弘道館造営掛等に任じ、斉昭の左右に侍して藩政改革に尽力した。天保十二(1841)年結城寅寿と共に勝手改正掛を命ぜられた。弘化元(1844)年5月斉昭に随従して出府したが、斉昭罪せられて致死謹慎を命ぜられ、東湖また職を免ぜられて閑居の身となり、、同年9月に至って禄を奪われた。嘉永三(1850)年末許されて水戸に移り、ついで嘉永五(1852)年春慎を解かれ、これより東湖と号した。閑居年余にしてペリー来航に際会し、斉昭幕政に参与するに及んで江戸藩邸に召され、嘉永六(1853)年7月海防掛に任じて江戸詰となり、再び斉昭を補佐して藩政に参与した。同年11月18日藩主慶篤より手書を賜わり、名を誠之進と改めた。安政元(1854)年正月側用人に復し、安政二(1855)年9月学校奉行を兼ね、通計六百石となる。同年10月2日関東に大地震が起り江戸の官舎にて圧死した。享年50歳。
常盤共有墓地の奥の方におられましたので、たどり着くまでに随分時間がかかりましたよ。お父上の藤田幽谷さんと同じ墓所でした。しかしなぜか小四郎さんは随分離れた場所にありました。
千葉周作(東京都豊島区・本妙寺)
北辰一刀流開祖。15歳のとき父に随い、浅利又七郎につき小野派一刀流を学ぶ。浅利の師中西猪太郎につき頭角をあらわした。のち文政年中上毛から甲武駿遠参信の諸国に遊行し、他派の剣客と技を競い、名声をあげるとともに多数の門人を得た。中西の一刀流と祖千葉常胤の伝える北辰流をあわせ、北辰一刀流を編み出し、撃剣道具を改良完備して、新しい剣法を拓いた。文政・天保の間に江戸神田のお玉ヶ池に玄武館を開設した。隣接した東条一堂の学塾とあわせ、文武の修練に励むものが多く、幕末の志士の多数を送り出した。天保十(1839)年4月、水戸藩主斉昭の招請に応じ、天保十二(1841)年6月には一〇〇石を給せられ、馬廻役となり、その後中奥に進んだ。安政二(1855)年12月13日没。享年62歳。
安政二年